72:ガラスの靴
――西暦二二〇四年一月二十一日
アメリカ合衆国 オレゴン州 某所住宅地
空き家を根城にしてから十日が経過した。
ここの住人が全員アニマリーヴした後であることは事前に調べてある。
幸い、食えるものも多少残してあったので、少々失敬して食い繋ぎつつ、我々は交代でVR・AGES本社の外観を調査していった。
今日はエリックの番だ。午前中から監視カメラの位置を割り出していたエリックは、正午になって帰ってきた。
「様子はどうだ?」
尋ねると、エリックは分厚いコートをハンガーに掛け、顔を隠せる防スモッグ用マスクを外した。
「数はそこまでではありませんが、結局、死角はほぼないと言っていいでしょう。これらを欺くには、物理的手段では到底無理なように思えます」
「だろうなあ。中を訪れる人間も限られている。客人として侵入するには少々手間が掛かるしチェックされるだろう」
エリックは呆れた目を向けてきた。
「本当にこんな状態で侵入出来るんですか? 無計画だったんじゃありませんか?」
「む、失礼な。手段はちゃんと用意しているよ。それに、突破口の一つは既に暴いてある」
私は窓の傍に立ち、エリックを招いた。
「見ろ、あの監視カメラ。オーソドックスな最新式だが、弱点がある」
エリックは私の指差した先を肉眼で目視した。
「ああ、アレですか。通常の監視灯と、暗視、サーモグラフィの切り換えに対応したやつですね」
「そうだ。多機能ではあるが、光と闇は相容れないものだからな。サーモグラフィはどうにかなるとして、後の二つは……」
──と言いかけたところで、遠慮のないインターホンが三回連続で鳴らされた。
エリックは一度怪訝そうに私を見てから、インターホンのモニタを確認しにその場を離れた。
一拍おいて、彼は俯瞰で映し出された来客に声を震わせ、ヒステリックに叫んだ。
「……嘘でしょう!? 大佐、一体どんな悪魔と契約したんですか!?」
来客は我々を直視するようにカメラを見上げた。
そして、その柔らかな唇から、相も変わらず透明感のある美しいハイトーンの声がスピーカー越しに囀る。
『ごきげんよう、お二人さん。温かいココアの一杯でも飲ませて頂けるかしら?』
それは、すっかり赤黒く染まってしまった「桑の実」に他ならなかった。
◆
エリックは、目の前で優雅にホットココアを飲んでいる少女が「本物」であると信じられないようだった。
彼の視線は、膝上まである純白の靴下に包まれた、少女の左足首に注がれている。
「……どうしても、ご覧になりたいのですね、エリック」
少女はそう言ってカップをテーブルに戻すと、座ったまま足を組んで左足のブーツを脱ぎ、靴下をするりと剥ぎ取った。
その雪のように白い肌の先に、透明の無骨なパーツが不自然に取り付けられていた。
「本当に……ジュリエット、なんだな」
エリックは表情を曇らせて言った。
「おかしなものでしょう? 王子様の接吻も無いのに目が覚め、いつの間にかガラスの靴を履かされていましたのよ。きっと、これから開催される舞踏会に参加して、階段でまた脱ぎ捨てるためにこんなことをしたのでしょう」
皮肉たっぷりなジョークに、私は笑うことも、哀れむことも出来ない。
エリックは、痛ましいジュリエットの左足から目を逸らし、代わりに私を睨み付けた。
「大佐、一体どうしてこんなことを……!?」
「エリック、それは……」
「大佐がどうしても……と仰ったものですから」言い淀むと、ジュリエットが自ら言葉を挟んだ。「全く、死者への愚弄ですわね」
そう言って向けてくるジュリエットの眼差しも痛い。
あれだけ自由にさせることを約束しておきながら、私はそこにいる「彼女」の期待を裏切ってしまったのだ。憎まれて当然だ。
「でも、ジュリエット、君はプルステラでエリカと……」
遠慮がちに尋ねるエリックに、ジュリエットは一瞬目を細め、やがて呆れたように鼻で笑った。
「……ああ。やはり、そういうことになってたんですか」
ジュリエットは、ようやく自分の置かれた状況に納得したようだ。
私も、目覚めるジュリエットを見るまでは蘇生──もとい覚醒などあり得ないと思っていたのだが。
「私には、プルステラへ行った記憶がありません。私は行けなかったんです」
「そうだな……。エリックのためにも、ブレイデンから聞いた話を共有しようじゃないか」
──とはいえ、誰でも予想が付くような簡単なトリックだ。
そもそもアニマリーヴとは、肉体から全ての情報をスキャンし、デジタルデータに変換して魂と呼ばれる器に移すシステムのことである。
ただし、データは「移動」しているわけではなく、必要なデータを「複製」しているだけに過ぎない。
ところが、そうなると、一つの疑問が浮かぶ。
プルステラへ行った者が現世へ戻った時、その頭の中の本当の記憶は一体どうなるのだろうか。
生身の記憶を電子情報に換える手段はあっても、その逆というのは聞いたことがない。
もし、アニマで手に入れた新しい記憶を人工的に生身の肉体に移植するとしたら、失敗時に記憶障害を起こしかねないだろう。人間はPCの記憶媒体のようにはいかないのだ。
「で、では、今プルステラにいるのは……!」
エリックは動揺を隠しきれず、少し声を荒らげ、結論を急かした。
「もう一人のジュリエットがいる。アニマリーヴ前の記憶を引き継いだ彼女がな」
「つまり」と、ジュリエットが続けた。「あちらにいるのは私のクローン、ということになりますね」
クローンか。言い得て妙だ。
アニマリーヴで作り出されるのはデジタルのクローン、つまり人工知能を搭載したNPCだ。
目の前にいるジュリエットは、強制的に起こされたこともあってプルステラからのデータ受信は行われていない。記憶は、アニマリーヴする以前のままなのだ。
「まあ、ジュリエットの場合、アークとは似て非なる装置でプルステラへ送ったわけだから、他の一般人がどうなっているかわからんがね」
「そう、ですね」
ようやく落ち着いたエリックは、もう一度ソファーに座って頷いた。
「ですが、ボタンを押して仮想世界へデータを送信する、というところまでは再現出来たわけですから、あながちこの推理も外れてはいないでしょう」
「うむ。後は、これから起きる事態がどうなるか、だな。あと三カ月もすれば、最初の移民グループが約束の一年を迎える。推測が正しければ、彼らが夢世界のお土産を持って帰れるとは思えないのだが……」
VR・AGES社にとって、一年で帰還する人々というのはクレームを出した客と同義。プルステラの記憶を持ち帰った帰還者は、今後のプルステラの運営に悪い影響を及ぼすと考えるはずだ。
「帰還者のプルステラでの記憶はプライバシーの保護により抹消した、とでも言いますかね?」
「或いは、その必要すらないんじゃないかしら?」
ジュリエットが口を挟んだ。
「必要が、ない?」
「ええ。眠っている人々が収容されているのは、あのアークでしょう? 海底施設の奥深くに閉じ込められ、目覚めた人はいったい何処へ?」
実際に海底施設を見、そして片足を犠牲にして戻ってきたジュリエットの言葉には絶対的な説得力があった。
「アークがあの分厚い二重扉を開けてまでもう一度地上に出るとは思えません。あの二重構造、恐らく開くのはアークを収容する時だけでしょう。アークは遠隔操作で、自ら操縦することは出来ない構造ですし、収容後は決して開くことがないのではありませんか?」
今度こそエリックは青ざめた。その言葉が何を示すか思いついたのだ。
「私も『その考え』に同意見だ。まだ推測の域を出ておらんがな」
エリックは眼鏡を中指で押し直した。
「後は、潜入して調べろってことですか……」
「話が早くて助かる」
「ですが、相手は元来、ゆりかごから墓場まで関わるような商品を開発し続けた大企業ですよ。これまでの調査でも明らかですが、世界規模の本拠地に近づくというのは、やはり、現実味に欠けます」
私はエリックから受けた視線をそのままジュリエットへとバトンタッチした。
「……そのための私、というわけですか」
「そうだ。お前の能力で一時的にカメラをいずれかのモードに固定させ、目眩ましをして侵入する。ほんの十秒足らずで構わない」
ジュリエットはふむ、と腕を組んで一思案する。
「無理ではありませんが……その間に内部に潜入する算段はあるのですか? 私の足はこんなですし、以前のように走ったりは出来ませんよ?」
私は、この十日で作り上げたVR・AGES社の外観図の一点を指差した。
「離れの建物が中央管理室になっている。外壁からそう遠くはない。私とエリックがそこから侵入し、制圧。制御を奪い取る。後は簡単だ」
ジュリエットとエリックは互いに見つめ合い、呆れた声を漏らした。
「……まあ、充分に難しいと思いますが、大佐がどうしてもと仰るのならやってみましょう」
「そうですわね。ここで余生を過ごすよりはいいでしょう」
──まったく、年寄り臭い部下を持ったものだな。
「作戦実行には多少の小道具が必要になる。決行は明後日の深夜四時にしよう。……それでいいかね?」
『了解であります』
◆
その晩、これから寝ようって時にリビングの窓辺で顎に手を乗せて外を眺めているジュリエットを見かけた。
青白い月明かりが薄く漏れたスモッグのフィルタを通して光のカーテンを棚引かせていた。
「もう0時を越えたぞ、ジュリエット。そろそろ寝た方がいい」
背中越しに声をかけると、彼女は「あの時」以来変わらないプラチナブロンドの髪を掬いあげるように梳かし、私を見た。
見た目にそぐわぬ妖艶な瞳を携えた彼女は、同時に、酷く何かに疲れたようにも見えた。
「ここは空気が綺麗なようですね、大佐。……ほら、あんな遠くまで建物が見える」
「人が居なくなったからだ。ここだけが例外というわけではない」
無論ではあるが、都市部は未だにスモッグが濃いだろう。
汚れた環境を元通りにするには、今しばらくの猶予が必要なのだろう。
そして、失った資源や緑を取り戻すのもそれ以上にかかる。我々の一生では払いきれない程の負債だ。
「何年か待てば、ここから月……いえ、星も見られるようになるでしょうか?」
「そうだなぁ。何年後になるか解らんが……」
「でしたら、ここで生きるというのも、悪くはありませんわね」
意外な返答に、私は思わずぽかんと口を開けてしまった。
それを面白がってか、ジュリエットはクスクスと笑いながら窓の外に向き直った。
「あれだけ人間として生まれ変わりたかったのに、とでも仰りたいのですか?」
「そりゃあそうだ。良ければ理由を聞かせてくれないか」
ジュリエットは窓辺に置いた腕を枕にして、顎を埋めた。
「理由……ですか」
僅かに覗かせた冷たい眼差しは、窓の向こう──天高く聳えるタワーへと注がれている。
「ヒトは、居れば居るほど大地を穢し、逆に、居なくなればいつかは元の自然に還る──つまりは、全ての原因を作ったヒトこそが、愚かだと知ったからです。……もちろん、私を散々苛めた貴方も含めて、ね。オーランド・ビセット大佐」
「……まぁ、否定はしないよ」
ジュリエットは「冗談ですよ」と小さく笑った。
「プルステリアには私の分身がいます。それだけで、一つの望みは叶えられたのです」
「だが、それはお前自身ではないだろう?」
ジュリエットは自分を確かめるように「ガラスの靴」に手を伸ばした。
「そうですね。自分が感じられる意識としては切り離されています。ですが、そんなことを考えたら、アニマリーヴという行為自体は無意味になってしまうでしょう? 私にとって最も大切なのは、意識ではなく、ジュリエットという存在、或いは歴史が、如何なる結末を迎えたかということなのです。
プルステリアで生活することは別の意識においては既に叶っていますし、その時点でジュリエットという人間は救われました。再び分岐点に立たされた私の意識は、また別の道を選ぶ権利もある。そう考えると少しお得じゃありませんか?」
ジュリエットの言葉は難しい。
だが、今まで接してきた彼女の言葉から推察するに、彼女はジュリエットという存在が人間として生きていた、という事実だけを歴史に刻み、立証したいように思える。
人工的に作られた彼女の、それが唯一の願いなのだろう。
「お前がよかれと思ったことをやればいい。それが人間らしいということだ」
「……ふふっ、そうですわね」
一度死を受け、二度目の生を受けた彼女には、もはや迷いも悩みも無かった。
──ああ。それでいい。
例え、彼女が私を裏切ることになったとしても、それが自分の人生だと主張するのであれば──もはや、私は何も言うまい。




