39:槍兵の桑の木人形(マルベリー・ドール) - 3
三カ月に一回のアニマリーヴでロンドンから送られる人数はおよそ二万五千人。アーク一隻につき四百八十人が収容可能で、搭乗口は百八箇所、それぞれ時間をずらして三十分おきに離陸していく。つまり、一日につき約四十八便、五千二百隻余のアークが旅立つことになる。
それだけの過密スケジュールなので、具合が悪くなろうが二十分の間に着替えを済ませて搭乗し、残る十分の間にボタンを押すか否かを決断しなくてはならない。
カプセルに入ってしまえば具合など関係なくなる。そもそも、そのために用意された長い待ち時間である。ボタンを押すか否かもある程度この場で決めるべきなのだ。
では何故、これだけの人数を動かしながら、毎日ではなく、限られた日程で一度に送り出すのか。
その正確な理由は公式に明かされていない。
代わりにネットやテレビでは様々な憶測が飛び交っていた。中でも最も有力なのは、アニマリーヴの実施日を限定することによって結論を後回しに出来なくする、という説だ。
例えば、通常の空港と同じく、毎日アニマリーヴが行われていたとしよう。すると、誰もが後へ、後へと都合のいい日程を求めて先送りにし、結局のところ手が付けられなくなる。後になればなるほど人は殺到し、せっかくアニマリーヴを実行する気になっても予約が取れない、と大騒ぎになる。それだと双方が得をしないのだ。
祝日のようにあらかじめ日程や回数を決めて告知しておくと、人はそれに合わせてスケジュールを空けようとし、日数と回数が限られていることから、逃げられない最も優先すべき問題だと判断する。その結果、限られた便に確実に乗るためにと手前の日程から予約が殺到し、順番に埋まっていくことで無駄なくアニマリーヴが実行出来るというわけだ。
イギリスでアニマリーヴが行われる回数はたったの四回。しかし、期間にして十カ月、準備期間だけでも六年は経過している。
チャンスは一度。手続きをしたらその回のアニマリーヴに確実に参加し、一回きりのボタンで旅立つか否かを決定しなくてはならない。少しでも迷いを見せれば、直ぐに退場させられ、二度とアニマリーヴを実行することは不可能となり、短い余生を現世で過ごす、ということになる。別の便に乗り換えることも出来ない。
このような少ないチャンスをあらかじめ説明されることによって、人々の心には次第に焦りが生まれ、他の誰もがアニマリーヴを実行するなら、と便乗したい気に駆られる。
便宜上は強制ではない。しかし、ライフラインすら止まる現世に残ったところで得することなど、一つもありはしない。
結局、自主的という名の強制なのだ。
§
ジュリエットは二十冊目の一番分厚い本を読み終えた。顔を上げると、荷物審査は直ぐ目の前に来ている。そっと差し込むように本をリュックに仕舞い、チャックを綺麗に閉じ、目を伏せた。
何もしなくても、アークまでは辿り着けるだろう。問題はその後だ。用意したものが全て上手く働かせられるかに掛かっている。
深く長い息を吐き、呼吸を整える。
彼女の任務は今回が初めてだ。だからこそ、顔を知られていない、数あるエージェントの中から選ばれた。それに、必要なのはジュリエットという人間ではない。体内にあらゆるツールを内包した、生き人形の方なのだ。
(私は、私の価値のために戦わなくてはならない)
ジュリエットは自らの存在価値を求めていた。
任務をこなすことで、自分は初めて必要とされる。しくじることは許されない。
ポケットに入れた、ビー玉サイズの青いキャンディーを取り出す。
その包みを広げると、躊躇なく口の中に放り込み、舌で転がしながら少しずつ溶かしていく。包みは綺麗に折り畳み、直ぐ近くのごみ箱へ突っ込んだ。
ソーダに似せた甘い味が弾け、口内にピリピリと軽い刺激を与えている。
分泌された唾液に混じり、ごく微量に喉を伝って流れていく。ジュリエットはそれを確かめるように、胸元の少し上辺りを手でさすった。
「緊張しているのかい?」
老婦人が尋ねると、ジュリエットは飴を含んでいることを感じさせない口調で「平気です」と応えた。
「傍にいてあげたら良かったんだけどねぇ。あたしには孫娘のようで」
「そんな。勿体ないですよ、私なんか」
気が緩んだのか、思わず本音が出てしまったジュリエットは、自分を咎めるようにぎゅっと強く瞼を閉ざし、再び開けた。
幸い、老婦人はそんなジュリエットの心境に勘付いていないようだ。ジュリエットは静かに安堵の息を洩らした。
そんなやり取りの間に、順番が回ってきた。老婦人は重い腰を上げて拳で腰を叩きながらジュリエットに微笑んだ。
「お嬢ちゃん、あっちでも会えたらいいねえ」
名乗りもしていないのは、老婦人の心遣いなのだろう。
ジュリエットは、そんな老婦人の好意に応えるかのように、すっと微笑みを浮かべていた。
「縁がありましたら、ぜひ」
それが精一杯の回答。
ジュリエットとして最後の、心の籠もった言葉だった。
老婦人はずらりと分岐して並ぶ列の番号を手に持ったパスで確認し、歩いていった。
自分とは違う番号だったことに、ジュリエットは内心安堵する。出来ればこれ以上、任務を妨げる要因となる誰かと関わりたくなかった。
ジュリエットは口の中で溶けていくソーダの感触を確かめながら、すっと立ち上がり、老婦人の行き先とは別の番号の列へ歩いていった。
順番が巡ってくると、まずは係員にパスと鞄を渡し、金属探知機のゲートを通る。音は鳴らない。
次に係員の指示通りに両手を開き、両腕を水平に上げた。脇から腰、爪先まで二人掛かりで探知機が当てられ、それぞれ別の検査が行われる。
更に身体中を直に触れられ、刃物などを隠していないかを確認される。少々不快ではあるが、我慢した。
一方、本をぎっしりと詰めたリュックはセンサーを通し、モニターで確認されている。その方向に目を向け、目に映るものに問題がないことをジュリエット自身も確認する。
「問題ありません」
身体検査を終えた係員が告げた。
ジュリエットは礼の代わりに無言でニコリと微笑み、奥に続く道へと歩いていった。
出てきた荷物にはタグが付けられ、そのまま係員が運んでいく。もう、この手荷物を握ることはないだろう。
荷物は現世に戻ってきた時のための一時保管として、アークの底にある小さな荷室に積まれる。さすがにアニマ・ポート側で管理するほどのスペースはなく、アークに積む方が誰のものか見分け易いのだ。
(まずは第一関門突破……ですわね)
エージェント=マルベリー・ドールに戻ったジュリエットは心の中で呟いた。
真っ直ぐ続くトンネル状の通路を歩いていき、最後の更衣室に入る。
規則正しくずらりと縦列に並ぶロッカーから、案内に沿って自分の番号を探し、直ぐに見つけ出す。中には、時間に間に合わないと思ったのか、脱ぎ捨てられている服や開きっぱなしのロッカーもいくらかあった。
マルベリー・ドールは白いドレスの胸元のボタンをいくらか外し、両肩を剥き出しにした。それだけでドレスは重力の意のまま、するりと床に垂れ落ちる。
身につけている下着も全て脱ぎ捨て、ロッカーに入っている安っぽい布の服に身を包むと、先程までの華やかさは微塵も無くなった。
舌の上で転がっていた飴が残り半分ぐらいになり、飴に含有する麻痺毒の作用で手先は微かに震え始めていた。マルベリー・ドールは床のドレスや下着を一緒に拾い上げると、畳むこともなくロッカーへと雑に押し込んで鍵を引き抜き、奥に見える出口へと向かった。
聞こえてくるのはジェットエンジンの甲高い音。アークは直ぐそこにある。
舌で転がしていた飴に尖った感触が生まれた。もう、時間はない。
飴をうっかり噛み砕かないよう気を付けながら、彼女は出来る限り自然な早足で搭乗口に立つ係員二名の傍をすり抜け、アークに乗り込み、自分の番号のカプセルを素早く探し出した。
カプセルを開け、その中へ転がるように身を横たえると、カプセルの蓋が自動的に閉まるまでの数秒間で周囲を見回し、防犯カメラの数、センサーの数、カプセル内にある複数のガス噴射口の位置それぞれを一瞬で脳裏に焼き付けた。
あらかじめ歯に付けていた特殊なガムを指で巻き取って取り出し、二つの人指し指で分けてそれぞれの噴射口を塞ぐ。ガムはとても粘度が高く、しばらくの間、ガスの成分をこのガムの中に封じることが出来るだろう。
飴の残りがビーズ程になり、中にあった薄い板状のものが舌の上に張りついた。大分感覚を失った舌を使って何とか吐き出すと、それは本来歯に仕込むはずだった、ブレイデンのハッキングツールだった。目立たないよう、それを懐の内側に仕舞い込む。
目の前に手を持ってくると、その震え方がかなり顕著になっていることに気付く。完全に動けなくなる前に、と奥歯を強く噛みしめ、身体に鞭打って残りの作業を急がせた。
流れてくる機械音声の説明を聞かずにボタンに震える指を当ててから、カプセルの底部を使って全体重をかけ、親指ごとぐっと押さえ込ませた。その指を固定するためにも、もう片方の手で躊躇せず髪を何本か引き抜き、片側を歯で噛みしめ、引き抜いた手で手早く、ボタンを押さえる親指と手の甲、握られたボタンの取っ手とをきつく何重にも巻き付けて結び目を作り、首と顎の力で縛り上げた。
「……はぁ」
それだけで脱力感が身体中に浸透する。後は身体を蝕む痺れに身を任せるだけでいい。
飴の毒は身体中を麻痺させ、終いには心臓の動きを停止させる程に至る。
だが、彼女の脳細胞は血液の供給が止まっても最大六時間までは保てるように出来ている。その間、心肺停止から一時間後に毒の効力は失われ、更に二時間が経過すると、心臓の外側に血管の如く貼り付けてあるナノマシン群が自動的に一定間隔で強い電気ショックを与え、心臓が自ら働きを取り戻すまでの間、何度も繰り返される。彼女の人工心臓は一般人に比べ、電流に過剰に反応するため、ほぼ確実に自ら息を吹き返すことになる。
アニマリーヴの機能はそのままだが、何もしなくとも空振りに終わるだろう。催眠ガスによる眠りではなく、完全に心肺が停止した状態では、脳から正常な情報を読み取れなくなるため、アニマリーヴは中断され、「終わった」ものとしてそのままカプセル内に放置される。
死んだ人間はアニマリーヴ出来ない。この事は既に告知済みの「仕様」である。
マルベリー・ドールは瞼を閉じ、訓練と同じように身体をきつく縛る痺れを黙って受け入れた。
彼女はこの感覚がどうしても慣れなかった。無論、やれと言われれば進んで行うし、存在意義を考えれば慣れるべきなのだろうが、どうしても苦手だった。しかし――。
(あのお婆さんが傍にいてくれたら……)
気付けば、心の中でそんな事を考えていた。
この震えは、本当に麻痺によるものなのだろうか。
かつて、訓練施設で彼女を創造した研究者の男性はこう尋ねた。
「お前は恐怖を感じないのか?」
まだ名前も無かった彼女は逆に問いかけた。
「恐怖とはどんなものでしょう?」
彼は言葉を選んで考え、こう答えた。
「一般的には、目の前に見えない遮蔽物のイメージを感じてね、乗り越えよう、どうにかしようと思っても、意思に反して筋肉が強張ってしまったり、走った後のように心拍数を上げて動けなくなる。そんな状態を恐怖と言うんだ」
マルベリー・ドールは今、実際にその感覚に苛まれている。
このままいけば、確実に一時的な死を迎える。その感覚は既に知っているはずだというのに。
マルベリー・ドールは死に対して慣れすぎていた。まるで食事や呼吸をするかの如く、当たり前の事として受け入れていた。訓練では何度も仮死からの復活を試み、上手くいくことが証明されているからだ。
しかし、あの老婦人に出会ってからの彼女は、他人というものを少しずつ意識し始めていた。
他者は自分と違い、ただの一度きりの死を迎える。死後の世界については賛否両論あるが、「ハムレット」のデンマーク王のように枕元に現れることは普通、有り得ない。
そのようなことは常識として知っていたはずなのに、実際に出会った老婦人の言葉がマルベリー・ドールの頭を押さえつけていた。
――汚れた現世と得体の知れない新世界。どちらも秤にかけるなんて、難しいことでしょう?
彼女にしてみれば、死を選ぶことは容易な事だ。だが、老婦人は――ヒトは違うのだ。大半の人間は、アニマリーヴを死ぬ事として認識している。
ヒトは死に対して敏感であり、死ぬことを躊躇する。死は本来一度きりのものであり、二度と訪れないからだ。
だが、マルベリー・ドールは、死ぬことに対して恐怖を抱いているわけではなかった。
ヒトになる願望を持っていた彼女がヒトと明らかに違うということを知ってしまった故に、躊躇なく何度も死ねる自分と、根幹から決してヒトとして生きられない自分とを、恐ろしいと感じてしまったのだ。
既に人間ではない自分が、どうやってヒトに近付けるというのだろう。自分に人間としての価値はないのだ――その事に気付いた時、マルベリー・ドールは全身を駆け巡る寒気と共に、恐怖と言うものに打ち拉がれ、エージェントの仮面を脱いで泣きじゃくった。
「私は……人間になれない。決して人間として生きられないんだわ……!」
だが、その想いも、容赦なく途絶える。
頬を濡らしたまま、彼女は大きく何度か痙攣し、マルベリー・ドールとして予定通りの、仮初めの死を迎えたのだった。
§
(私は罪を犯した。今頃、マルベリー・ドールは苦しみながら、私に恨みの言葉を投げかけているに違いない)
科学の進歩により、人は人工的に人を造り出すことに成功してしまった。死を超越出来る手段をも手に入れたのだ。
遺伝子の組み換えによる素体の生成。そこへ、自己メンテナンスの出来るナノマシンなど、人間らしからぬ機能をいくつも取り付けると、昔で言うサイボーグ、或いは生体兵器と呼ぶべきモノが完成する。
彼らの持つ機能、或いは能力と呼べるものの所有数には限界がある。身体の負担もかかることから、幾らでも取り付ければいいというわけではないのだ。
マルベリー・ドールには、あらゆる毒を体内で浄化し、仮死状態から自動で再起動出来るという機能を与えられている。物理的な死には対抗出来ないが、死んだふりをするだけなら彼女ほどの適役はいない。
だが、任命したくはなかった。任務を与えなければ、いつまで経っても訓練施設で死ぬことを繰り返しやらされていただろうが、彼女が外の世界を知ってしまったら、人間として生きたいという願望が強く現れてしまうだろう。
そんな状態で初めて死ぬことを選択した時、彼女はどう思うだろうか。
「……大佐! ビセット大佐!」
気付けば、エリックが強い口調で私に呼びかけている。
私は頭を抱え、自然と身を震わせていた。
「……私は彼女以上に人間ではない。彼女こそ、人間として選ばれるべきだったのだ」
エリックは何のことかと顔をしかめ、怪訝そうに私を一点に見つめている。
「一体、何があったのですか!? ……いや、一体、誰を投入したのですか、あの作戦に!?」
私は答えるべきか迷った。だが、心の奥では咎めてくれる人を探していたのだろう。私は一切合切をエリックに打ち明けたいと思った。……どうせ、もう実行済みなのだ。成功していれば間もなく、彼女から連絡が届くはずだ。
ポツポツと説明すると、エリックの顔色が見る見るうちに蒼白になり、やがて真っ赤になっていった。
いつも冷静なはずの彼は鬼のように怒り狂い、喚きながら私の胸ぐらを掴んだのだが、そこで思い止まった。
「……殴りたまえ、エリック。私はそれを望んでいる」
だが、彼は少し悩んだ後にかぶりを振った。
「…………いえ。それは私個人の思想であり、感情です。背後に控える命を考えれば、私もそうせざるを得なかったでしょう。……とりあえずは代わりに罪を被った貴方に感謝します。不本意ではありますが」
「……まさか、お前からそのような言葉が聞けるとはな」
エリックは疲れた表情で首を横に振った。
「元々、アニマリーヴ・プロジェクトこそ非人道的な行為なんです。それに正攻法で対抗しようなど、無理に等しいではありませんか」
彼はそう言って、私の負傷した怪我に目を移した。
私は疲れで熱を帯びた両目に軽く手を当て、頷いた。
「悔しいが、その通りだ。ヤツらは恐ろしい力を蓄えてしまった。もはや、普通にどうこう出来る問題ではないだろう」
「この後はどうするんですか?」
私はこの後に及んで、さりげなく言葉を濁した。
「マルベリー・ドールからの連絡を待つ。まずはそれからだ」
2018/04/11 改稿・改訂




