57:三度目の悲劇 - 1
西暦2203年12月20日
仮想世界〈プルステラ〉東ロシアサーバー 第1045番地域 第207番集落
間もなく、移住してから二カ月が経とうとしていた。
東ロシアは、僕が住んでいたウラジオストクよりもずっと寒く、真冬の今は暖炉無しでは凍えてしまうほどだ。
そろそろヒマリ達が到着してもいい頃合いだ。ジュリエットの出発はヒマリよりもずっと後だったが、彼女はあのゲームをたった一カ月で制した。恐らくは、ヒマリと同じ頃にここへ辿り着けるはずだ。
僕も、黙って手を拱いて待っているわけにはいかない。彼女たちの要望に上手く応えられるよう、一カ月前から機材の準備を整えていた。
ここは、のどかな集落だ。人で溢れ返ったウラジオストクとは違い、ガヤガヤとした雑踏なんて存在しない。
近所の住人も、優しくて気さくな人ばかりで、時折、僕に作物を分けてくれる。きっと、僕が独り暮らしなものだから、同情しているのだろう。……初めはそう思っていたが、どうやら違うらしい。
プルステラには時間が無限にある。何年生きても、年老いて死ぬ事はない。
だから皆、心にゆとりが生まれ、面倒な事でものんびりと、時間をかけて楽しくやっていこうと考えている。今日出来なければ明日、明日出来なければ明後日でいい──というように。
そんな感覚の中で、人との付き合いというのは、非常に大切な事である。
一度嫌われたら、いつまでも嫌われるかもしれない。どうせ無限に付き合うのなら、ずっと仲良しでいたい。誰もがそう思うだろう。
幸い、僕の事情を知る人も、この集落にはいなかった。家で何をしているか、なんてプライベートなことを訊かれる事もなく、僕は、何の変哲もない子供として扱われている。
妙なレッテルを貼られていなくて良かった。唯一残念なのは、お母さんと、ここに居られなかったことだけだ。
――コンコン、とドアを叩く音がした。
外は激しく吹雪いている。こんな日に、いったい何の用だろう。
少し強めに力を入れてドアを開けると、わっ、と大勢の人間が一斉に転がり込んできた。
その中の一人は、近所のおじさんだった。
大量の吹雪が入り込んでくる。放っておいたら家の中が雪で埋もれてしまうぐらいに。
僕は、おじさんと協力してドアを思いっきり引いて閉めると、二人してドアを背に、その場に座り込んだのだった。
「あ、あの……っ!」
僕は、息も絶え絶えにようやく言葉を紡いだ。
「いったい、何事……ですか!?」
「キ、キリル君! お、お客さん、だよ……!」
「ぼ、僕の?」
おじさんは呼吸を整えながら、何とか頷く。
折り重なって倒れている、お客さんと思しき三人は、ガチガチに震えて動ける状態ではない。その身体は霜と雪でびっしり覆われ、半ば凍りかけているようにも見えた。
「……ありがとう、おじさん。後は、僕が引き受けるよ」
「知り合いかい?」
「うん、多分ね」
「そうか、頼んだよ。じゃあ、私はこれで」
少し休んでいけばいいのに、と言おうとしたが、おじさんは直ぐに戸を開け、強風に耐えながら外へ出た。
また、おじさんと協力して両側からドアを閉め、慣れない重労働に息も絶え絶えになる。
「……とにかく、暖炉の傍に移動させるか」
まるで大きなマグロを引きずるように三人をズリズリと動かし、極力暖炉に近い場所まで動かしてやった。
「さぶぶぶぶぶぶ……!」
歯をカチカチと鳴らしている彼らは、見るからにおかしな組み合わせの三人組だった。
一人は僕よりもいくらか年下の女の子、もう一人は犬の耳と尻尾を持つ女性、もう一人は高校生ぐらいの男性である。
「は、ははは、はじめ、まししして」
一番年下の女の子が、震えながらようやく唇を動かした。
凍った睫毛が、パチパチと忙しなく動いている。
「わ、わわ、わた……わたし、ひ……ヒマリ……です……」
──この子が、ヒマリ。話が本当なら、カイのお兄さんらしい。
VAHで記録した動画で見るよりも若干幼く、カイとも、似ても似つかない少女だ。
……そう、確か、身体が入れ替わってしまったとか言っていた。
「あ、あ……あなた……が、キリル……くん?」
ヒマリは、まだ震える唇で僕に問いかけた。
「ああ。……そっか。あの時は無人のNPCだったから、こうして顔を合わせるのは初めてか。僕はキリル。キリル・トルストイだ。よく来たね、ヒマリ」
ここに来るまで、相当大変だっただろう。
ヒマリは表情を緩めると、「よかったぁ」と一言呟いた。
「……そこにいるのは?」
「か、家族。わたしの……お兄ちゃんのタイキと……友達のエリカ」
二人は軽く会釈をし、手を挙げた。
しかし、余程寒いのか、その動作だけでもやっとのようだ。
「えっと……ちょっと待ってて。さっき作ったボルシチがあるんだ」
§
「ふう。ごちそうさまー。美味しかったよ、本場のボルシチ!」
「それは良かった。でも、料理は最近始めたばかりなんだ。本場って程じゃない」
「でも、本当に美味しかったよ。身体もぽかぽかあったまったし!」
「……そう言って貰えて、嬉しいよ」
すっかり元気を取り戻したヒマリは、まるで太陽のように明るい笑顔を見せていた。
タイキとエリカも、ようやく大人らしい風格と落ち着きを取り戻しつつある。
「それで、わざわざここへ来てくれたのは、記憶障害についてだったよね。違う人間のアバターに入り込んだことで、魂のメモリー不足に陥っていると」
ヒマリは真剣な表情で頷いた。
「うん。ママはそう言ってた。……あ、ママは医者なんだ。もちろん、この身体の持ち主の母親、なんだけど」
「彼女」の口調は、年相応の女の子そのものだ。無意識だというのなら、症状は重いと言っていい。
「なら、診断は間違い無さそうだ。キミのアニマのメモリー容量を、必要な分だけ増設すればいい。それが最善策だ。けど、既に失われた記憶は、取り戻せない可能性が高い」
「高い……ってことは、可能性はあるってこと?」
「限りなく低い確率だよ。覚えている記憶から、ピースを繋ぎ合わせて記憶を復元するんだ。それはキミ自身の頭の中で勝手に行われる。何がきっかけになるかは、人それぞれだから、僕がどうこうすることは出来ない」
望めば、似たような記憶を植えつけるようなことは出来る。しかし、それは僕が考えて作る記憶であり、ヒマリ……いや、カイのお兄さんが知っていた記憶そのものではない。
今ある記憶をコピーする事は可能だが、他人の記憶を新たに作り直すことなんて出来やしないのだ。
「充分だよ。今ある記憶の方が、大事なんだ」
「そっか。なら、早速、今のキミの身体がどうなっているかを確認しよう。それで、どれだけの容量を拡張したらいいか判断する」
僕はヒマリを、造ったばかりの診療台に寝かせた。
そのあどけない顔を見て、思わずドキッとする。
……いやいや、落ち着け、キリル。その中身は、僕より年上の男性なんだぞ。
でも……、何だろう、この感覚。
とても明るい笑顔を携えた子なんだけど……。
瞳の奥は、暗く、静かな悲壮感で満たされているような気がする。
「…………」
どこか、似ている、ような気がする。
瞳の奥の暗闇。その手前で映し出されている、僕自身の表情が……。
「あ、あの……キ、キリルくん……?」
「あっ……え、えっと……」
ヒマリは、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
僕まで、息苦しい程に心拍数が上がってしまっている。
「お、おほん。……それじゃあ、始めるけど、そこの二人は外で待っていて貰えるかな。気が散ってしまうから」
しかし、タイキは困ったような顔で腕を組み、僕を睨み付けている。
「……そうは言っても、お前のことを全部信用したわけじゃないんだ。悪いが、見届けさせてくれ」
「恩人のお兄さんを傷つけたりはしないよ。……それと、ヒマリの魂に繋いでいる医療用のリンクを切らなくちゃ。アクセスしてたら何もできやしない」
そう説明すると、ヒマリが「あっ」と声を上げた。
「そうだ。ママに連絡しなくちゃ。このリンク、ママが取り付けたんだ」
ヒマリは遠距離チャットで、その母親に向けて会話を始めた。
スピーカーモードなので、僕らにも一応聞こえるようになっている。
「ママ、聞こえる? ヒマリだよ」
『あら、どうしたの? さっき体温がぐっと下がったみたいだけど』
「……ずっとモニタリングしてたんだ……よっぽど暇なんだね……」
ヒマリは呆れたような苦笑を浮かべた。
『だって、しばらく連絡取ってないから心配だもの。……で、今どこなの?』
「キリルくんの家についたの。今から処置をするから、医療用のリンクを切って欲しいって」
『えっと、その人と話できるかしら?』
ヒマリは僕に目配せし、チャットを共有に切り換えてくれた。
一呼吸置いてから、DIPの疑似マイクに向けて話しかける。
「はい。僕がキリルです」
『ヒマリの母よ。本当に信用していいか決めかねるけど。……信用に足るのかしら?』
彼女は、相当に警戒している。
何せ、娘を四六時中モニタリングしているというのだ。その行動の理由はやはり……ヒマリへの愛情だと言うのか。
僕の脳裏に、あの凄惨な事件がフラッシュバックして蘇る。
僕は下唇を噛み、少々強い口調で訴えた。
「……母親の愛情は、時に残酷な結果を生むことだってあるんです。あなたが本当にヒマリの事を思うのなら、僕に任せた方がいいですよ」
すると、ヒマリの母親は、一瞬黙った後、深い息を吐いて、こう応えた。
彼女は僕の声から、何かを感じ取ったに違いない。しばらく思案した後に、諦めたような溜め息が聞こえた。
『……そう。判ったわ。どの道、ヒマリの身体はもう、限界だし、そこまで離れてしまった以上、私の手には負えない。もはや、あなたに賭けるしか手はないわ。……それでもいいかしら、ヒマリ?』
ヒマリは、迷いもせずに頷いた。
「わたしは、構わないよ。キリルくんは、悪い子じゃないと思うから」
「……キミは、そこのお兄さんと違って直ぐに信用したがるな」
「だって、そうじゃない。あなたほどのウデがあるなら、今頃何かしでかしても、おかしくはないでしょ?」
「それもそうだ。……はは……悪い子じゃない……か。そう言ってくれたのは、キミと、カイぐらいだな」
ヒマリは眉を寄せ、少し哀しそうな顔をした。
「カイと……本当に、仲良しだったんだね……」
「そんなもんじゃない。僕らは、最後の最後まで心を通わせていた。……恐らく、キミとカイとの関係以上にね」
「…………」
「気を悪くしたらごめんよ」
ヒマリは、遠くを見るような目で、ゆっくりと首を横に振った。
「そうじゃないよ。カイが、そんなに人と仲良くしているのを、見たことが無かったから」
「…………」
僕は、心を通わせていた、と発言した事を悔やんだ。
僕が思っている以上に、彼と、カイとの間に出来た溝は深かったらしい。
「……すまない。余計な話をしすぎた。……ヒマリのお母さん、リンクを切ってくれますか?」
『ええ。……もう切ったわ』
「ありがとう」
『ヒマリを、お願いしますね』
「はい」
『じゃあ、ヒマリも頑張って。終わったら、また連絡してね』
「うん、ママ」
プツリと会話が途絶え、疑似マイクが独りでに消滅した。
ヒマリはDIPを閉じて仰向けになり、じっと天井を見つめた。
「キリルくん、お願い」
これから「手術」を行うというのに、驚く程、落ち着いている。
覚悟は、とうに決まっているようだ。
彼女の症状は、ユヅキという人間の記憶を追い出すだけのものだ。その後は、睡眠を経て、夢という形でデフラグが行われ、ヒマリとして生き続ける。別に、命に関わる程ではない。
ということは、今ある記憶というのは、それ程までに死守したい、掛け替えのない記憶なのだろう。
「じゃあ、まずは、承諾書の認証をお願いするよ」
「承諾書?」
僕は、DIPから一枚の紙切れとペンを取り出し、ヒマリに手渡した。
「他人である僕が、キミの身体の中身を操作するわけだから、アクセス権限を得るための承諾書に、キミ自身がサインをし、指でタッチしなければならないんだ」
ヒマリは誓約書を手に取ると、日本語に翻訳しながら読んでいった。
要約すると、「この手術は、失敗すれば命に関わる内容だが、何が起きても誰も責任は取れない。命を預けても大丈夫か?」というものだ。
承諾のサインと指でのタッチ。この二つが、アクセス権限を譲渡するための解除キーとなる。
「ママの時は、こんな承諾書は渡されなかったよ?」
「ああ。それは、医療用ライセンスの特権だからさ。医療の場合、何よりも命の確保が大事なわけだから、ある程度は人の身体へアクセスすることを許されているんだ。無断で医療用リンクが繋げられたのは、キミが家族の一員だから、というのもあるね。……けど、いずれにせよ、今回のケースには当てはまらない。その根幹たるメモリなんかに無断でアクセスすることだけは許されていないからだ。それは、そもそもプルステラで構成される、肉体というハードそのものの問題であり、あくまで外側からアナログに治療していくという、医療用の権限には含まれていないんだよ」
「えっと……つまり、OSなんかを買う時のパッケージの違いみたいなものかな。わたしがホームエディションで、ママがスタンダード、キリルくんがプロフェッショナル、みたいな」
僕は思わず苦笑した。
「例えがアレだけど……まあ、そう言うことになるね」
プログラマーライセンスは、ヒマリが言うように「プロフェッショナル」の権限を持ち、プルステラで数多く存在するライセンスの中でも、一番上の権限を持っている、と言っていい。
プルステラの運営は、サーバーに関わるような大きな事態でなければ対処しないので、例えば、個人――則ち、ヒマリのような身体を構成するプログラムに関わる不具合なんかは、ライセンスを取得したプログラマーが請け負う事になっている。
それは、技術や能力の証明というよりも権限そのものであり、国家に証明出来る程の腕の持ち主でなければ、ライセンス試験に合格することは出来ない。僕は、この資格を得るために、現世で半年も費やしたのだった。
ヒマリは承諾書に一通り目を通したところでペンを手に取った。
「あ……」
僕はある事を思い出し、慌ててヒマリの肩に手を置き、手を止めさせる。
彼女はきょとんとした顔で、僕を見上げた。
「……どうしたの?」
「ヒマリ。もう一つだけ確認したいことがあるんだ」
僕が治療をする事で発生する、一つの制約。
その事について、ヒマリにきちんと説明しなくてはならない。
「僕がキミの身体に改造を施すという事は、則ち、僕が加工者として今後も担当していくことになる。別の加工者が治療すると、設定を『上書き』するわけだから、何かあった時に元の設定には戻せなくなるんだ。……つまり、外面的な治療は受けられるけど、メモリの部分に関しては、必ず僕が担当しなくちゃならない」
「そっか……そういうことになるんだね……。でも、それしか方法はないんでしょ? わたしにはどうしようもないし、キリルくんさえ良ければ、それでいいよ」
ヒマリはあっさりと強い意志を見せたが、タイキとエリカは少し不安そうに見守っている。
人に命を預けるのだから、そう簡単には信じられないのだろう。
それでも、ヒマリは目配せをして、大丈夫、と彼らに頷いてみせた。
「……分かった。キミがいいというのなら、僕が責任を持って面倒を見るよ」
「うん。ありがと」
ヒマリはにっこりと微笑み、承諾書の記入を続けた。
「サインとタッチ、出来たよ」
そして、記入を終えた承諾書が手渡される。あとは僕からの最終承認が必要だ。
ヒマリの指紋に僕の指を重ね、互いに承諾した事を証明する。
すると、紙は消滅し、時間制限付きでヒマリのアクセス権を得たというログメッセージがDIPに表示された。
「それじゃあ、この薬を飲むんだ。一時的に仮死状態になる。メモリのデータをいじるわけだから、そこにアクセスするような思考パターンは、全て断ち切る必要がある」
「いや、ちょっと待て」
そこへ、タイキが駆け寄った。
「そんな危ない薬を飲ますのか?」
だが、ヒマリは強い口調でそれを遮った。
「お兄ちゃん。お願いだから、口を挟まないで」
「しかし、ヒマリ……」
「今ある記憶を失うぐらいなら、死んだ方がマシなの!」
「…………」
……タイキは……やはり不安なんだろう。
僕に兄弟はいないけど、彼が「あの日」のお母さんで、ヒマリが僕だったら、――或いは、立場がその逆でも――同じように止めたに違いない。
あの日の出来事は、予想も付かない事だったから、防ぎようが無かった。
けど、万が一、何かが原因で失敗して、一生話せない身体になるのだと――その可能性を知っていた上で事故ったとしたら……きっと、何もしない方がマシだった、と後悔するだろう。
そう考えると、やはり、リスクを背負ってまで決断するというのは、怖くなる。僕が失敗すれば、記憶どころか、魂に危険が及ぶからだ。
「タイキ。マリーがそうしたいって言ってるんだから」
エリカはタイキの肩に手を乗せ、やんわりと説得を試みた。
タイキは俯いたまま、静かに目を伏せた。
「……俺は……また、妹を失いたくないんだ。……もう、あんな想いは……」
VAHで、ヒマリが言っていた言葉を思い出す。
元々のヒマリは、既に大気汚染病で亡くなり、その魂は、アニマバンクに預けられた。
しかし、アニマリーヴ時にユヅキと入れ替わってしまい、本当のヒマリの魂は、恐らく、失われてしまった。……言い換えれば、二度目の死を迎えた事になるのだ。
そして、今もまた、その身に降りかかろうとしている。
運命として受け入れなければならない、三度目の不幸。失敗するかもしれないという可能性が……。
「……お兄さんとは、何となく、気が合いそうだ」
「え?」
「気持ちは分かるよ。だけど、もう迷っている場合じゃない。ヒマリの容体は、彼女のお母さんの言う通り、こう見えて、もう、限界に近いんだ。……どうか、任せて欲しい」
すると、ヒマリも、強い意志を湛えた表情で、タイキに頷いてみせた。
「わたしからも、お願い」
タイキは僕らの気迫に圧され、とうとう……覚悟を決めた。
「……分かったよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
部屋を出て行く、タイキとエリカ。
タイキは最後に、僕の方を振り返った。
彼は何も言わなかったが、「頼むぞ」と訴えているように見えた。
……当然だ。死なせてたまるか。
悲劇に三度目はない。僕がそれを、今から証明してやる!
二人が出ていったのを確認すると、ヒマリは渡した錠剤を掌に乗せた。
「……じゃあ、コレ、飲むね」
躊躇なく、それを口の中へと放り込む。
本当に怖いのは、ヒマリ自身のはずだ。
なのに彼女は、恐れるどころか、前向きに進んでいく。
それほどまでに、大切にしたい記憶なのか……。
「……――――」
ヒマリは、あっと言う間に首を傾け、動かなくなった。
モニタを覗くと、メモリへのデータアクセス量がガクッと下がり、ゼロパーセントを示した。
僕は直ぐに、キーボードで拡張プログラムを実行させるコマンドを次々と打ち込んだ。複雑な図式が空間に現れては、次々とヒマリの頭の中に吸い込まれていく。
「…………」
静寂が訪れる。
窓の外では、今も激しい吹雪が続いている。にも関わらず、窓を叩く音は届いてこない。
聴こえてくるのは少女の吐息と、僕のタイピング音だけ──
出て行った二人の声も聞こえず、扉一枚向こうに誰かがいる気配すら感じ取れない。
居るのは、誰からも信じて貰えなかった愚かな少年と、誰も彼も信じてしまいそうな無垢な少女。
仕様で切り取られた閉鎖空間では、何人たりとも邪魔立てすることは出来ない。
「どうして……」
──何故か独りでに、タイピングを打つ手が止まった。
僕の意思とは無関係に手が震えている。こんなことは今までに一度もなかった。
……恐怖、だろうか。
怖いと思ったことはいくらでもある。でもそれは、およそ自分の身に及ぶ危険性へのものだ。
これまでに僕が、自分の得意とするプログラミングで恐れを抱いたことはない。それはまるで食事をしたり、息を吸うように、自然とこなしていた行為だからだ。
(……なのに僕は、失敗することを恐れているのか……)
結果の意味をそこまで考えたことはなかった。今までは目的と手段だけを考えていた。
だけど、今だけは違う。
失敗したら──分かっている。この娘の命はない。魂とは、文字通りその者を示す命そのものであり、その者が「個」であるために必要な、唯一無二のデータの塊でもあるのだ。
……思い返せば、短い人生の中で致命的と言える大きな失敗は一度きりだった。けど、それをきっかけにして二度も大きな悲劇を目の当たりにしている。どれも、自分が呼び起こした災いだ。
なのに今、僕は間接的にではなく、直接、他人のためにこの力を行使しようとしている。
せっかく人生を新たにスタートさせたのに、失敗のリスクを背負ってまで人を助けるなんて……。
(何をやってるんだ、僕は……)
失敗すれば、今度こそ僕の居場所はなくなる。人殺しのレッテルを貼られてもおかしくはない。現実世界でも仮想世界でも見捨てられた僕は、もはや生きる価値など無くなるだろう。
それは、時や寿命なんかで忘れられるモノなんかじゃない。永遠なる世界の中でずっと彷徨い続ける、恥である。
──そう考えれば考えるほど、体が動かなくなっていく。こうしている間にも、時間だけが過ぎていくってのに。
「…………くそっ!」
震える右腕を左手で押さえつける。
無駄と知りつつ部屋を見回しても、助けになる者は誰もいなかった。
2018/04/21 改訂、改稿。ヒマリ手術時の描写を大幅に追加したので、話を2本に分けました。




