49:パウオレアの森 - 4
ナルと、彼に無理矢理手を引かれたモアナは、ようやく沼から自力で脱出して岸で休んでいたアドニアを途中で拾い、村へ帰った。
道中、アドニアは二人に詳しい事情を尋ねたが、ナルは「村で全て話す」の一点張りで、モアナからも何か言うことはなかった。
村に着くと、戻ってきたのがたった三人だったということに驚いた村人が直ぐに族長を呼びに行った。族長は高齢のために満足に歩けない身体だったが、何かとんでもないことが起きたのだと異常を察知し、自ら立ち上がり、迎えようとした。
そこへモアナがやって来て、族長にナルが来るのでそのままでいるようにと促した。族長は焦る気持ちを抑え、その言葉に従った。
遅れてナルが、俯き加減に族長の家に入ってきた。いつもの有り余るような元気はなく、頭の中で何かを考えているようだった。
「どうしたのだ、ナル。ソトの兄弟たちは何処へ行ったのだ!?」
族長の問いに対し、ナルは少々不機嫌そうな目を向け、微かに聞こえるかぐらいの低い声で語った。
「……あいつら、トカゲの仲間だった。オイラたちが知らないトカゲの言葉を使って、あいつらと取引した」
「取引……だと? どういうことだ!?」
肝心なところをすっ飛ばして話すナルに、慌ててモアナが言葉を補った。
「族長、代わりにアタシが説明するのです! ソトの兄弟たちは、油断してトカゲたちに捕まったアタシと引き換えに、何か本のようなものを渡して助けてくれたのです。……トカゲにとって物凄く大事そうなものでした。それぐらいしか解らないのです」
立派に蓄えた顎鬚を撫でながら、族長はふむ、と一つ頷いた。
「……それで、何故引き返したのだ?」
ちらとナルの様子を伺うと、彼はそっぽを向き、知らんぷりをしていた。疲れ混じりの長い溜め息を吐き出し、モアナは話を続けた。
「アタシたちにはトカゲたちの言葉は理解出来ません。でも、彼らはアタシたちだけじゃなく、トカゲたちとも会話出来るようなのです。……ナルは本の件といい、それをトカゲの仲間だからだと思い込んでしまって……」
「思い込みじゃねーよ!」
口を挟んで反論するナルを、しかしモアナが強い口調で制した。
「思い込みじゃなかったら何だって言うのです!? そもそも最初出会った時に、彼らが川で襲われていたのを忘れたのですか!?」
「…………それは……」
「彼らはアタシを救ってくれました。それだけで充分なのです! 例えトカゲたちの仲間だとしても、アタシを救った事実は変わらないのです!」
ナルは目を細め、気まずそうに顎を引いた。
「……そ、それでも、あいつらは、敵だ! トカゲと仲良く会話してたんだ! あいつらの持ち物だって持ってたじゃないか! オイラは認めないぞ!」
「いい加減にしろ!!」
もはや己の正当性を主張することしか考えず反論するナルに、今まで黙って見ていたアドニアがついに叱咤した。
ナルは目を逸らして肩をびくっと震わせたが、アドニアはその肩を両の腕でしっかりと押さえつけた。
「こっちを見ろ、ナル! 何故そうまでしてあの者たちを拒む!? 彼らは客人なんだぞ!」
父親に凄まれたナルはすっかり縮こまり、まだあどけなさの残る怯えた目で恐る恐る本音を語りだした。
「だって……オイラ……この狩りを絶対成功させたかったんだ。でも、モアナが捕まって……こんな失態、絶対嫌われると思ったから……」
「アタシ、そんなことではナルを嫌いにならないのです!」
拳を握り締め、モアナは強い口調で叫んだ。
「それより、客人で恩人でもあるヒマリたちに向かってあんな酷い事を……! アタシはそんな身勝手なナルの方が嫌いなのです! 理由まで聞いて失望したのです!」
「モ、モアナ……!」
肩を落とすナルに、アドニアは更に追い打ちをかける。
「ナル、お前はあの者たちに謝罪しろ。そして、彼らがこのまま先へ進むと言うのなら、同行し、全力でお守りするのだ」
だが、この言葉には怒っていたモアナの方が驚いた。
「……お、お義父様? それは、一人で行かせる、ということなのですか?」
「当然だろう。ナルはこの村の、一族の誇りを台無しにする真似をした。償いをする必要がある」
頭に血が上っていたモアナは、急速に熱が冷め、それどころか血の気が引いていくのを感じた。
自分が言ってしまった一言で、ナルは命の危険に晒されてしまう。これでは、ナルが犯した罪と変わらないではないか。
「お義父様、アタシも……アタシも行かせてください! 一人ではとても……!」
アドニアは首を横に振って、モアナの申し出を強く拒否した。
「ならぬ。ナルが一人で行かねば、結局はモアナの意見に従ったということになる。誠意を見せねば」
「ですが、トカゲはナルを見かけたらきっと……」
恐ろしい考えが口を突いて出ようとしたが、モアナはその続きを慌てて飲み込んだ。
「……その判断はソトの兄弟たちに委ねられるだろう。本当にトカゲと会話出来るのなら、な。……それが嫌なら、モアナとの婚約を破棄する」
どちらの選択も絶望的だが、ナルの心の中では、とうに答えは出ていた。
「いや、行くよ。自分で蒔いた種だ。きちんと謝罪するし、彼らを守る」
それから心配そうに眉に皺を寄せているモアナを見つめると、安心させるように微笑み、モアナの細い手を取った。
「ごめん、モアナ。オイラ、モアナにいいところ見せたくって……そればかり考えててあんなことを……」
モアナは今にも泣きだしそうな顔で首を横に振った。
「いいえ、アタシも酷いことを言ってしまったのです。……アタシも同罪です。妻としてナルを支え、ヒマリたちを助けに行きます」
アドニアは困惑した表情を浮かべた。ナルにだけ行かせようと考えていたのだが、逆効果だったようだ。
「……モアナ。お前に何かあっては、亡くなったご両親に申し訳が立たない。考え直してくれないか」
「お義父様。アタシたちはもう大人です。どうかご心配なさらず。必ず、ナルを連れて帰り、その時には正式な婚儀を行うと誓います」
今まで黙っていた族長も、心配そうに二人を見た。
「正直、私としては二人にこのような罰を与えるつもりは無かったのだがな……。しかし、アドニアが言わずとも、ナルはいずれ己の過ちを認め、そう決めていた。……そうだろう? ナルよ」
「……はい、族長」
ナルは素直に答えた。ナル自身、ヒマリたちには悪いことをした、と感じていたのだ。
しかし、妙なプライドや使命感から脱せず、仕方なくあのような言葉を放ってしまった。
彼は、ヒマリたちよりも、自分が素直になれなかった弱さが何よりも許せなかった。
「きっと、こうなる運命だったのだろう。……ソトの兄弟たちとも、何か言い知れぬ縁を感じる……。ナルもモアナも、気を付けて行くのだぞ。……女神様のご加護があらんことを……」
族長が手をかざすと、ナルとモアナはその前に跪き、頭を垂れた。
複雑な祈りの言葉が旋律を奏で、二人に祝福を与えた。それだけで二人は、落ち込んでいた気持ちを奮い立たせられた。
「では、行ってきます」
ナルは立ち上がり、生まれ変わったように勇ましい目つきで族長に別れを告げた。それから、横に立つモアナに手を伸ばすと、モアナは一瞬躊躇った後に嬉しそうに微笑み、その手を取って固く握り締めた。
それこそが、モアナの「赦し」でもあった。
ナルは、最後にアドニアの傍に立ち、向き合った。今度は視線を逸らさず、逆に迎え撃つが如く、アドニアの目を真っ直ぐに見据えて。
「……親父。今度は自分の目で何が正しいかを見極める。オイラはもう、大人だからさ」
アドニアはナルの頭をくしゃっと撫でてから、長い身体を折り曲げて膝をつき、ようやく柔らかな笑みを見せた。
「本当は私もこっそりついていくつもりだったんだが……その必要もなさそうだな」
ナルは歯を見せて笑った。
「なんだ、親父。いつもに増して厳しいこと言うなと思ったら、そんなつもりだったのか。……でも大丈夫。オイラは今度こそあいつらと……モアナを信じるからさ」
「そうか。……だがな、万事全てが勝利するとは限らない。時には引き返す選択も必要だということを肝に銘じておけよ。それが狩りというものだ」
親子は拳を構えて互いの拳をぶつけ、男同士の誓いを立てた。
「必ず帰るから、婚儀の準備は頼むよ」
「ああ。約束しよう」
改めて新しい食糧を鞄に詰め、ナルとモアナは再び村を旅立った。
今度は長い旅路になると覚悟して。
§
ナル達が引き返した後、わたし達はリザードマンの長に彼らの村を案内された。……半ば同情されるように。
本当は断っても良かった。ナルに誤解を預けたままじゃ、とてもそんな気分になれないのだ。
リザードマンの長は大層機嫌が良かった。あの本のもたらした効果は予想以上だったと見える。けれど、それが争いの種だというのなら、わたしはまた余計なことに介入した、ということになるだろう。
そもそも、マウ・ラとリザードマンの関係も、わたし達が介入するべきじゃなかった。
リザードマンはともかく、マウ・ラが本当にこのプルステラの原住民というのなら、彼らが存在する確かな理由というものがあるはずだ。地球上に住まうあらゆる動物が均衡を保っているのと同じように。
そこへ外来種であるわたし達プルステリアが混ざった時……今回のように彼らの仲介役になろうとしたら、彼らの本来あるべき関係は損なわれ、プルステラの生態系ピラミッドも崩れてしまうに違いない。
もしかしたら──考えたくはないけど、青の部族のリザードマンだけじゃなく、二股トカゲや、黒竜ディオルクなんかも在来種なのだろうか。
もしそうだとして、そこへわたし達という外来種が送り込まれたのだとしたら……ヴァーチャル・エイジス社はそのつもりで送りこんだ、ということになる。
――有り得ない。そんな馬鹿げたこと。
それなら、アニマリーヴしたあの日に、あんなタイミングで襲ってきたのは一体どういうワケなのか。
偶然? それとも必然?
ここにいる赤いリザードマンのように、彼ら自身がNPCという枠を超えた意思を所有するのなら……。
「……ヒマリ? どうかしたの?」
エリカに呼ばれ、わたしは頭の中で靄の如く漂っていた考えを一気に振り払った。
まだ、解に至る証拠が抜けている。それを解き明かすまでは、こんな馬鹿げた憶測、話すわけにもいかない。
「……ううん、何でも。ただ、彼らにもこんな村があって不思議だなって思ってただけ」
嘘でもない事実を話すと、エリカは「そうねえ」と、彼らの棲み家である家々を見上げた。
それは、つやつやと木漏れ日に反射する、赤と白のグラデーションのガラス状のタイルが積み重なっていて、ドーム状の家を形成していた。ちょうど、エスキモーの家であるイグルーに形状が似ている。
良く見ると、そのタイルはリザードマンの鱗そのものだった。なるほど、これなら雨風どころか、火にも耐えうるだろう。
わたしもエリカも、あまりの美しさに魅入って立ち止まってしまったので、長がわざわざ説明してくれた。
「我ラノ身体ヲ預ケルニフサワシイ場所ハ、ソノ身ヲ素材トシテ創ル。問題ガアレバ、ソレハ己ノ責任。己ガ弱イコトノ証ダカラダ。故ニ、強イ者トハ、堅固ナ家ヲ創レル者デモアル」
「へえ。いい心がけだなぁ。家が傾けば自分のせい……か。確かにこれじゃあ、柱が腐ってた、とか言い訳が出来ないもんね」
家々は彼らの棲家……いや、「村」の中心を囲うように丸く等間隔に建てられている。家も丸ければ置きかたも丸い。マウ・ラの集落とはまた違った文化がここにあるのだな、と感心する。
村の隅には柵や監視塔もあったが、木材をベースに用いても表面はやはり鱗だった。……一体、これだけの鱗をどうやって用意するのか疑問ではあるが。
しばし見学をしたところで、長は振り返り、わたしに向かって一つ問いかけた。
「サテ、ソロソロ教エテ貰オウカ。ソモソモ、ドウイウ理由デコノ場所ニヤッテ来タノダ?」
そう言えば話してなかったな、と思い出しながら、わたしは説明した。
「えっと、本来行くはずだった道が土砂崩れにあって塞がってたの。それでこっちの道を通って森を抜けようとしたんだけど」
「……ナンダ。ソレダケノコトカ」
長は呆れたように溜め息をついた。リザードマンでもこんなリアクションが取れるんだ……。
「シカシ、ソレナラ何故、アノ人間ノ子ラヲ連レテ来タノダ? ソンナコトヲシナケレバ、諍イナド起キナカッタハズ」
この質問には正直に答えていいものか、と悩んだ。
しかし、隠していても今更どうにもならないので、正直に事情を説明することにした。
「リザ……キミたちがそっちの道を塞いじゃってて、近付けばきっと襲ってくるから……」
そこまで話したところで、わたしは続きを言う気力が失せてしまった。
――馬鹿げている。そう思わざるを得ない。
でも、彼らはそれを当たり前としている。互いに戦うことが習慣だと、そう考えているのだ。
「……大体ノ事情ハ判ッタ。ココヲ通ッテモ構ワナイ。……ダガ、ソコニイル者達ダケハ別ダ」
長が顎で指し示した先には、引き返したと思ったあの二人が、兵士に槍の柄で羽交い締めにされた状態で立っていた。
二人は力強い瞳で、わたし達の方をただ真っ直ぐに見つめていた。
「ヒマリ……」
ナルが、今にも消え入りそうな小さな声でわたしの名を呼んだ。
そして、目をぎゅっと瞑り、絞り出すように震えた声で言葉を紡いだ。
「……ゴメン。オイラ、言った、いっぱい、酷いこと。だから、お詫び、する」
「ナル……」
「親父、オイラの罰、言った。ヒマリ、助ける。モアナと一緒、行く」
その様子だと、アドニアさんにこってり絞られたのだろう。
わたしは二人の傍に歩み寄り、なるべく笑顔を見せ、こう言った。
「……気持ちだけで充分だよ」
旅のお供が増えるのは嬉しいことだが、素直に来てくれとは言えない。
何せ北の果てだし、国を跨いで行くのだ。いくらついてくるとは言っても、そんな長旅に付き合わせるわけにはいかない。
それに、プルステリアではない二人が、フラグ・ピラーの転送システムを扱えるとも思えないのだ。
……それでも、モアナは諦めようとしなかった。
「途中まで、ヒマリ、助けるのです。でないと、満足、出来る、ないのです」
「……そうは言っても……」
わたしは請うようにリザードマンの長を見た。
それだけでも意図は通じたらしく、長はただ首を横に振るだけだった。
「じゃあ……」
と、わたしは提案した。
他に策がない以上、こうするしかなかった。
「戻ろう。塞がれた道を復旧させるの」
ナルも、モアナも、そして、長も。……お兄ちゃんやエリカも。
皆が言葉を失い、これ以上にない驚愕を沈黙で示した。
「……倍以上、時間、かかる」
最初に沈黙を破って呟いたのはナルだった。
彼はリザードマンの長を指差し、
「コイツら倒す、早い!」
……そんな風に決めつけたが、わたしは強く首を横に振り、否定した。
「争うよりはずっといい方法だよ。わたしは……どっちもそんなに悪くないと思う。キミたちは、言葉が通じないだけなんだよ」
「違う! あいつら、村襲う、悪いヤツ! 倒す、アタリマエ!」
これでは話にならない。
ならば、と、わたしはモアナへ視線を投げかけた。
彼女は、一瞬戸惑うような表情を見せたが、力強く答えた。
「……アタシ、同じ、ナルと」
考えは変わらないらしい。
だったら……リザードマンの長はどうだろう。悪いけど、わたしには彼の方が聞く耳を持っている気がしてならない。
「無理ダ。大勢ノ仲間ヲ殺シタ仇デアル彼ラヲ、許スワケニハイカナイ」
……返ってきた答えは同じような否定だった。
ナル達を睨む長の態度は、わたし達に向けているものとは違う。それは、ナル達も然り。
「だって、青の部族が襲ってくるんでしょう!? こんなことしてる場合じゃ……!」
「ソレデモダ。例エ連鎖シテモ、復讐ノ炎ハ消エヌ」
そんなに……種族間の溝は深いと言うのか。
リザードマンの長も、ナル達も、基本的にはわたし達のことを好意に思っている。
しかし、彼らはどうしても仲良くなれないという。……そんな彼らのうちどちらかが、殺し合い、刃に伏すようなことがあれば……。
「ヒマリ、無駄だ。彼らが争うのは、自然の摂理らしい」
お兄ちゃんがわたしの肩に手を置き、わたしにだけ聞こえる声でそう告げた。
わたしは、半ば泣きだしそうになっているのを堪えながら、お兄ちゃんを見上げ、震える声で尋ねた。
「摂理? ……どういう、ことなの?」
「動物同士の天敵っているだろ? アレと同じことだと思う。彼らが争い合うのはごく自然のことなんだよ」
「……そんな……!」
争うように仕向けられた二つの種族。それはまるで、ヘビとマングースのように、決して相容れないよう作られた種族であり、それこそがプルステラに無くてはならない関係なのだと……お兄ちゃんはそう言っている。
そうした自然のルールを、外来種であるわたし達が壊すことは出来ない。ふとしたきっかけで彼らが手を取り合うかどうかは……それも彼ら自身が決めることなのだろう。
人間だって、現世ではそうしてきたではないか。サバンナで争う肉食獣と草食獣の争いに迂闊に手を出したりはしない。どちらかに手を差し伸べて助けるなんてことは、絶対に出来ない。何故なら、それこそが彼らにとって、延いては、弱肉強食の生態ピラミッドを保つためでもあるのだから。
「これは、よくある民族や国同士の争いとか、そんなもんじゃない。彼らはそもそも、互いに互いを嫌っているんだ。呼吸するのと同じように」
「…………」
もし……このルールを作ったのがVR・AGES社だとしたら。
わたしは、万が一にもその創造者を目の当たりにした時、許さないと思うだろうか。
確かに、リザードマンを抜きにしても、マウ・ラは人間のようで人間ではない。
それでも……彼らは言葉を喋り、人間らしい文化も携えている。少なくとも、知能の低い動物なんかじゃない。
だから、人間らしい考えで争いを止めろ、等と言えるだろうか。
……言えるわけがないのだ。そんなことをしたら、本来あるべき生態系が崩れ、それどころか、プルステラそのものが変わってしまう可能性だってある。……そうなれば、結果として、我々プルステリアに反ってくる。どういう形でか、までは想像がつかないが、我々は行き場を失い、この仮想世界で生きていくことが不可能となる……その可能性だってあるだろう。
それって、これまでに人間が犯した罪ではないか。
己のために自然を削り、空気を穢し……そうした利得には、母さんのようなとばっちりとして、報いが反ってくるのだ。
……些細かもしれないが、そんな「悪行」に、わたしはもう一歩というところで手を貸すところだったんだ。
「……行こう。俺達は予想外の場面に出会い過ぎた。本来はこのまま進むべきだったんだ」
お兄ちゃんに促され、わたしは無言で頷いた。
最後にナルとモアナに向き直り、わたしは一言「ばいばい」と口で唱えながら、片手で手を振った。
「ヒマリ……」
悲壮な声が背中を摩るように聞こえてくる。モアナの声だ。
つい昨日の……そう、わたしがミカルちゃんを裏切って旅立った時のように、それは感じられた。
――また、帰って来るから。だから、待っててね。
社交辞令とも思える別れを心の中で告げると、わたしは決して振り返らずに、前を向いて前進した。
「……良イノダナ?」
リザードマンの長は、ご親切にもわたしに確認を入れてくれた。
こんな優しさがあるのなら、争わなきゃいいのに。
「……お願い。北へ行かせて」
「良カロウ」
長は兵士に手を上げて合図をし、北側の門が開け放たれた。
最後にもう一度振り返って、と思ったが、そこでナル達が待っていようとも、わたしは振り返るまいと思った。
わたし達は関わらなかった。……それでいいのだ。
…………そのはずだったが。
「……ヒマリ! ガンバれよ!」
ナルの一言が、わたしの全身に強烈な一撃を浴びせ……そして、震わせた。
鼻の奥から目にかけて熱いものが込み上げてきて、気付いた時には、わたしは自分の顔を手で覆っていた。
歩みが止まりそうなわたしを、エリカが覆い隠すように背後から抱え、よしよし、とわたしの頭を摩った。
――もう、引き返せない。
瞬時にわたしは悟った。
きっとこれからも、あらゆる人を踏み台にし、わたしは旅を続けるのだ。北の大地を目指して。
だから、もう、振り返らないでいよう――。
2018/04/14 改訂、改稿




