46:パウオレアの森 - 1
彼女が「ユヅキ」だった意識も記憶も、知らぬ間に薄れてしまっていた。
恐らく、彼女が自分で気付くことはないだろう。
このままずっと、「ヒマリ」として生き続ける限り――。
──CASE:HIMARI MIKAGE
西暦2203年11月3日
仮想世界〈プルステラ〉日本サーバー 郊外
集落を出てから正午を過ぎた頃、みんなから一斉にメールが届いた。わたしは蒸気甲冑車の揺れに身を任せながら、それらを恐る恐る、震える手で順番に開いていった。
〉ヒマリ
ミカルから話は聞いたぜ。
てか、お前、何やってんだよ! アイツを悲しませるようなことすんなよな!
ミカルのことはオレが何とかする。けど、アイツの笑顔を取り戻すのはお前の役目だ! そいつだけは忘れんなよ!
レン
レンからのメールだ。
正直、それだけの追求で済まされた事に驚き、同時に安堵もした。何故出て行ったのか、何時帰るのか、などと、もっと掘り下げたところまで責めて来ると思ったからだ。
その事情を知るのはミカルちゃんだけで充分だ。レンや他のみんなにも知られたら、きっともう、同級生の友達として、同じ目線で見られないだろうから。
いや、それでも──彼の文面は、罪の意識に苛まれたわたしの心を、更に苦しめるのに充分だった。
次はムツミからのメールを開いた。
運動会のちょっと前からようやく友達になったばかりだって言うのに、こんなメールを寄越してくれるなんて、思いも寄らなかった。
むしろ、嬉しかった。彼はわたしを友達と認めてくれたのだ。それだけに、申し訳ない気持ちも大きいのだが。
〉ミカゲさん
何か、複雑な事情があるのは認めよう。だけど、一言ぐらい僕たちに断っても良かったんじゃないのか?
外は危険が多い。お兄さん達と一緒とは言え、気を抜いて油断だけはするんじゃないぞ。
ムツミ
ムツミらしい、簡潔で大人びた文面。
でも、反対とか、迷惑とか、そんな否定的な内容でもない。彼は彼なりに、わたしを気遣ってくれたのだろう。
……最後は、コウタからのメールだ。
〉ヒマリちゃんへ
ヒマリちゃん、水くさいよ。確かにヒマリちゃんは何でもできる、スゴい子だけどさ。キミが、僕らからどんどん離れていっちゃう気がする。
でも、仕方ないんだよね。ヒマリちゃんにはヒマリちゃんの事情があるんだからさ。
とにかく、無事に帰って来て。それだけ。絶対に、約束だよ?
コウタ
ちょっと前までレンの苛められ役だった彼も、洞窟での一件や運動会を通じて強くなったと思うまでに成長した。
むしろ、わたしなんかよりずっと強く、男らしくなっている。それは、レンも薄々感じていたんじゃないだろうか。
コウタの言う、離れていくという感覚は、わたしだって変わりない。ヒマリの身体に慣れてきてから、ようやく普通の子供として生きられると思ったのに、それは神の意思なのか、積み重なる問題がどんどんわたしを苦しめ、普通の生活から突き放そうとしてくる。
わたしが何をしたって言うんだ。他の人と同じようにプルステリアになり、新しい生活をし……そして、母さんの代わりにこの世界を肌で感じて生きていく……ただそれだけのことなのに。
「……お友達、メールだけで済ませたんだね」
横に座っていたエリカがメールを開いているわたしを見て、控えめな優しい声で言った。
わたしはその言葉の意味が解らなくて、首を傾げる。
「だって、遠距離チャットで直接会話出来るじゃない。わざわざメールだなんて。……きっと、通話だと途中で切られちゃうし、気まずくなるし……それに、マリーに直接問い質すようなこと、したくなかったんだろうね」
言われてみれば、その通りだ。だとしたら、恐らくはミカルちゃんかムツミが提案したんだろう。レンなんかは絶対に遠距離チャットで話したがるだろうから。
――そんな親切、逆に痛いよ。
それとも、それがわたしに対しての罰だって言うんなら、喜んで受け入れるしかない。
そうだ。わたしはみんなに迷惑をかけるという罪を犯したのだから。
……その時、わたしのDIPから遠距離チャットの着信音が鳴った。驚いたわたしは思わずエリカを見た。
彼女は肩を竦める仕草をした。
「……そっちは誰って言わなくても判るわよね」
もちろん、ママからだ。
わたしはそれを、エリカとお兄ちゃんに聞こえるようスピーカーモードにしてから、応答のボタンをタッチした。
『ヒマリ! パパから聞いたわよ。何で勝手に出て行っちゃったのよ!? 待てない気持ちは分からなくもないけど、あなたがこれから会おうとしている人物は素性が解らないのよ!?』
半分ヒステリックな声に、わたしは「ごめんなさい」と、まずは謝った。
しばらく考えた後、黙って返事を待ってくれているママに、わたしは自分の考えを素直に述べた。
「それでも、カイの……本当の弟がくれた最後のメッセージだから……その真相を知るためにも、わたしはあの人に会わなくちゃならないんだ。お願い、わかって、ママ」
スピーカーからママの溜め息が聞こえる。
『……もう。こうなった以上、仕方ないわね。どうせ追いつきっこないし、共犯者の二人に任せるしかないわ』
エリカもお兄ちゃんも、苦笑いを浮かべた。
『とにかく、あなたが無理したら全てがパァになっちゃうんだから。……いいわね? 絶対に無理をしないことよ」
「うん。ありがと、ママ」
「……それから、二人とも聞いているんでしょう? ヒマリの事をしっかりお願いね』
適わない、とでも言うように、二人は同時に肩を竦め、わたしのDIPの疑似マイクに向けて応えた。
「はい、母さん」
「解りました、お母さん」
『よろしい。それと、勝手に脱走を許したパパには後できつく叱っておくわ。……まったく、一言ぐらい相談したっていいじゃないの』
改めて、色々な人に迷惑をかけてしまったんだな、と自覚する。
わたしの意志は、今にも脆く、崩れそうだった。
「……ごめんなさい。本当に……」
ママは呆れたように、もう一度溜め息をついた。
『そんなに謝るんなら、今からでも戻ってきなさいよ。……でも、ママもちゃんとあなたのことは〈診てる〉から、その点に関しては心配しなくていいわ』
「うん……」
患者として登録されたわたしの身体は、二十四時間、ママの医者としての権限の下、DIPでモニタリングされる。異常を感知したら音で報せるはずだ。
わたしは、ママがずっと傍にいるような心強さを感じていた。
『じゃあ……気は進まないけど、気を付けてね、ヒマリ。また連絡するわ』
「うん。またね」
通話停止のボタンを押すと、DIPのコンソールは空気が抜けた風船のように縮まって閉じられた。
ガタガタと揺れる甲冑車の軋む音だけが残り、途端にやってきた気まずい空気に、誰もがしばらく口を開かなかった。
§
「……深い森に入るぞ」
最初に口を開いたのはお兄ちゃんだった。エリカが身体を乗り出し、説明する。
「ここは一日じゃ越えられないぐらい大きな森よ。近くに穏やかな川があるから、そこで一日過ごしましょう」
「よし、案内してくれ」
わたしはそんな二人の様子を見守りながら、両足を抱えて縮こまった。
自分のために積極的に手伝ってくれる二人が、とても眩しく見える。それなのに、わたしは何もせず、何も出来ていないなんて。
このままじゃ、わたしは単なるお荷物だ。二人のために、わたしだって何かしなければ。
「お兄ちゃん。わたしが操縦する」
わたしは、半ばひったくるように手綱を奪った。
お兄ちゃんは目を丸くして驚いた。
「どうしたんだ、ヒマリ。急にそんなことを言って」
「別に。ちょっと、退屈なだけ」
ただ訊かれただけなのに、わたしはムキになってツンと答えてしまった。
それがおかしかったのか、お兄ちゃんとエリカは一緒になってわたしを笑った。
わたしはカッとなって、もはや不貞腐れるしかなかった。
「マリー。この道をそのまま行けばいいわ。しばらくしたら崖のような場所があって、その隙間のトンネルの先に川が見えてくるから」
その言葉を参考に一時間程進むと、確かに苔や巨木の根に蝕まれた崖が行く手を遮った。道はこのまま崖の方へと続いているが、通れそうな隙間は一見すると無いように思える。
「……おかしいわね。道なりに行けたと思うんだけど……」
エリカが籠の窓から顔を出して周囲を見回すと、突然、あっと声を上げた。
「どうした?」
お兄ちゃんが尋ねた。
エリカは頭を引っ込めて、矢継ぎ早に応えた。
「土砂崩れでもあったみたい。この先は行き止まりよ!」
「何だって!?」
お兄ちゃんも顔を外に出し、それに便乗するように、わたしもエリカの膝の上に乗せて貰い、外の様子を確認した。
道の先に少し下った坂道がある。その先に崖沿いに生やした二本の巨木が、互いの太い根っこを絡ませてトンネルを形成していた……と思われる窪みがあるのだが、今はそこに大量の土砂が隙間を埋めていた。もはや、トンネルは崖の一部と化している。
わたしは手綱を強く引き、蒸気甲冑車を停止させた。湯気を二度吐き出した昆虫は大人しく命令に従う。
お兄ちゃんは真っ先に籠から飛び降り、もう一度詳しい状況を確認した。
「これじゃあ通れそうにないな。迂回ルートを探すか」
わたしもお兄ちゃんの手にしがみつきながら降り、エリカは逆から降りた。
「あっちから川の方へ行きましょう。崖の向こうへ続くはずよ」
視力のいいエリカは進行方向の右側、道のない場所を指差した。
「マリー、車を仕舞った方がいいわ。この先は通れそうにないもの」
わたしは昆虫の小楯板から差し込んだままの鍵を時計と逆回しに回転させ、引き抜いた。
籠はあっと言う間に折り畳まれ、元の昆虫だけがそこに残される。
「これ、どうすればいいんだろう……?」
「インベントリに入れてみてはどうだ? 意外に軽いかもしれないぞ」
明らかに重そうなその巨体をどうやって、と思ったが、まずは試してみることにした。
DIPを開き、昆虫をターゲットしてインベントリ上にドロップさせると、昆虫の姿が消え、わたしのインベントリに「蒸気甲冑車」が登録される。
しかし、お兄ちゃんの言う通り、不思議とそこまで重くは感じられなかった。
「そっか。ゲームの世界のデータだから、容量が比較的軽いんだね」
「常識を逸脱した仕掛けだというのに、不思議なもんだな」
重さは物体の質量に応じて、と思っていたが、実際は詰まっているデータの容量だ。
確かに質量の大きなものはプルステラでも重いデータとして登録されているが、ゲームから現実化した物体に関しては、製造法や素材なんかの細かいデータが登録されていないため、例外なのだろう。
「そいつは軽くて良かったが、荷物は基本的に俺たちが受け持つことにしよう。お前のインベントリにはなるべくモノを詰めないほうがいい」
お兄ちゃんはそう言ってエリカと目配せすると、彼女も承諾の意を込めて頷いた。
「荷物は私に任せて。何せ、ゾーイの分もあって、二人分担げるからね」
「うん。お願いするね、エリカ」
エリカが指差した獣道を歩いていくと、湿った地面はやがて、緩やかな下り坂となった。
斜面に差し掛かったところでエリカが注意を呼びかける。
「転ばないよう気を付けてね、マリー」
「分かってる」
自作のブーツには、ちゃんとした滑り止めを付けていない。雨でぬかるんでしまったのか、湿った土と苔で、歩かずとも重力に従い、真っ直ぐな姿勢を保ったまま滑り下りられる。
その先から、僅かに川のせせらぎが聞こえてきた。斜面も急になり、うっかり落ちてしまわないように斜めに生やした木の幹に掴まりながら道を探す。
「ヒマリ、俺に掴まれ」
お兄ちゃんは先導して滑りながら、腕を伸ばしてわたしの手首を握った。
大丈夫、と言う間も無く、わたしの身体は無理矢理引き寄せられ、お兄ちゃんの胸元に抱えられる形になった。
急なことで心拍数が上がり、軽い目眩を覚える。わたしは、過保護なお兄ちゃんに抗議した。
「……もう。このぐらい一人で下りられるよー!」
それでも彼は、手首を掴む手を緩めようとしない。
「意地を張るんじゃない。うっかり転んで怪我でもしたら、モニタリングしてる母さんからお叱りのチャットが飛んでくるぞ」
「うへえ。それだけはごめんかも……」
不服ではあるが、黙ってお兄ちゃんの言う通りにした。
そんな会話をしている間に、結局二人で川の傍まで辿り着いた。靴の甲はすっかり泥だらけで、水気が足先まで染み込んでしまっている。……とても気持ちが悪い。早くたき火を焚いて乾かしたい。
一方、後からやって来たエリカは、ゾーイの足のお陰で難なく下りられたようだ。少しだけ羨ましくなる。
大小様々な岩と石ころに囲まれた川は、急流とまではいかないが、割と速い流れだった。水は透き通り、飲み水に使うには申し分ない。
お兄ちゃんはわたしの腕を握ったまま、反対の手でDIPの時計ガジェットを表示させ、時間を確認した。
「間もなく十五時過ぎか。エリカ、今日はここでキャンプをしよう」
「了解。色々道具を出していくわね」
エリカは背中に背負っていた大きな荷を下ろし、折り畳まれたテントの入ったキャリーバッグやロープなんかを取り出した。
テントは頂点のロープを引っ張るだけで設営出来る簡易設営タイプだ。もっと原始的で時間のかかる設営だと思っていただけに拍子抜けする。
そんなわたしの反応に、アウトドアを趣味とするお兄ちゃんは、
「まぁ、遊びに行くキャンプならもっと本格的なのを選ぶけどさ、今回は生真面目な旅だからな。効率のいい方を選ぶよ」
……と、近代的な道具に肯定の意を示したのだった。
お兄ちゃんはエリカに負けない大きさの荷物を下ろすと、手作りと思われる、竹製の釣り竿を二本、取り出した。
「せっかく、そこに川があるんだ。もう少し上流の方で釣りしようぜ、ヒマリ」
「うん、いいよ」
釣りなんて初めてだ。逸る気持ちで胸が高鳴り、わたしはどうにか発作が起きないように気持ちを落ち着かせるので精一杯だった。
「じゃあ、私、ゾーイと交代して食べられそうなキノコを探してくるね」
エリカは採取用のバッグを取り出して告げた。
お兄ちゃんはちょっと驚いた表情で尋ねる。
「毒キノコの見分けが付くのか?」
「ええ。でも、私じゃなくてゾーイが、ね。日本に着くまでに何度も採ってたから、この辺りのは大体熟知してるわよ。お陰で私も勉強になったわ」
「そいつは頼もしい。ついでに木の実か果物なんかもあれば助かるんだが」
「オーケー。探してみるわね」
わたしはお兄ちゃんと再び手を繋ぎ、川の上流を目指して歩き始めた。
真っ直ぐ五分ほど進んだだろうか。目に見えて川は一気に深くなり、川辺も大きな岩ばかりで立ち入り辛くなった。十メートルぐらいの小高い岩壁からは小さな滝が流れ落ち、絶えず霧のような飛沫を風に乗せている。
お兄ちゃんはそこで足を止め、わたしに釣り竿を手渡した。
「ここらでいいだろう。ニジマスかイワナでも釣れれば最高だな」
「餌はどうするの?」
「既に疑似餌が付いているだろ? オートマチック・ルアーさ。水に投げ入れるだけで自動旋回式のルアーが効率良く勝手に動いてくれるんだ。……まぁ、これも本来なら手動で動かして魚を呼び寄せるんだが……テント同様に今回はそうも言ってられないからな」
お兄ちゃんは、すっと慣れた手捌きで竿を振るい、ルアーを川の中へと導いた。
リールを少しだけ巻くと、水面付近の糸が八の字を描くように複雑に動き始める。もう釣れたのかと思って身構えたが、お兄ちゃんが笑いながら首を振った。
「このルアーの欠点は、こんな風に勝手に動き回るから、ヒットしたかが判りづらいってことなんだ。引きの感覚で確認するしかない」
「でも、それならわたしでも出来そうだね。ヒットするまではじっと待つだけでいいもん」
「そうだな。とにかくやってみるといいさ」
わたし達は並んで岸辺に座り、しばらく竿の動きに注意を向けた。
これだけの釣り竿だから入れ食いなのかと思いきや、そこまで凄い性能というわけでもなかった。それもそうだ。魚だってこの世界で生きているわけなんだし、竿に掛かるのも幾分かは魚の気まぐれ、という運にかかっている。
とはいえ、なかなか掛からないまま時間だけが過ぎていく。もしかして、これがスレている、ということなんだろうか。
沈黙を制しているのは滝の音と、それに劣るぐらいの川のせせらぎ、時折聞こえてくる甲高い鳥の鳴き声だけだ。
「……な、なあ、ヒマリ」
とうとうお兄ちゃんから話しかけてきた。
「なあに?」
「VAHってゲームやってて、エリカはどうだった?」
一瞬、何のことかと思った。
VAHについて尋ねるのならともかく、更にエリカについて限定して訊いてきたのだ。
「えっと、どうって、何が?」
聞き返すと、何故かお兄ちゃんは少し慌てた風に言った。
「ほ、ほら、エリカってゲームの経験少ないだろ? ちゃんとやれたのか?」
「あぁ。……うん。凄かったよ。バンバン戦ってた」
「そっか。……どんな姿してた?」
……ははーん。
わたしはピンと来てしまった。そっちが本題なのだ。
「い、いやっ! ほら、あんな姿だったから、ゲームだとどうなるのかなって気になってさ!」
わたしの顔がニヤついていたのだろう。お兄ちゃんは慌てて誤魔化しているが、本当はエリカのことが気になるのだ。
「すっごい美人だったよー。出るとこ出ちゃってさぁ」
オーバー気味に応えると、お兄ちゃんはごくりと喉を鳴らした。
分かりやすい反応に、わたしは思わず笑い転げてしまう。
「ヒ、ヒマリ! からかうなよ!」
「あははははっ……ごめんごめん……ぷっくくくく」
お兄ちゃんの顔はすっかり赤くなり、すねて釣り竿に向き直ってしまった。
腹の奥でまだくすぶる笑いを堪えながら、わたしも釣り竿に向き直る。
「エリカのこと、気になる?」
「…………答えたらからかうだろ」
「答えなくても解るけどっ」
……やっぱり我慢できないや。
「こら! 笑うなって! そういうお前はどうなんだよ! レンか!? ミカルちゃんなのか!?」
そう振られて、わたしはハッとなった。
恋愛……? 二人をそんな対象として見たことはなかったけど、わたしは──
「……どう、なんだろう」
「おいおい、冗談を冗談で聞き返して本気になるなよ?」
「ううん、そうじゃなくて。……相手はともかくさ、そういう感情、いつか、わたしにも湧いてくるのかな」
恋愛だなんて、ユヅキだった頃もしたことがない。……恥ずかしいが、ずっと童貞だったのだ。
多分、それどころじゃなかったんだと思う。現世では母さんの希望を叶えるために必死で勉強をして、そればっかり考えて……。
「……そっか。恋愛する暇なんて、今までにこれっぽっちも無かったんだなぁ、わたし」
わたしは自分のつまらない人生に恥ずかしくなり、頭を掻いた。
「だったら、これからすればいいじゃないか。幸い、時間だけはいっぱいあることだし」
「そうなんだけどね。……わたしのどっちつかずが続いてる限り、そうはいかないよ。未練があるから」
「……母親の夢の事か? お前の誕生日に話してくれた」
わたしは頷いた。透き通る水面に目を向けると、反射する木漏れ日がゆらゆらと映っているのが見えた。
「きっと、こうして釣りをすることも、キャンプすることも、森林浴することも……全部やりたかったんだと思う。だから、思いつく限り、わたしが体感しない限りは、母さんの夢を叶った事にはならない。……わたしの……ユヅキの子供時代は、全部そのための準備期間だったんだ」
「……辛く、無かったか?」
「辛く無かった、と言えば嘘になるかな。自覚すら無かったけど。……敢えて言うなら、母さんがいなかったことだけが辛かった」
「そっか……」
そこでお兄ちゃんの竿がしなった。お兄ちゃんは半ば反射的に無表情で竿を動かし、一匹の魚を釣り上げた。ニジマスだった。
手元の魚籠に魚を入れると、再び竿を振るってルアーをちゃぷんと沈ませる。
「『自然』を体感することがお前の母さんの夢、だったよな?」
「うん」
「なら、お前が無事に恋愛したり、結婚することも望んでいたんじゃないかな。それが自然の摂理だから」
「……へっ!?」
お兄ちゃんの素っ頓狂な話に、わたしは裏返った声で返し、あんぐりと口を開けてしまった。
「ほら、掛かってるぞ?」
「……わわっ!?」
もはや考えていることは全て吹っ飛んでしまった。
慌てながら何とか釣り上げたのは、小さな鮎だった。
「……小さいね」
「リリースだ。まだ子供じゃないか」
針を外し、鮎を投げ返す。
口に穴をあけられたというのに、そいつは元気に泳いで帰っていった。
「……子供はやがて大人になるんだ。このプルステラでもな」
それは鮎のことだろうか、それとも、わたし達のことだろうか。
……お兄ちゃんはそれっきり、黙々と釣りを続け、何も語らなくなった。
お兄ちゃん自身も、どこか、自分の言葉の意味を深く考えているようだった。
2018/04/13 改訂、改稿




