51:茜の集落 - 2
目が覚めると、淡い月明かりが照らす中、布団で寝かされていた。……どうやら、風呂場で倒れてからそのまま眠ってしまったらしい。
先程、エリカとママが会話していたのをうっすらと思い出した。事情はエリカが説明してくれたはずだ。
居間にはいつの間にか、ふかふかの布団が敷かれており、隣ではお兄ちゃんとエリカが静かに寝息を立てて眠っている。DIPの時計を確認すると、今は夜中の一時だった。
体を起こすと、いつの間に着せられたのか、温かみのある浴衣に身を包んでいた。他人がインベントリを操作するわけにもいかないから、客用のものを用意してくれたのだろう。しかも、着崩れしないほどにしっかりと帯が巻かれてある。
その確認のために数回瞬きしただけで、完全に目が冴えてしまった。布団から這い出たわたしは、傍の障子を少しばかり開き、その隙間に身体を滑り込ませた。そして、冷たい風が入らないように素早く、且つ、音を立てずに閉める。
そうした後、思ったより寒いことに気付き、後悔する。毛布の一つでも持ってくるんだった。面倒なのでインベントリから旅用のマントを取り出して羽織る。それだけで寒さは仄かな暖かさへと昇格した。
新月を過ぎたばかりの細い三日月を眺めながら、小さく息を吐いた。
ちょっとしたことで異常を来すようになったこの身体は、今、一体どうなっているのだろう。ミカルちゃんに触れられた時もそうだ。こんなんじゃ、これから先、わたしは普通の生活が出来なくなっていくのではないだろうか。
早くロシアサーバーへ行かなければならない。が、同時に恐ろしくもあった。ロシアへ行くことそれ自体が、自分にかけられた呪いを知ることになるのと、一歩踏み出すごとに寿命を削っている……そんな気がしてならないのだ。
──ギシ、ギシ、と音を立て、何者かが足音を奏でるのが聞こえた。
思わずドキッとして身構えてしまうが、この村に怪物の危険などないのだ、と自分に言い聞かせる。
お兄ちゃんとエリカは眠っている。この時間なら、普通に考えてホノカさんかケンジさんか。
そう考えながら待ち受けていると、通路の向こうから小さな影がぬっと姿を現した。
影は一歩、二歩とゆっくりこちらに歩み寄り、ようやく月の淡い光に照らされて姿を現した。
「……アカネちゃん?」
四つん這いになり、金色の眼を爛々と輝かせている着物姿の少女。
しかして、その表情はいつもの彼女ではなく、緩みないキリッとした表情を見せる別のモノだった。
「……コトラなの?」
「そう、おれっち、コトラ」
少女の声色だが、アカネよりも低い声で猫の魂を宿した少女は答えた。
「具合、どうなんだ、ヒマリ」
「あ、うん。平気。……心配してくれたんだ?」
コトラは照れ隠しなのか、頭をかりかりと掻いて「まーな」と答えた。
「コトラはいつも夜に出歩いているの?」
「ああ。アカネ、昼間元気だから、おれっち、出る暇ない。それに、夜の方が落ち着く」
ということは、エリカと違って身体はフル稼働なのだ。
アカネちゃんは疲れたりしないんだろうか。
……いや、それよりも、さっきから気になることがある。
「……ねえ、コトラ。『おれっち』って……もしかしてキミ、オス猫なの?」
「まーな」
コトラは簡単に答え、口を開けて大きな欠伸をした。
「えっと……ソレ、どうなってるの?」
着物の裾の方へと視線が移動すると、コトラは面倒臭そうに眼を細め、何も言わずに身体を丸めた。
「あー……ごめん。余計なこと聞いちゃって。答えたくないよね……」
「…………」
コトラは機嫌を悪くしたようには見えなかったが、無愛想な顔で知らんぷりをして月を眺めている。
程なくして、コトラはこちらへゆっくりと顔を向けた。
「……なー、ヒマリ。そこ入っていいか?」
「うん。寒いでしょ? おいでよ」
マントを開くと、アカネちゃんの身体をしたコトラがもぞもぞと四つん這いで入り込み、先程のように身体を丸めてうつ伏せた。
その頭や背中を撫でてあげると、コトラは気持ち良さそうに目を細めた。
「なー、ヒマリ。おれっち、ホントはアカネが怖くて悩んでるの、知ってんだ」
ややあって、突然そんなことを打ち明けられたので、わたしは、えっ、と驚いた。
「あっちの山が怖いらしくてさ」
と、コトラが顎で示したのは縁側の正面、つまり西の方角だった。
今は見えないが、確か草原の先には森と、更にその向こうには、斜面が青々とした野山があったはずだ。
「多分、おれっちの、あっちから感じるイヤな感じが伝わっちまったんだ。……でも、とーちゃんとかーちゃん、この場所を気に入っちまって、アカネもイヤって言えねーんだ」
「……そうだったの」
コトラはマントの中で背中を震わせた。寒いのか、怖いのか判らないけど、わたしはとにかく、その小さな背中をぎゅっと抱き寄せ、温めてやった。
「そんでもな。おれっちとアカネ、前のトコで暮らすのが辛くって。いつ動けなくなるか、わかんねーから。アカネ、死ぬってこと知らねーけど、まだ小さい子供におれっちが教えるわけにもいかねっしょ? だから、おれっち、なるべく何も考えないようにしてる。おれっち、夜派だから都合いいんだ」
不思議なことに、コトラの言葉はゾーイのソレと比べても流暢なものだった。
アカネちゃんが賢い、と言っているように、本当に頭がいいのかもしれない。
「なー、ヒマリ」
コトラはマントの暗闇の中、金色に光る瞳でわたしを見上げた。
「このままでいいと思うか? おれっち、アカネに、本気で、笑ってほしいんだ。ここを気に入って貰うしかないんだ。……頼む。アカネを、喜ばせてやってくれよ」
飼い猫の必死な願い。
猫と言えば凄くマイペースなところがあって、いつも一人でいるようなイメージがわたしにはあったけど、そうじゃない。
彼は彼なりにアカネを気遣い、距離を置いて見守っている──そんな気がした。
「……わかったよ、コトラ。何か出来ないか、考えてみる」
コトラはありがとうの代わりに喉を鳴らし、わたしの膝の上にそっと頭を乗せた。
§
それから眠り直して数時間後、みんなの足音や話し声がアラームとなり、ようやく目が覚めた。
寝ぼけ眼を擦りながら左を振り向くと、お兄ちゃんとエリカの布団はすっかり片付けられていて、わたしの布団だけが取り残されている。二人は、ホノカさんと楽しそうに座卓で談話していた。
「……んあ……おはよう」
声に気付いた三人が揃っておはよう、と声をかけてくる。
「随分とお寝坊さんね、マリー。あなたが起きるのを待っていたのよ」
悪戯っぽく言うエリカに、わたしはまだぼうっとする頭を抱え、力なく笑った。
「……ごめん。夜中に起きちゃって……」
「あら、それはしょうがないわね」
昨晩のコトラとのやり取りを話そうか、と思ったけど、コトラの「夜のお散歩」を両親がどう思っているか知らないので、この場では敢えて黙っていることにした。
「お食事にしましょう。直ぐに用意して、持ってきますわね」
ホノカさんはすっと一息で立ち上がり、背筋を伸ばして小さな歩幅でするすると台所の方へ歩いて行った。洋服ではあったが、まるで和服を着ているかのような身のこなしに感心する。
「さて、と」
お兄ちゃんは胡座をかいた姿勢で座卓に頬杖をつき、わたしとエリカを交互に見やった。
「今日はどうする? 川に釣りにでも行くか?」
さりげなく言ったお兄ちゃんの提案だったが、わたしは諸手を挙げて大賛成を唱えた。
「どうしたんだ、ヒマリ。いやに張り切ってるじゃないか」
「うん。実はね……」
わたしは、昨晩コトラに聞いた話を二人に告げた。
アカネちゃんは普段、元気な笑顔を見せている一方で、この地に多少なり不安を感じている。集落にいれば安全だとしても、外、特に森の方は何か恐怖を感じさせる要因があるからだ。
だが、両親はこの場所を大層気に入っているし、アカネちゃんだってきっと、この場所を好きになりたいと思っているはずなのだ。何せ、現世ではコトラも含め、呼吸器障害で死にそうな目に遭っていたのだから、現世に戻る謂れもない。他の集落はもっと危険だし、必然的にここで住む他ないだろう。そこで──
「アカネちゃんをピクニックに誘おうと思うんだ」
集落の外、西側にそびえる山の方角から茅場のある草原にかけては、現世の跳躍力で子供が助走をつけてジャンプすれば何とか渡れる程度の小川が流れている。周囲は見晴らしもいいから遊び場にはきっと最適だ。もちろん、わたし達という護衛は必要になるが、少しでも気を許せる範囲を広げられれば、心の負担も軽くなることだろう。
西の山側まで連れて行くのには、恐らく両親が賛成しない。わたしだって不安になるぐらいだ。いくらコトラの願いだとしても、化物、或いは猛獣が出るかもしれない所まで行くのには、気が引ける。だから、今回は草原側の小川で馴らしていこう、と、わたしは結論付けていた。
「集落に、強い大人たちがいればいいのかもしれないけどね。でも、この集落じゃあ……」
そんなエリカの呟きにわたしは頷く他無かった。襲撃がなかったせいで、幸か不幸か、この集落には戦える人間が一人もいないのだ。
「まぁ、昨晩の料理にはシシ肉が出たから、イノシシぐらい狩れる人間はいるんだろうけど……、トカゲとかは別だものね」
お兄ちゃんも同意を示して頷く。
「まあな。獣と化物はワケが違う。……それに、リザードマンもな」
頭の片隅に浮かぶ、ナルとモアナの姿。別れ際のあの寂しげな表情。
集落の人がリザードマンに出会いでもしたら、あの二種族間のように要らぬ争いを生み出すかもしれない。……確かに懸念すべきところだ。
「とにかく、彼女を連れて行けるのは、大人たちの目が届く、直ぐそこの畑の先──ヒマリが言う小川のところまでだ。移動にはヒマリの蒸気甲冑車を使おう。珍しいからきっと喜ぶだろう」
「うん」
蒸気甲冑車は三人乗りなので、今回、エリカはゾーイに任せ、走って貰うことになった。
大した距離でもないので、散歩がてら、いい運動にもなるのだ。
「決まり! 食事が終わったら提案してみるね。ありがとう、二人とも」
囲炉裏の前に移動すると、タイミングを見計らったように、ホノカさんが朝食を運んできた。
炊きたてのご飯に自家製の漬け物、摂れたての卵、豆腐の味噌汁、そしてメインとなる唐揚げの小魚が三匹ほど。その全てが各々の黒い漆塗りの器に納まり、綺麗に彩られている。
わたしたちは口を揃えて「いただきます」を言い、思い思いの料理から手を付け始めた。
「これは……ドジョウですか!?」
お兄ちゃんは目を輝かせて尋ねた。
「ええ。明け方に近所の方から、『お客さんがいるからどうぞ』って、わざわざ持って来られたので、献立に加えてみました。田んぼの先にある小川で釣れたそうです。栄養も豊富で美味しいんですよ」
お兄ちゃんは顎に手を当て、何かを考え始めた。あれは恐らく、ドジョウ釣りに使う釣り具の算段でもしているのだろう。ドジョウ掬いって言うくらいだし、掬っちゃえばいいと思うんだけど。
「やっぱり日本食はいいわねえ」
一方、エリカはほっこりした顔でもぐもぐと口を動かしている。
……驚いた。いつの間に覚えたんだろう。あの太い指で、箸の使い方をすっかりマスターしているではないか。
「でも、イギリスにだって美味しいパンがあるじゃない。そっちも羨ましいと思うな」
「昔の話よ。……って言ったらお米も一緒か。確かに、畑さえあれば美味しいものは一通り食べられるわね」
そう。美味しいご飯はこの豊かな土地から。豊富な大地無くしてプルステラの豊かな生活は有り得ない。
自然との共存だ。昔の人は知恵を絞り、そのための工夫をいくつも編み出してきた。米の食べ方一つにしてもそうだ。一体どこからあんな複雑な炊き方を編み出したのか、と思うと不思議でならない。
スモッグ塗れの生活では、こうした経験は一生拝めなかっただろう。やはりプルステラに来て良かったと思う。
美味しい朝食を戴いた後で手を合わせ、「ご馳走様でした」と言葉の意味を込めながら、ホノカさんにしっかりと礼を尽くした。
アカネちゃんは台所の方で食事を終えたらしく、朝食を片づけるホノカさんと入れ換えにひょこっと元気に顔を出してきた。
「おはよう、アカネちゃん」
「みなさん、おはよーございます!」
きちんと正座をし、手を揃えて挨拶をする姿は、やはり母親譲りの作法だった。
将来はきっと、いい女将さんになるんだろうな、などと考えながら、一方で年上として見習うべきだ、と少しばかり自分を恥じる。
親しい仲にも礼儀あり、とはよく言ったものだ。プルステラで永く住まう以上、人と人との繋がりは一層大切にするべきなんだろうなあ──そう考えてしまう。
「ね、アカネちゃん。今日はお姉ちゃんたちと、川へ出かけよっか」
「うんっ!」
川と聞いて身を引くかと思いきや、彼女は即答で肯定の意を示した。
やはりコトラの勘違いじゃなかろうか、そう思っていると、アカネちゃんはおずおずと付け足した。
「……それ、あっちにみえる、おがわのほう、だよね?」
「そうだよ?」
「よかったあ。やまはこわくて、いきたくないの」
胸を撫で下ろすアカネちゃん。
やはり、彼女は山の方に恐怖を感じていたのだ。
「どうして山が怖いの?」
「んー……わかんない。でも、イヤなかんじがするの!」
念のために確認したが、やはりコトラの証言と一致する。
アカネちゃんは山の方からコトラの感覚で「イヤなもの」を感じ取っていたのだ。
「そっか。でも、大丈夫だよ。お姉ちゃんたちがついてるし、山までは絶対に行かないから」
「うん!」
「じゃあ、出かける準備しておいで。よーい、どん!」
ぽん、と背中を叩いてあげると、アカネちゃんは元気に走り去っていった。
残されたわたし達もさっさと着替えを済ませることにする。
「……あー、お兄ちゃん。わたし達、先に着替えるから外行っててね」
そう言ってぐいぐいとお兄ちゃんの背中を押し、縁側まで押し退ける。
それでも障子は透明なので、隣の部屋付近まで押していこうとしたところでお兄ちゃんに慌てて止められた。
「わ、わかったから、そこまででいいよ! ……って、お前だって元々は男だろうが」
「今は女の子です!」
きっぱりと断った。確かに曖昧な判断ではあるが、既にこの身体は女の子なんだし。
「……その前に、ヒマリ。考えていたんだが」
お兄ちゃんが声のトーンを落とした。わたしは背中を押すのを止める。
「なあに?」
「山の方に何があるか、気にならないか? ……その、アカネちゃんが感じている『イヤな感じ』とは言っても、草原から山の麓の森まではかなりの距離があるだろう?」
言われてみれば、確かにその通りだ。見渡せる範囲とは言え、獣や怪物の気配を感じるにしても一キロ近くはある。鹿のような臆病な動物でも、そこまでの長距離で気配を感じることはないだろう。
「エリカー、ゾーイの感覚で、山の方に何か感じる?」
わたしは背後のエリカに問いかけてみた。
エリカは傍にやってきてじっと西の方角……つまり縁側の向こうを眺めると、少ししてから、うーんと唸った。
「……そうね。でも、せいぜい、『何かがいそう』ぐらいの感じだわ。それも、曖昧なものだけど。……ゾーイもそう言ってるわ」
「それなら、アカネちゃんの気のせいかな。森の鬱蒼とした感じが圧迫感になっているとか」
「そうかもしれないけど、断定も出来ないわね。……私、走っていくついでに森まで行ってみましょうか?」
「じゃあ、お願い。さっと見てくるだけでいいから」
「オーケー。じゃあ、先に出る準備するわね」
こういう時、エリカはとても頼りになる。エリカも、誰かの役に立てることを光栄に思っているようだ。
イヤな予感とやらが気のせいであれば、アカネちゃんの不安も取り除けるんだけど……。
残念ながら、わたしにはそうは思えない。
粘つくような不安が、わたしの首に絡みついて離れようとしなかった。
2018/04/19 改訂、改稿




