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PULLUSTERRIER 《プルステリア》  作者: 杏仁みかん
Section6:北方への旅路
53/94

52:茜の集落 - 3

 蒸気甲冑車で集落の入り口にあるジグザグの斜面を駆け下りて行くと、アカネちゃんは目一杯両手を広げ、まるでジェットコースターに乗るかのようにはしゃいだ。

 秋のそよ風と共に、田んぼの方から稲の香ばしい香りが届き、鼻腔をくすぐった。目を閉じただけで、ホノカさんの作る美味しいご飯が目の前に浮かぶ。先程貰った弁当のにぎり飯が、今からでも待ち遠しい。


 ゾーイに切り替わったエリカの姿は、ここからでもよく見える。窓の外、森に差し掛かる辺りを四つ足で目一杯駆けているのだ。きっとゾーイも楽しんでいるに違いない。

 甲冑車があっと言う間に坂道を下りると、速度を落として入り口のアーチを潜り、田んぼと田んぼの間の細い道を、いわゆる徐行速度で通り抜けていく。

 分かれ道を北に差し掛かった辺りで昨日の農夫たちが手を振り、今日はアカネちゃんがそれに応えた。


「おとーさーん!」


 農夫の一人に混じっていたケンジさんは、朝早くから鎌を片手に、汗水垂らして働いていた。

 ケンジさんは手を挙げてから、「娘をお願いしまーす!」と叫んで来たので、わたしは「任せて下さーい!」と返した。安心した顔を見せたケンジさんは、一応娘を気にかけながらも、作業に戻った。


 アカネちゃんがここまで来たのは、初めてというわけでもなかった。

 昨晩の夕飯時にケンジさんから聞いた話だ。忘れた弁当を届けに、コトラの脚力を借りてここまで一人でやって来ることがあるのだそうだ。まるでコメディマンガの主人公の如く土埃を上げながら駆けて来る「娘たち」の姿に、有り余った元気を分けて貰っている――彼は、そう、誇らしげに語っていた。


「アカネちゃん、ここからは歩いて行かない?」

「うん!」


 わたしからアカネちゃんへと提案したのだが、目配せをしてお兄ちゃんにもその旨を確認した。お兄ちゃんは了解というように頷いた。

 蒸気甲冑車を降りただけで稲の香りは強くなり、秋の日射しが一層眩しく感じられた。

 昨日の移動時を除けば、こうして開けた所を歩くのは何日ぶりだろうか。集落の外をこんな風に歩くのも、久々だと思う。

 アカネちゃんが先頭を駆けていく。北の小川と、南のパウオレアの森へ続く分かれ道に差し掛かった時、アカネちゃんは仁王立ちになってその両方を指差し、「どっち?」と尋ねた。わたしは「川の方だよ」と答える。

 夢中になって駆けていくアカネちゃんが、止まらずに何度か西の方をちらちらと振り向いた。エリカが偵察に向かった方を気にしている様子だ。しかし、直ぐに前を向いて元のように走り出したので、クセのようなものかな、と思った。



 小川は、芝生や野花に覆われた斜面の下を、チョロチョロと音を立て、優しく撫でるように流れている。本当に小さめの川ではあるが、六歳のアカネちゃんが入れば膝ぐらいの高さはあるだろう。


「アカネちゃん、そこで待っててね!」


 うっかり中に入ったりしないよう、注意を呼びかける。

 アカネちゃんは素直に頷いて立ち止まり、その場にしゃがみ込んで川の中を観察し始めた。

 川の西側からはゴットン、ゴットンという、規則正しくも重い、複数の音から成るゆったりとした音が聞こえてくる。小さな水車小屋だ。


「完璧だな」


 お兄ちゃんが感心のあまり、ほうっと息を漏らした。


「田んぼに小川に水車……実に完璧だ」

「うん。それに、合掌造りや囲炉裏なんかもね。……そこにいる赤トンボだって再現の一つかもよ?」


 川に生えている葦に、夕焼けの如く赤く染まったアキアカネが止まっている。古くから日本の秋を象徴する要素の一つだ。

 名も似通ったアカネちゃんがそっと手を伸ばすと、トン、と葦を蹴って飛び上がり、ふわりとどこかへ飛び去ってしまった。

 アカネちゃんは追いかけもせず、まるで幻想を見ているかのように、黙って見送った。


「しかし、もはや映像しか見られない光景をこの目で見ることになるなんてなぁ」


 お兄ちゃんの感想は言うまでもない。本来十九歳であるユヅキ(わたし)だって同じ気分だし、お兄ちゃんの本当の妹である「ヒマリ」だって、当人が見ていたら、きっと同じ気分だろう。


「仮想世界だから、それ自体が映像のようなものだと思うけどね。でも、この五感を通して()られるというのなら、充分だと思うよ」

「まあな。……よし、アカネちゃん。こいつを持ってくれ」


 お兄ちゃんは小振りの竿を取り出して、アカネちゃんに持たせた。わずか三十センチ程度のものだ。竿の先には風に吹かれて流されちゃいそうな細い透明の糸と、小さな針が螺旋状に巻き付けられている。


「なにするの?」

「ドジョウを釣るんだ」

「へええー!」


 あまりにも小さな竿に、それと認識するのが難しかったらしい。

 お兄ちゃんが別の道具を取り出す間に、わたしはアカネちゃんの小さな手を握ってくるくると竿を回し、巻きつけた釣り糸をほぐしてあげた。


「餌はこれ、と」


 お兄ちゃんがインベントリから取り出した弁当箱を開けた時、アカネちゃんがあっと声をあげた。

 形では判明しづらいが、彼女にはコトラから譲り受けた敏感な鼻がある。大きな耳がぴくぴくと跳ね、その長い尻尾が喜びを示すように波打った。


「このにおい、しゃけだー!」

「ああ。さっきキミのお母さんから分けてもらったんだ」


 それは鮭をほぐしたものだが、多少くっつきやすいよう、小麦粉と水を加えて煉り餌に加工してある。……いったい、いつの間に。


「おいおい、キミが食べるものじゃないぞ」


 言ってる傍から涎を垂らしながら手を伸ばしかけ、アカネちゃんは、ハッと動きを止めた。

 ……いや、今のはきっと、コトラの本能なのだろう。


「さ、餌を付けてあげよう」


 細い腕をぴんと伸ばし、掲げられた一本の木彫り竿から対称的にふにゃりと垂れ下がる、一本の頼りない縮れ糸。その針先に、お兄ちゃんは先程の煉り餌を取り付ける。

 重みが加わった釣り糸はピンと張り、それだけで力が蘇ったように見えた。

 アカネちゃんはその釣り糸を、竿を持たない側の太い猫の指で器用に摘まみ上げ、振り子の要領でえいや、と、全身を使って透き通る川の中へと投じた。


「よーし。いいか、魚が餌をくわえても直ぐに引き上げないんだ。針がしっかりと掛かるまではそのままで……」


 すっかりその気になって熱く指導するお兄ちゃんに、アカネちゃんも熱心に耳を傾ける。

 咄嗟に思いついたわたしは、二人の様子を写真に収め、こっそりママへと転送した。

 新しく出来たかのような妹の面倒を見る――そんなお兄ちゃんの様子に、ママはどう反応するかな、と内心ニヤニヤしていると、その浮かれた気持ちはものの数秒で吹き飛んでしまった。


「…………っ!?」


 最初に何かに勘付いて西の方角を注視したのはアカネちゃんだった。一瞬遅れて、ドン、と大気が震える物凄い音がし、気付けば、わたしもお兄ちゃんも反射的に同じ方を振り向いていた。

 何羽もの大小様々な鳥が、森の木立からギャーギャーと喚いて飛び去り、明らかにその場所からただならぬ事件が起こったことを物語っている。


「エリカ!?」


 お兄ちゃんが焦りの声を上げた。

 アカネちゃんは落とした釣り竿を川の中に放ったまま、お兄ちゃんの腕にしがみつき、強く揺さぶった。


「ねえ! タイキおにいちゃん! エリカおねえちゃんに、なにかあったの!?」

「い、いや、わからない。今からそれを確かめに行こうと思う」


 アカネちゃんは、その一言でぱっと手を緩め、一歩退いた。


「あ、あのもりへ、いくの!?」

「ああ、そうだ」


 お兄ちゃんはきっぱりと言った。


「危ないから、アカネちゃんはお父さんの所へ行くか、集落に戻るんだ!」


 アカネちゃんは表情に戸惑いの色を見せたが、自分が去るまでお兄ちゃんが視線を放さないと知ると、一歩、また一歩と後ずさり、ついに背中を向けて駆け出した。


 わたしは素早くDIPを操作して、エリカ宛に遠距離チャットを飛ばした。


「エリカ! エリカ、応答して! エリカ!」


 だが、エリカは応答しない。ますますこの事件に巻き込まれたという可能性が、頭の中で濃厚になる。


「行って確かめた方が早い。一刻を争う」

「うん!」


 わたしは蒸気甲冑車をインベントリから滑り落とすように素早く召喚し、キーを回し、二人とも乗り込むが早いか、手綱をピシャリと打った。

 甲冑は壊れそうな程に荒く蒸気を撒き散らし、一直線に駆けて行く。

 幽艷と広がる、紅葉の森へと。



   §



 ――少し前。

 エリカの姿で草原を駆けていたゾーイは、しばらく風を切る心地よさに酔いしれていたが、森へ進入すると同時に、わっ、と強い気配にまとわりつかれ、途端に速度を落としてしまった。ヒマリやアカネの言う通り、確かに言いようのない、不安のようなものを感じる。


 前に旅をしていた時もコレに近い気配は何度か感じられたが、その時は気にも留めなかった。

 その理由は、この気配が恐らく「今」ではなく、「過去」のものだからだ。例えるなら「残り香」のようなものである。

 エリカは考える。仮想世界というデータベースの世界で、気配なんてものが本当にあるのだろうか、と。

 例えばこういった感覚が「第六感」と言うべき能力なのだとしたら、人間には本来感じられない超音波や電磁波、或いは周囲の常識を覆す微弱な変化――動物の動きや植物の具合、空気の湿度や温度など――そう言ったものを「勘」として敏感に感じ取っている、ということではないだろうか。

 つまり、具体的には認識出来ずとも、この森には本来の森とは違う、何か異質な部分があるということだ。今は勘というものに頼らざるを得ないが、場所が解るのなら、その正体は確かめておくべきだろう。


 赤毛の獣人は、落ち葉を後方へ蹴り飛ばしながら尚も疾走した。

 時の流れが遅く感じられる程、じれったく降り続けている、紅や金色の葉。何度も眼前を遮るが、特に煩わしいとも思わず、ただ駆け抜けるだけで、そいつは再び宙へと舞い上がっていく。


 やがて、深い落ち葉の絨毯を抜けると同時に、視界は大いに開けた。

 そこには浅くも広い幅の川が横切り、直ぐ傍には大きな泉と、そこへ真っ直ぐ、力強く水を叩きつけている滝がある。

 滝壺から飛んで来る細かい水しぶきを身に受けながら周辺を見渡したものの、あくまで視覚で見た限りでは、誰も見当たらなかった。

 その代わり、先程の気配だけが、確かにそこに残留している。


 注意深く観察すると、気配のある場所の地面が、十センチ程凹んでいることに気付く。

 楕円に近しい形状だ。何かの獣の足跡であることは言わずとも知れている。

 だが、おかしい。どこかから歩いてきたのなら、そこへ続く足跡が散見されるだろうに、たった二つしか確認出来ないのだ。

 厭な予感がする。今度は気配とは違った、可能性によるものだ。

 ここには、とんでもなく巨大な何かがやって来る。

 ……そう、例えば、ヒマリが言っていた――。


 そのイメージを思い出し、膨らませていったところで、足跡の周囲が、次第に大きくなる影で覆われていった。

 ゾーイ=エリカは恐る恐る顔を上げる。夏でもないのに大量の汗が全身から吹き出し、高鳴る心臓が「ヤバイ」と告げていた。


 翼音、着陸、振動……そして轟音と風圧。

 どこに潜んでいたか判らない無数の小鳥達が一斉に飛び立ち、静寂だった森は一瞬でざわめきたった。


 浮かんだイメージ通りの怪物が、そこにいた。

 黒いフォルムが鈍く日の光を反射し、長い首が泉に下ろされる。

 ……が、その瞳は、エリカを見つめたまま──


「…………!」


 身を隠す暇すら無かった。

 圧倒的な威圧感に気押され、ゾーイは――エリカは、動くことを瞬時に忘れてしまった。


 すると黒い怪物は、長い首を(もた)げ、鋭い牙の羅列を動かし始めた。


「……(ふた)つの魂を持つ者か。なるほど。この耳に届いた噂は本当だった、というわけだな」


 大型獣の唸り声とも似た低い声色の言葉だ。大気と森の草木を振動させる程の。

 その時、すっかり怯えたゾーイが意識を引っ込めたので、必然的にエリカと交代してしまった。


「幼き大地の子よ。そう怖がるでない。お前は元々、この地の者ではないのだろう?」


 こんな場面に直面しても、エリカはどう答えたものか、と真剣に迷った。

 この姿でも、相手は見抜いているのだ。自分が日本サーバーのプルステリアではないということを。

 だが、居場所を失ったエリカにとって日本は既に故郷であり、ヒマリの家族でもあった。

 その事に嘘をついてはいけない――と、エリカの心に宿る強さが、誇りが、迷った心を束縛から解放した。


「私は借り物の故郷を捨て、ここへ移住した。私のいるべき場所は、常に家族の向かう所。……だから、私も日本サーバーの住民よ」


 怪物の口の端が、少しだけ吊り上がったように見えた。笑っているのだ、とエリカは感じた。


「ならば、我の民となったと、そう申すのだな?」

「民……? あなたは一体……?」


 黒い怪物はその体躯よりも大きな翼を真っ直ぐに広げた。

 それだけで突風が巻き起こり、エリカは尻餅を付いてしまう。


「覚えておくが良い。我が名はディオルク。この幼き大陸の支配者なり」


 その名を聞いて、エリカは、ようやく確信を持てた。

 コイツは一吹きで集落を焼き払い、ヒマリや友達を一瞬にして瀕死にまで陥れたという張本人。

 ヒマリがメールで言っていた、黒いドラゴンなのだと。


「……フフ……娘よ。どうやら二人揃って腰を抜かしたようだな。安心するが良い。貴様のような器は、殺すには惜しい」


 言われるまで気付かなかったが、確かに、エリカは腰を抜かしていた。立ち上がる気力もなく、身体が言うことを利かない。自ら立ち上がるのを拒んでいるようでもある。

 ディオルクの眼は全てを見透かしていた。その者の素性だけでなく、本人にすら気付かない事実や心の動きまでも。

 まさか、データの塊を掌握している、とでも言うのか。


「不思議そうな顔をしているな」


 エリカは、今頃になってガタガタと震えだした。

 理屈では言い表せぬ現実。何もかも見抜かれるという恐怖。

 ──マリーもタイキも、こんな化物に立ち向かったって言うの……?


「先に申したであろう。我が支配者であると。……則ち、この地を統治する領主であり、貴様がこの地に居る限り、我が全てを管轄するということだ」


 領主──即ち、王。

 その口ぶりから、個々の(アニマ)の中身までも管理しているのだ。むしろ神と言った方が正しいだろう。……エリカ自身はやはり、そのような肩書で認めたくはなかったが。


「エリカ!」


 蒸気甲冑車の聞き慣れた疾駆音とヒマリの声に、エリカの震えがピタリと止んだ。

 ヒマリは蒸気甲冑車を停めると、直ぐにエリカの元へ駆けつけ、その腕を自らの小さな肩に回し、立たせようとした。……が、完全に力が抜けているせいで動かしにくく、直ぐにやって来たタイキが代わりに手を貸した。


「ごめん……動けなくなっちゃって」

「気にするな」


 そのまま、エリカを背負って蒸気甲冑車の中へ運び込み、インベントリから取り出した大きな剣を構える。

 一方、ヒマリは、今までにエリカに見せた事のないような強い眼差しで、黒い怪物を正面からキッと睨み付けた。


「ディオルク……!」

「ほう、驚いたな。あの時の娘か」


 ディオルクは意外と言うように眉を吊り上げたが、そのままもう一度首を下ろし、泉に口を付けて水をガブガブと飲み始めた。


「……うむ、やはりここの水は美味なものだな。食わずとも生きられるが、飲食というのは一時の娯楽でもある。……安心するが良い。今日はこうして水を飲みに来ただけだ。貴様達と構えるつもりはない」

「でも、お前が来たことで、平和に暮らしている人が脅かされている」

「……それは、そこにいる娘の事か?」


 ディオルクが顎で指し示した先を、ヒマリは恐る恐る確認する。

 ハの字に広げた四つ足で身構え、長い縞模様の尻尾を立てている着物姿の少女が、そこにいた。


「アカネちゃ……コトラ!?」


 コトラに切り替わったアカネは、細い四肢を力強く蹴り、その場に居座っているディオルクの頭上へと舞い込んだ。

 鋭い爪を剥き出しにして殴り掛かろうと腕を振るったが、素早く立ち上げたドラゴンの尻尾が盾となり、弾いた。


「……猫風情が。我に楯突くつもりか」


 ディオルクはそう呟いたが、尻尾に向かって殴り続ける猫娘を内心面白がっているようで、構わず水を飲み続ける。

 もはや戦いではなかった。コトラは巨大な猫じゃらしに弄ばれる猫そのものだった。


「猫よ。我が一度(ひとたび)この尻尾を振るえば、貴様の内に預かりし小娘の命も、無事では済まされぬのだぞ」

「…………」


 コトラは渋々と言うように尻尾を下ろして爪を引っ込め、両手を付いた姿勢で腰を下ろした。


「やれやれ。どいつもこいつも……この我を厄介者扱いするとは」


 溜め息をつく黒いドラゴンに、ヒマリは呆れた顔を見せた。


「それが嫌だったら少しは考えなさいよ」

「考える? 何をだ?」

「オマエ、ここへ来る時、強い気配を残していく」


 コトラがわたしの代わりに答えた。


「それで、アカネが、怖がってる」


 ディオルクは小さな少女の前に首を下ろした。


「成程。筋は通っている。だが、貴様の集落を守ろうとした結果が、このように文句を付けられるとはな」


 意外な回答に、誰もが信じられないと言うように目を見開いた。


「どういう……こと!?」

「ヒマリとやら。貴様も気付いているだろう。この見事な景観が、ヒトの手で造りし世界を維持するための、『形ある記憶』であるということを」


 無論、心当たりがあった。ヒマリはその名称を無意識に唱えた。


「……有形文化財再現集落……」

「集落だけではない。草原や森、泉、そして、この美味い水、美しい夕日を作り出す空気さえも……この一帯の景観はけして、何人たりとも壊してはならぬ。……故に、風情を知らぬ愚か者を近付けぬよう、我が配慮してやったというのだ」


 つまり、ディオルクが、ここの集落を守ったというのだ。

 ヒマリやタイキ、甲冑車で控えるエリカは勿論、コトラも、ディオルクの言葉には驚かされた。信じ難い話だ。

 だが、それならば、襲撃を受けなかったというのも頷ける。元より集落を害する気は無く、むしろ、守るためにここへやって来ていたのだから。


「そうだな……貴様らは神話が好きな種だ。我がどうしても異質であると言うのなら、御伽噺に登場する守り神とでも思えば良いのではないか?」

「…………は!?」


 ヒマリのあげた素っ頓狂な声に、ディオルクは傷つけられた、というように眉を寄せた。


「なんだ、不服か? それとも悪役の鬼の方が良いと言うのか?」


 その一言で、一気に張り詰めていた緊張の紐が緩んでしまった。

 終いには、その場にいる全員が笑いだしてしまった。

 ディオルクからすれば、それも作戦の内だったのだが、彼らには知る由も無かった。


「……コトラ。もう大丈夫だよ。コイツ、守り神様だって」


 可笑しさのあまりに涙を浮かべるヒマリに言われ、コトラは少しばかり口許に笑みを作った。


「アカネが替わりたいと言ってる。おれっち、アカネと交代する」


 言い終わるが早いか、アカネの頭が一瞬、かくんと傾き、それからぱちくりと何度か瞬いて、二本脚でゆっくりと立ち上がった。

 アカネはディオルクを直に見て、一瞬肩を震わせたものの、勇気を出して一歩、また一歩と近付いた。

 ディオルクは首を垂らしたまま動かさず、小さな少女の足取りをじっと見守った。


「あの……こんにちは、まもりがみさま」

「……ディオルクで良い。娘よ」


 顎を小さく動かし、竜は答えた。


「じゃあ、わたしのことも、アカネでいいです」


 アカネはそっと手を差し伸べ、竜の上顎に触れた。

 つるつる、ごつごつして、かたいなあと思ったが、その事は口にせず、黙ってその感触を確かめた。

 何の為かはアカネ自身もよく解らなかった。それでも、こうすることで恐怖心を克服出来るのだと――そう考えていた。


 黒い竜は少し目を細め、彼女のしたいがままにさせてやった。

 充分に触れた後、アカネは狐色の髪を揺らしながら胸元で手を組み、たどたどしい口調で言葉を紡いだ。


「ディオルクさま。これからも、わたしたちのしゅうらくを、まもってね」


 ディオルクはゆっくりと首をもたげる。

 実のところ、アカネにとっては何も考えずに思いついた、ある種の儀式のようなものだったのだが、ディオルクは無粋にも願い事だと思い込んでしまった。……意外な行動に惑わされ、そればかりは見抜けなかったのだ。


「約束するまでもないことだ。我もこの地は、大層気に入っているのでな。……さて」


 ディオルクの視線がヒマリへと向けられる。

 二人の様子を不思議な光景だなあ、と見守っていたヒマリは、自分に注意が向けられると知るや、はっと背筋を伸ばした。


「ヒマリ。貴様、あの時よりも身体の節々に異常が表れ始めておるな。このままでは半年と保つまい。ここまで来て足掻いているのはそれを何とかするためか」

「……だとしたら?」


 ヒマリは、あくまで強気に応じた。


「なるべく急ぐことだ。さもなくば、己の身体が保てなくなるだろう」


 胸を強く叩かれるような鼓動。その衝撃は全身へと伝わり、ヒマリの身体を身震いさせた。

 それと同時に、解を求めるなら今だと、頭の中で告げていた。

 ヒマリは勇気を振り絞り、言葉を紡ぐ。


「……ディオルクたちって……元々この世界にいたの?」

「そうとも言えるが、そうでないとも言えよう。……だが、今は、概ね貴様が考えていることに相違はない、とだけ言っておこう」


 肯定とも取れる反応。ならば、このドラゴンは所謂、NPCだと言うのか。


「そう言えば、南の森では赤の部族を手懐けたらしいな。素晴らしい進歩だ」

「そういうつもりじゃないよ。わたしはただ、争いたく無かっただけ」


 その回答はディオルクをがっかりさせたようで、溜め息にも似た息を静かに吐き出した。

 ディオルクは残った息で小さく顎を動かし、低く威厳のある――だが、ある種の親しみを込めた声で語った。


「……ヤツらをどうするかは、本来、お前達ヒト──プルステリアが定めるべきことだ。無論、我とてこの世界の一員でもある。成すべき使命は果たさせて貰うがな」


 自由気ままなドラゴンというイメージが付きまとっていただけに、その言葉はヒマリにとって意外であった。

 逆に、得体の知れないこの黒い怪物の事が、余計に知りたくなった。


「お前達の使命って……」

「いずれ解る。審判の時が来る頃にな」


 話は終わった、とでも言うように、黒竜ディオルクは大きな翼を目いっぱいに広げた。

 ヒマリ達はその翼の生み出す風の餌食にならぬよう、充分に後ろへ下がった。


「近い内にまた会おう。その時まで、精一杯生きるのだ、我が民よ!」


 飛び立つ領主の姿は雄偉たるものだった。

 その時、ヒマリは感じた──わたし達は彼の掌の上で生かされているのだ――と。

 全てを掌握出来るほどの力を持ちながら、決して暴力で物事を解決しないディオルク。その目的は未だに見えて来ないが、もしかすると、彼自身も何者かの掌の上で生きている、ということではないのだろうか。


 ますます、この世界の真意が判らなくなっていく。

 全ての操り人形の糸を掴んでいるのは、いったい誰なのか……。

 ディオルクの言う審判の意味。大きな目的や陰謀……それらが背後で渦巻いている──ヒマリには、そう感じて止まなかった。



   §



「お世話になりました」


 集落に戻ったわたし達は、アカネちゃんの家から全ての荷物を掻き集め、直ぐに旅立つ準備を整えた。

 もし、ディオルクが言うように半年も猶予がないのであれば、ここで三日目を迎える余裕はない。先はまだまだ長いのだ。


「残念ですわねぇ。あと一日くらいゆっくりしていけば良かったのに」


 ホノカさんは寂しそうな瞳を向けながら、別れを惜しんで足下で抱きついているアカネちゃんの頭を撫でていた。

 きっと、二日目の夕飯も作っている最中だったのだろう。本当に悪いことをしてしまった。


「目的を果たせたら、また来ます。ここは帰り道でもありますから」

「では、その時にはきっと、今回よりもゆっくりとくつろげるよう、美味しいお食事をたっぷりとご用意致しますね」

「はい!」


 ホノカさんは、挨拶させようとアカネちゃんを振り向かせようとしたが、ぎゅっと裾にしがみつき、動こうとしない。

 そんな彼女の前に、エリカが近付き、しゃがみ込んだ。

 エリカもまた、別れを惜しんで涙ぐんでいた。


「アカネちゃん。またね。絶対戻って来るから、待っててね。それまで元気で、いい子に過ごすんだよ」

「…………」


 小さく頭が動く。

 肩が震え、しゃくりだしたので、ホノカさんはよしよしと背中を撫でた。

 エリカも眉に皺を寄せ、涙を見せまいとアカネちゃんに背を向けた。エリカにとってアカネちゃんは、わたし同様に数少ない友達の一人なのだ。きっと、アカネちゃんが別れ際に感じていた孤独感は、一人で旅をしてきたエリカにとっても身近なものに違いない。


「これはお弁当です。食べるときに『解凍』すれば、出来立ての味でお楽しみ戴けると思います」

「わあ、すみません。何から何まで」


 ホノカさんから渡された美しい漆塗りの弁当箱には、アカネちゃんを思わせるような夕焼け色と白のグラデーションを施した布が優しく包まれている。わたしたちは、それを大事にインベントリに仕舞った。


「元気でね、アカネちゃん、コトラ」


 わたしは軽く手を振って、蒸気甲冑車に乗り込んだ。

 また、泣きだすといけない。気持ちが高ぶる前に、ここを去った方がいい。

 ……今回はエリカの方が泣きだしていた。わたしは、この前のお返しにと、今度はエリカの頭を撫でてあげた。


「しょうがないなあ」


 お兄ちゃんは苦笑しながら、わたしの代わりに蒸気甲冑車の手綱を引いた。


 集落の入り口付近では、アカネちゃんの友達が両手で手を振り、見送ってくれた。

 近所のお爺さんやお婆さん、畑で働くケンジさんを始め、美味しいご飯の素を作ってくれた、農夫のみんな。彼らも手を振っている。


 みんな生きている。精一杯生きている。

 そして、この大地の下で生かされている。


 ――そう思った時、わたしもまた、自然と涙を零していた。


2018/04/19 改訂、改稿

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