62:エリカとエリック
西暦二二〇三年十二月二十四日
仮想世界〈プルステラ〉東ロシアサーバー 第一〇四五番地域 第二〇七番集落
――キリルがヒマリと大事な話をしている頃。
一階で暖を取りながら会話をしていた三人だったが、ジュリエットにはある疑問が膨らみつつあった。
――というより、ほぼ確信していたのだ。それを確かめるには、あと一つ、疑問を投げかければ良い。
「その……エリカ、と言いましたわよね?」
話の切れ目に、ジュリエットがエリカに問いかけた。
「え? ……あ、ああ。ごめんなさい。まだちゃんとしたご挨拶もしてなくて。私はエリカ。エリカ=ハミルトンよ」
フルネームを聞いたジュリエットは、ついに確信から確証を得た。
「……そう。やっぱり……」
世界は何て狭いんだろう。これは神の悪戯なのか。
それとも、キリルのシナリオに従った結果か。
「エリカ。エリック・J・ハミルトン――あなたのお兄様から伝言を承っていますわ」
「え――!?」
間違いなかった。
エリカは途端に大きく目を見開き、肩を震わせている。
「兄が……!? ジュリエットは兄の事を知っているの!? ……いえ、会ったことがあるって言うの!?」
「ええ。……もはや、隠していても無意味だから話しますわ。エリックは私の上司。そして、私をここに寄越したオーランド大佐の部下でもありますわ」
エリカはショックの色を隠せなかった。
――一体、何に?
ジュリエットが兄・エリックと知り合いだったこと――それは些細な事だ。
エリックが英国軍にいた。それも、自分をプルステラへと導いた、あのオーランド・ビセットの部下として。
エリカの心を揺さぶるのは、その事実一つだけで充分だった。
「ショックだったでしょうね、エリカ。あなたとエリックの間には六年近くものブランクがあったんですもの」
「……そうね。尚更に、あなたのクライアントは性悪だってのが解ったわ」
「勘違いしないで。別にオーランド大佐はあなたを貶めようとしているわけじゃありませんわ。ここであなたと会った事も偶然でしかない。
エリックは、ろくな職にも就けず、路頭を彷徨っていた所をオーランド大佐に拾われましたわ。彼はそのまま、あなたの下へ返される予定だった。……でも、エリックはそうせずに、働かせてくれ、何でもするから、と懇願したそうですわ。
家族を安全にアニマリーヴさせたい。そのためなら、自分は最後まで現世に残り、守護者となって見守り続けてもいい――そう仰ったんですの」
エリカは肩を震わせ、その大きな手で自らの顔を隠した。
――ジュリエットは続ける。
「オーランド大佐は、いずれエリックをアニマリーヴさせて、あなたの下へ届けるつもりでいましたの。……あの人も罪作りな方でしたけど、最後の最後には私達のことを考えてくれましたわ。
大佐は……何度もエリックに呼びかけたそうですわ。妹の下へ行ってやれ、と。しかし、あの人も今更どういう顔をすれば、と悩んでいたのでしょう。合わせる顔がないと言って、いつも断っていましたわ……」
「…………何よ、それ。身勝手じゃないの……!」
顔を覆う手の間から消え入りそうな声を絞り出すエリカに、ジュリエットは同情せざるを得なかった。
エリックを想う気持ちは、ジュリエットにとっても変わらない。痛い程に伝わっていた。
「……そんなエリックが、妹に会ったらこう伝えてくれと仰っていましたわ。『赦してくれ』と」
「…………ッ!」
エリカの顔を覆う手から太い爪が伸び、額からは細い血の筋が伝った。
彼女は手を放し、自分の掌をまじまじと見つめる。
爪の先にこびりついた血を見るや、無性に自分を傷つけてしまいたい衝動に駆られる。
――簡単だった。
エリカが両手を強く握り締めるだけで、掌に爪が突き刺さり、ジュースを絞るように血が零れていく。
「エリカ、止めるんだ!」
タイキが指を開かせようとするが、固く結んだ掌は開こうとしない。
エリカの額から滴る血は頬に伝った涙と混ざり合い、幾滴も床に流れていく。
涙に濡れた大きな瞳が、ジュリエットの顔を捉えた。
「――その言葉の意味、ジュリエットには分かる?」
ジュリエットは極力エリカを刺激しないよう、慎重にゆっくりと、首を横に振った。
エリカは、一息ついてから話を続けた。
「…………私が生まれた後、十歳年上の兄は常に自分を犠牲にしてきたわ。本当はお父さんやお母さんに頼りたい、構ってほしい時もあったのに、ぐっと堪え、全て自分だけで解決してきたの。
六年前のある晩、まだ定職に就けなかった兄は、こっそりと私にこう言った。『いいかい、エリカ。どんな世の中になろうとも、僕が絶対に家族全員を守ってみせる。だから、このことはナイショにするんだ。代わりに、父さんと母さんのことはお前に任せたぞ』って」
「……それで、あなたはずっと黙っていたの?」ジュリエットは尋ねた。
「ええ。何をしでかすのかとは思ったけど、具体的でも無かったし。ましてや、その頃の兄は既に二十五歳だったから、大人なら何をしてもおかしくはないだろう、と思ってたわ……。
……だけど、その翌朝、兄は突然姿を消した。最初は何かの冗談だと思ったけど、そうじゃなかったわ。
食卓には、彼の字で手紙の入った封筒が残されていた。そこにはただ一言……ほんの一言だけだったの。『みんなのために一生懸命働くから、探さないで欲しい』って……」
エリカは途端に子供のようなべそをかき、涙と血で濡れた頭を何度か横に振った。
「兄は、その事で赦しを得たかったのよ。本当に謝らなくちゃいけないのは私の方だと言うのに。
彼が今積み重ねている苦労は、全て私と両親の分。こうなってしまったのもアニマリーヴがいけないからなんだって、反対運動もしたのに……私は本当に無力だった。世界のうねりに対し、何にも抗えなかったわ。……何にも」
「……そう」
ジュリエットは椅子から立ち上がると、目の前で情けない顔をしているエリカの頬を強く引っぱたいた。
「おい、ジュリエット!!?」
タイキが驚いて立ち上がるが、ジュリエットに一瞥されると、身動きが取れなかった。
「これでようやく解ったわ。エリックの抱えていた悩みが。別にエリックが悪いわけでも、あなたが悪いわけでもない。
でも、今は一度引っぱたかないと気が済まない。あなたこそ、その言葉の意味を深く考えるべきだわ!」
「言葉の、意味」と、エリカは口の中で転がすように繰り返した。
……が、いくら考えても、それ以上の解釈は生まれなかった。
ジュリエットは、俯くエリカを冷やかに見下ろしながら言った。
「――五年前からあの人との時が止まってしまっている、可哀相な妹さん。分からないだろうから教えてあげましょうか。
あなたのお兄様はね、あなたが旅立った後の世界を守るために現世に残るって言っているのよ。その力は些細かもしれないけど、何かを揺り動かす要因になるかもしれない。だから、ずっと大佐の指揮の下、VR・AGES社の調査を行っているの。
……彼が謝っていたのは、その事であなたと再会出来なくなること。彼が大気汚染病で果てるまでの短い人生の中で、二度と会えないかもしれない、ということ。
そして何より、プルステラの秘密を解き明かすような重要な任務についたことで、家族を守るどころか、むしろ、あなたたち家族を含む、人類全体を脅かすような――全く逆の、賭けに近いミッションに関わってしまったことに対して、謝りたいのよ。
今や、退きたくなっても退けないような微妙な立ち位置に立った彼は、前に進むしか道は残されていない。ましてや、大佐のお気に入りでもあるから、大佐が潰された場合、その代役を務められるのは、エリックただ一人ということになるわ」
淡々と語るジュリエットの言葉を聞きながら、エリカはワナワナと身体を震わせた。
伝言は謝罪ではない。遺言そのものなのだ。
エリカは頭を抱え、くらりとよろめいた。
「――どう、したら……いいの……」
ジュリエットはその肩を支え、エリカの両眼を見据えて強く言い放った。
「しっかりしなさい! 今は、キリルが解析している、あの伝書鳩が上手く使える事を祈るしかないわ。少なくとも、相互通信が出来れば、ここから現世へ戻ることも不可能ではないはずよ」
「…………!」
エリカは顔を上げる。
――現世へ、戻る。
一年経たなければ不可能とされてきた唯一の手段。
「…………でも――」
戻ったところで何になる?
エリックに会って、一緒にプルステラへ行こう、なんて言うのか。
一度きりと定められている帰還には、何か、とてつもない意味が込められているんじゃないだろうか。
二度はあるのか?
現世に戻ったら、それきりじゃないのか?
ジュリエットが言う海底施設とやらで目覚めたとして、その後は?
「……そうですわね」
ジュリエットは、そんなエリカが言いかけて話せなかった言葉の意図を理解し、元の敬語口調で話した。
「現世に戻ったところで、何も出来ないかもしれませんわ。でも、やるしかないのよ。
……正直、プルステラに来たら、今度こそ普通の人間としてのんびりやっていこう……ってつもりでしたけど、どうやら、そうも言っていられないみたいですわね」
「ジュリエット……」
ジュリエットは仕方なく、という風ではあったが、内心、同じようにエリックが気になるというのは、エリカにも感付いていた。
詳しいことは分からないが、どうやら、ジュリエットにとってエリックとは、特別な関係なのだ――と。
「そう言えば、胡散臭い……というか物騒なのがこの世界に蔓延っているらしいですわね。空に現れた文字だとか、ドラゴンだとか」
「……ええ。最初はハッキングした誰かがやったのだろうって噂されてたけど、旅をしている内に違うのが判明したわ」
「パウオレアの一件だな」と、ようやく話せるタイミングになったからか、タイキが口を挟んだ。「リザードマンの連中は、元々この世界にいたものらしい」
ジュリエットは大人びた仕種で腕を組み、うーんと唸った。
「聞けば聞く程、まるで御伽噺みたいですわ。争いがないだとか、ただの偽りの広告だったってわけ? オーランド大佐が疑うのも頷けますわね」
「そうね……」と、エリカ。「今の話も含めて、『伝書鳩』の解析が済んだらどうするか、きちんとキリルと話しておく必要がありそうね」
「なら、ヒマリの今後のことも考える必要がある」今度はタイキが口を挟んだ。「あいつは元に戻るか否かでずっと悩んでいたわけだからな」
すると、エリカは恐る恐る尋ねた。
「タイキは、あの子がどっちを選んでも問題ないの?」
「……分からないな。実際にあいつから言葉を貰わない限りは」
エリカは途端ににやけた顔になった。
「でも、いい感じじゃない? あの二人」
「…………む? 何のことだ?」
「キリルとマリーに決まってるじゃない」
「い、いや、まさかそんな……だってヒマリは――」
――と言いかけたところで、タイキは引きつった表情で先を言うのを止めた。
「……あいつ、もう女の子なんだな」
「何を今更。私があなたたちの家に行った時には、既にそういう状態だったじゃないの」
「正確には、運動会で倒れてからだったな……。うーむ」
いつの間にか蚊帳の外になったジュリエットは、ヒマリの経緯について興味津々だった。
「……ねぇ、その話、私にも詳しく教えて下さらない?」
――泣いたり、怒ったり、笑ったり……。
二人の大人と、一人の大人びた子供の他愛のない話は、キリルとヒマリがそれぞれ自室で眠るその後まで続くのだった。
2015/01/27 改稿




