55:不遇なる一等星 - 2
僕の家族構成は、僕とお母さんの二人だけだ。
父親だった男は、お母さんが僕を身ごもった時に、子供を産むつもりはなかった、と育児を放棄した。
やがて、僕が生まれ、数年後に再会して「稼げる人間」だと知ると、以降はストーカーとなってしつこく付きまとってきた。
「その息子は俺のものだ。テメェが一人で育てられる子じゃねぇ」
……今更、育児を放棄した男が父親扱いかよ。
内気な僕は、その時は何も言えなかったが、初めて見る父親に、態度で敵意を剥き出しにした。
アイツが去った後、僕は引っ越しを提案し、お母さんは黙ってそれに従った。
西から極東へ。
こうして、今住んでいる、ウラジオストクの安アパートに移ったのだった。
十歳になった僕は、それなりに物事を考えられる歳になった。離婚が何であるかも分かっている。
お母さんは僕を養うために働き詰めで、毎晩深夜に疲れた顔をして帰ってくる。
仕事の内容は聞いていないが……出かける時の服装といい、あまりいい仕事場ではないようだ。
早く一人前になりたかった。準備退学もそうだが、僕がどうにかして稼がなくちゃダメなんだ。
これ以上、大切なお母さんを疲弊させるわけにはいかない。
だから、焦っていた。計画を成功させるには、フィリップの悪戯が本当に邪魔だった。
どうにかして、ヤツの悪行を言いふらしてやろう、と思ったが、先生は、彼よりも僕の方を信用していなかった。
あの、近所のおばさんの出まかせが、全ての魂胆だった。
近所から学校へと広まった有らぬ噂は、PCオンチのエゴール先生を洗脳するに足るものだった。
こうして、何を言っても聞かぬエゴール先生に、僕はついにブチ切れたのである。
校内にウイルスをばら蒔き、自ら退学処分となった。
同じ週の金曜日に、お母さんは驚くような報せを持ってきた。
「お前の退学は、準備退学と認められるそうよ」
「え……?」
フィリップの悪行が、他の生徒の証言によりバレたらしい。
エゴール先生は謹慎処分となり、フィリップも停学を命じられた。
それでも、実際にウイルスを仕掛けた僕への罪は帳消しにされなかったが、その頭脳に免じて、せめてただの「退学」を、「準備退学」として認めてやろうと学校側が判断した。
……その代わり、一番欲しかった奨学金はパアになった。
僕も、フィリップも、狙っていた獲物を掴むことは出来ず、他の生徒へと明け渡されるようだ。
悔しい。惨めだ。
あんな馬鹿げた事件が火種となって……僕自身の手で……こんな結果にしてしまった。
「どの道、負けたんだよ、お母さん。準備退学でも、退学でも、辞めさせられたのは、同じ屈辱なんだ……!」
お母さんは、何も言わずに僕の頭を抱えた。
それから、先日と同じように、愛おしく、優しく、抱き締めてくれた。
……でも、お母さんは、震えていた。声を殺して、泣いていた。
その原因を作ったのは僕だ。自分が許せない。
「……ごめんね、お母さん。僕、もう悲しませたりしないから」
「いいのよ、キリル。お願いだから、自分を責めないで……」
……そんなお母さんの優しさは、僕の心に、針の如く深々と突き刺さるのだった。
§
次の日曜日の早朝。お母さんが仕事で使う車に乗り、深いスモッグの中だが、ピクニックに出かけた。
ウチのような低賃金の家庭だと、上層の道路へ出るには少々面倒だ。何せ、地表へ近付く程スモッグが濃く、視界が悪くなっているのだ。我が家のような安い高層アパートビルでは、一階の駐車場から出るしかない。
対向車はヘッドライトで何とか位置が判る。お母さんも毎日車で出勤しているだけあって、多少前が見えなくてもどうにか出来る技量を持っていた。
……しかし、僕は怖くてたまらない。
お母さんの運転を見るのも久々だし、徒歩で通う学校は、上層の歩行者用道路を歩いていくからだ。アシスト機能も、スモッグの前では充分に機能を果たせない。僕がどうにかしてあげたいところだが、お母さんが車を置いて仕事に出る事は滅多に無かった。何かあってからでは困るし、弄らせてくれる機会も無いといっていい。
車を走らせること約十分。螺旋状の坂道を駆け上がり、上層の道路へとシフトした。
地表から約三十メートル。スモッグは多少薄れているが、やはり視界が悪い事には変わりない。
行き先は昨日になって聞かされたのだが、西のバイカル湖だそうだ。まずは駅に向かい、そこからシベリア鉄道に乗っていかなければならない。
思った以上の長旅だ。駅から遠い分、こうしている間も長く感じられる。
窓の外をぼんやり眺めていると、道路の両脇には黒い高層ビルが何本もそびえ立っていて、旅に出る僕たち敗者を、まるで偉大な存在がじっと見下ろして嘲笑っているかのような、そんな気分に苛まれた。
……でも、悪くはない。
お母さんと二人っきりで旅に出た事は、今までに無かった。
生まれた頃から全てが慌ただしく、二人で家族を満喫する時間も無かった。
二人とも、ただ生き残るだけで精一杯だったから……。
僕らは、まるで、サバンナの草食動物だった。
自分だけの力で、食い入るようにして周囲から生きる術を吸収していった僕と、僕が満足に生きられるよう、毎日必死で働いてくれたお母さん。
その障害となったのは、やはり近所の有らぬ噂だったが、それでも僕らは、何度も何度も転びながら、先の見えない前に向かって、走っていった。
あと四年。そう考えると、何もかも全力で突っ切れたものだ。
順調だった。あのまま完走さえ出来たなら。
月曜と火曜の一連の事件で気力を失ったのは、なにも、僕だけじゃない。お母さんも憔悴しきってしまった。
これから先、どうやって生きていけばいいというのだ。
たった四年。それすら、一生分に感じられるようになった。その間にやるべきことは、とにかくお金を稼ぐことだというのに。
僕の頭脳は、人に恐怖を植えつけるだけだ。何もせずに、このまま、身を腐らせていくしかないのか。
……そんな考えを巡らせていると。
「キリル……!!」
──唐突に、お母さんが叫んだ。
不幸だなんて、これ以上ないぐらいだと思っていた。
濃いスモッグの前方から一台の白いバンが飛び出すや否や、衝撃と共にあり得ない重力に前のめりに身体が押しつけられ……。
途端にエアバッグで見えなくなった前方の隙間から、お母さんがガクン、と凄まじい勢いで首を振った。
僕が見た一瞬は、そこまでだった。
慣性の先にある、二度目の、強い衝撃。
それから反対に、ジェットコースターの落下と等しく、腰が浮き上がる感触。
瞬時に、全身から血の気が引いた。
ここから考えられる、ありとあらゆる悲劇が、目まぐるしく脳裏でシミュレートされる。
それは何秒後だっただろう。
強い三度目の衝撃を脚に感じ、続けざまにやって来た全身への痛みと共に、意識は瞬時にシャットダウンした。
……僕らは、あろうことか、同じ週の内に二度も、地獄へと叩きつけられたのだった。
§
僅かに意識があった。……いや、意識が返った、というべきか。
声を出したり、何かするほどの力はない。
ぼんやりとした視界。うっすらと遠くに聞こえるサイレンの音が、僕らの現状を指し示している。
人ごとではない。このサイレンは、自分達へのものだ、と。
目の前で、大勢の誰かが口々に大声で呼びかけている。
いくつもの顔が並び……その向こうに、僕は……。
「……!?」
いるはずのない、父親の顔を見た。
彼は満足げに口元を歪ませ……踵を返した。
ぼやけた視界でも、それぐらいは理解出来た。
「……! …………ッ!」
唇が裂けた口を動かし、声にならない声を発し、満足に動かない手を伸ばそうとする。
──アイツを! 誰かアイツを捕まえてくれ!
しかし、僕が暴れれば暴れるほど、残酷な親切が邪魔をする。
何だよ……いつもいつも、ヒトとして見てくれなかったくせに……。
肝心な時には要らぬ手を差し伸べ、僕らの道を遮るのだ。
僕が生きる事に、意味はあったのか。
お母さんが僕に身を捧げる事に、意味はあったのか。
僕らは何故、こんな生き地獄を味わなければならないのか。
§
目が覚めると、薬の臭いで充満した、清潔な部屋の中にいた。
お母さんはそこにおらず、付きっ切りで看病する誰かも、そこにはいない。
……どうやら、本当に酷い怪我だったらしい。
身体中に包帯が巻かれ、ミイラと化している。
おまけに、全身を動かすことがままならない。いっそ、頭もカチ割ってくれればよかったのに。
「キリル・トルストイ君。入りますよ」
男性の声が聞こえた。
返事をする前に、病室の戸が勝手に開かれる。
やって来たのは、若い女性看護師と、若い男性の医者だった。
「目が覚めて良かったよ。気分はどう? ハッキリと私の顔が見えるかな?」
「はい」
「それは良かった。……とりあえず、状況を話してもいいかな」
「……お願いします」
医者は一つ頷くと、近くから椅子を引っ張ってきて、僕の目の前で座った。
何処から話していいやら、と医者は小さく溜め息をつき、それから話しだした。
「後で警察の方も来るだろうけど、まず、しばらくは安静だ。今日は来ないから安心していい。……大きな騒ぎだったよ。キミにはショックな話だと思うが……まずはキミの容体から話をしよう。それは私の役目だからね。多少、キツい言葉になるかもしれないが、キミが頭のいい子供だってことは聞いているから、多少は大人向けに話をさせて貰うよ。それで大丈夫かな?」
……嫌な予感しかしない。
こういう前置きをつらつらと述べられると、本当に嫌なことしか起こらないのだ。
僕は覚悟を決めて、小さく頷いた。
「よろしい。じゃあ、話をしようか。……まず、事故から二日が経った。キミは、交通事故で道路から転落し、シートベルトを付けていたので、車の前方……つまり、脚の方から地面に叩きつけられたんだ。事故の詳しい内容は専門外だから、警察の方から後で聞いて欲しい。……とにかく、本当に生きていたのが奇跡的と言ってもいいぐらいなんだが……身体に関しては、とても残念なことがある。両脚は複雑骨折、衝撃を受けた際に脊髄も損傷してしまった。……残念だけど、これは一生治らない傷だ。下半身を動かすことが出来なくなる」
あまりにもサラリと言ってのけた医師の言葉を噛み砕くのに、時間がかかってしまった。
ようやく理解出来ても、それは、そこまで悲観するべき部分でもないと思った。
……そんなことよりも、僕は、もっと大事な事を聞かなくてはならない。
「お母さんは……どうなったんですか?」
医者は、僕自身の話題で気を紛らわそうとしたのだろうか。
きっと、予想もしない質問だったのだろう、目を丸くして、一瞬返答に困ったように見えた。
「いや、その……」
「お願いします。お母さんがどうなったのか、教えて下さい!」
「…………」
落ち着いてから話すべきだ、とでも考えていたのか。
続けざまに起こった不幸に対応出来る程の精神力はないだろうから、などと。
「……キミの事を思って、もうしばらく話さない方が……と思ったんだがね」
「お願いします。教えて下さい」
僕は、強い口調で繰り返した。
医者は看護師に掌を向けてカルテを要求し、看護師は眉に皺を寄せ、渋々ソレを渡した。
本当は見る必要なんてないのだろう。……だけど、敢えて一度目を通し、直ぐに後ろ手でソレを看護師へと返した。
医者は、僕の目をしっかりと見つめた上で、ゆっくりと話した。
「…………キミのお母さんは、亡くなられたよ」
本当は、分かっていた。知っていたんだ。
あの高さから落下して……尚且つ、僕の脚ですらこんな状況なんだから、前にいたお母さんは……車からの衝撃と、落下による衝撃で無事では済まなかっただろう。
凄惨だったはずだ。突然の事で、何が起きたのかも理解できないまま……。
だが、僕だけは、その原因を知っている。
思い出した時、哀しみよりも、怒りの方が取って代わった。
「……警察の方を……呼んで下さい」
「え……?」
「お願いします。直ぐに!」
医者と看護師は心配そうに顔を見合わせたが、会話をする程度なら既に問題のないレベルと判断し、許可を出してくれた。
「判った。出来ればもう少しケアをしてから、と思ったが、落ち着いていられないようだしね。直ぐに連絡しよう」
……それから二時間後に、事件の担当刑事が姿を現した。
矢継ぎ早に父親の話をすると、彼らは重要な証言と見て、直ぐにメモを取った。
ただ、証拠はない。たまたまそこにアイツがいただけ、という事もあり得る。……刑事は案の定、その点を指摘してきた。
「ぶつけてきたバンは無人の改造車だったよ。幸い、バンの方にあった遠隔操作用のCPUとRAMが無事に残っててね、今、こちらで解析を……」
「それ、僕がやれば、今日中に手がかりを見つけられます」
刑事は、僕の事まで調べている。
刑事にしてみれば、貴重な事件解決への糸口を、ウイルスを作れる僕なんかに渡したくはないだろう。
しかし、こうした事件は、時間がかかればかかるほど迷宮入りする。
そもそも、事件の被害者の……それも、こんな目に遭わされた子供の要望とあっては、無下に出来ないのが事実だ。
「……よし。君の要望を聞こうじゃないか。その代わり、こちらの解析チームも二、三名連れてこよう」
「構いません」
こうして、事故を受けた被害者が自ら犯人探しの捜査に携わるという、異例の解析作業が進められた。
病室には僕のPC一式が届けられ、寝ながらでも作業が出来るように大型のモニターが斜め上方に備えつけられた。
両腕は骨折で満足に動かせないので、音声認識でタイピングを行った。言語を正確に発音すると、モニターに次々と文字が浮かび上がる。VRゲームのデバイスの認識にも使われた技術だった。
実際に行ってみると、解析はそこまで難しいものではなかった。
なのに、警察の解析担当だった連中はモニターを見て、ぽかんと口を開けているだけだった。
──警察も所詮、この程度なのか。
こんな簡単な解析に、何日もかけるわけにはいかない。
アイツが犯人だと判る、決定的な証拠を掴まなくては。……この手で。
「……見つけた」
発信源を示す座標。それをウラジオストク周辺のマップにかけてスキャンすると、驚く程簡単に位置が割り出せた。
ただし、これはあくまでRAMに残っていた一時的な過去の記録である。事故が起きた当時、どこにいたか、というものだ。
場所は、事故があった道路から少し離れた、安いビジネスホテルのようだった。
「よし、現場へ直ぐに向かえ!」
刑事は部下に指示を出し、部下達は慌ただしく病室を出て行った。
そして、僕に向き直ると、彼は軽く微笑んだ。
「ありがとう。君のお陰で助かった」
「……自分の事件ですから。お礼を言われる筋合いはないと思います。それに、僕は学校で……」
刑事は僕の口を、すかさず人指し指で封じた。
「何も言うな。学校で起きたという事件も、君が原因ではない。そんなことで自分を責めるな」
「でも、お母さんを死なせたのは事実です! 僕が退学にさえならなければ、こんなことには……!」
刑事は頭を振った。
「車のCPUは、君が乗っていたお母さんの車を狙うように設定されていたんだろう?」
「……はい。そうです」
仕組みとしては、遠隔操作でスイッチを入れるだけで、狙ったナンバーの車をカーナビゲーションから逆探知して追跡することが出来る、というものだ。
事故も、致命傷の高い上層道路を通っていくのを選び、背後からではなく、最も衝撃力の高い正面から狙うことで確実性を生んだ。自動車の開発メーカーに勤めていたという、父親のやりそうなことだった。
「これは、計画された犯行だ。恐らく、君の自宅には盗聴器も仕掛けられているだろうね。今回は、君達が旅行に行くタイミングを見計らって起こした犯行だと思われるが、そうでなくても、車を扱うお母さんが単独でも狙われていたはずだ」
「……そして、その後に僕、ですか」
「その通りだ。だが、考えようによっては、出かけていたお陰で君の命が救われた、とも言っていい。こんな事を言うのもなんだが、四年後にはプルステラへ行けるんだ。脚の事だって、考えなくてもプルステラで取り戻すことが出来る」
確かに、その通りだった。仮想世界プルステラでは、失った臓器や四肢を、遺伝子パターンを参考に、正常な姿で作り出す事が出来る。先天性の麻痺なんかに対しても不可能ではないらしいが、後天的な事故であれば、そっくりそのまま復元すればいいだけなので、尚更簡単だ。
しかし、お母さんの魂だけはどうにもならない。アニマ・バンクは来年完成予定だ。既に死んでしまった命を留めておくことは出来ない……。
何よりも、その事だけが辛かった。僕にとっては、それだけが全てだったというのに。
「キリル君」
刑事は、落ち着いた口調で、改めて僕の名を呼んだ。
「君のその頭脳は、決して無駄ではない。出来れば、人の役に立つ事に使うべきだ」
「……僕をここまで追いやった人間のために、使えと?」
「人間が、必ずしも悪い人ばかりとは限らないよ。少なくとも、私は君の味方でいたい」
「問題発言ですよ。僕は……学校にウイルスを撒き散らした張本人です。違法DLだって……」
刑事はもう一度、素早く僕の口を塞ぎ、首を横に振って見せた。
「私の前で迂闊な事を話すな。君を逮捕しなければならなくなる。そんなのはゴメンだ」
「…………」
「とにかく、判ってほしい。君のような子供は、プルステラできっと生まれ変われる。友達だっていっぱい出来るだろうさ」
……刑事の言葉は、僕の頭脳がプルステラで必要とされる、という意味にも聞こえた。
だったら、何も変わらない。僕はいいように使われ、化物を見る目で追いやられるのだ。
結局、何処にいたって、僕の居場所なんてないのだ。
2018/04/19 改訂、改稿




