26:魂(アニマ) - 1
――兄ちゃん、兄ちゃんってば。
聞き覚えのある少年の声に目を覚ますと、どこかで見たような景色が目の前にあった。
首を動かすと、そこには何年か前の、幼いアイツの姿。
――目、覚めた? びっくりしたよ、急に倒れるんだもん。
ぐわん、ぐわんと音が揺らぐ。まるで水中にいて、外から声をかけられているかのように、くぐもった音をしている。
それよりも、何で……プルステラにいないはずのアイツがこんなところにいるんだ。
――待ってて、今、父さんと先生呼んでくるから。
それだけ言って、走り去る少年。
待ってくれ……と言おうとしても、口が開かない。
再び身体が浮き上がるような感覚が訪れ、自然と瞼が閉じられていく――。
§
「…………マリ! ヒマリ!? 気付いたか! ……ヒマリの母ちゃん! ヒマリが起きたよ!」
目を覚ますと、別の白い天井がそこにあり、レンが名前を呼んでいた。
全身の力が抜け、思うように力が出ない。
「……レン……? どう、なったの?」
ようやく紡いだ言葉に、レンは困ったような顔を浮かべた。
「それどころじゃねーけど……勝ったよ。お前が気を失って落馬する前に、オレがトドメ刺したんだ」
「良かったぁ……」
ひとまず安堵する。アレは、無駄じゃなかったんだ、と。
そこへユウリママがやってきて、レンと入れ代わり、とても深刻な顔を覗かせた。
「ヒマリ! ヒマリ! 大丈夫!? ママが分かる!?」
「分かるよママ。そんなに慌てなくても大丈夫だって。ちょっと気を失っただけだし」
「バカ言わないで! そんな簡単な問題じゃないのよ、あなたの症状は!」
「え……?」
「症状?」と聞き返す暇もなく、ユウリママがいきなり体操服をめくってきたもんだから、レンは慌てて目を背けた。
剥き出しになった胸元に、持っていたメディカルスキャナーを押し当てる。ちょっとばかりくすぐったくて身をよじろうとするが、そんなことも許されないぐらい力は弱っていた。
「母さん!」
タイキがドアを開けて入ってきた。兄はこれまでにない深刻な顔を向けてきた。
「ヒマリ! 俺が分かるか!?」
「もちろん……って、ママと同じこと言うんだね」
「…………」
兄は口を閉ざし、目を逸らした。
「ねぇ、パパはどうしたの?」
「父さんはあまりの出来事にパニックを起こしそうだったから、外で待ってもらっている」
「はは……パパらしいなぁ」
レンはふいに椅子から立ち上がった。
「あの……オレ、外に行ってます」
「ごめんなさいね。心配かけさせちゃって」
「いえ」
家族だけの居づらい雰囲気だからか、レンは元気のない足どりで保健室を出て行った。
「……ヒマリ」
と、ユウリママは嘆息混じりに話しかけてきた。
「八月、あの黒い竜が襲われた時にあなたを診てからおかしなことに気付いてね、あなたが寝ている間に、内緒で定期的に身体の状態をチェックしてきたの」
「チェック? ……どういうこと?」
「あなたの身体は二つの魂で出来ているのよ。どういうわけか、一人の人間に二人分の魂が入っているの」
頭からさっと血の気が引いた。兄に視線を向けると、彼は目を閉じ、静かに頷いてみせた。止むなく、彼が事情を説明したのだろう。
……ユウリママは、そのまま話を続けた。
「難しい話になるけどね、プルステラではヒト……いや、プルステリアが激しい運動や、緊張、或いは興奮したりなんかすると、現実世界で言うドーパミンやノルアドレナリン、ホルモンみたいな脳内物質のデータが生成されて、感情や体調をコントロールするの」
ユウリママはそこで一旦話を区切り、「ここまでは大丈夫?」と訊ねた。その問いに頷いて応える。
「……だけど、あなたは既に二つの魂のデータを持っていて、プルステリア一人分として用意された容量を軽く超えてしまった。幸い、プルステラでは容量を超えた時のための措置が用意されているんだけど、それは本来、転生などにより記憶のデータが膨れ上がった場合に使われる予備の領域だから、人二人分だなんて普通はあり得ない。……そんな事態になってしまったあなたには、次々生み出される脳内物質を受け止める程の空き容量がなくて、過度の負荷がかかり、一時的に『処理落ち』が起きてしまったはずよ」
「処理落ち……?」
おうむ返しに訊ねる。そんなことがあっただろうか。
「処理落ち、なんだけど、体感としては逆かもしれない。周囲の動きが遅くなったり、見るものが色褪せたりしなかった?」
「……あ」
チャンバラ騎馬戦に向かう途中や、第三回戦の途中で起こった現象だ。自分だけが加速したように見え、余計な感覚が無くなったように感じた。
「それは、五感のあらゆる処理を遮断し、代わりに遅れた分を取り戻そうとした結果ね。そんなことを繰り返したら、プルステラの管理システムが異常を感知して、あなたの中の余分なデータを排除しようとするわ。それに、体内物質は身体に記録された性別でも違いがあるから、例え人格が男性でも、本来女性である本体から大量に生成されるホルモンデータを摂取すれば、その人の性格を形成するデータは女性っぽく上書きされてしまう。……つまり」
ユウリママはそこで医療用のモニターを動かし、こちらに向けてきた。
色々なグラフやパラメータの数値が書かれているけど、何のことか解らない。
……ただ、右下に書かれている文字だけは理解出来た。
――YUDUKI OOGAMI。
「……この『オオガミ ユヅキ』という人物の魂を証明するデータが、本来ヒマリであるはずのあなたの肉体から少しずつ消えていくことになるわ」
身体中から一気に血の気が引いた。思わず口許を押さえた手がガタガタと震えている。
「わ、わたし……は……」
大事な思い出。忘れてはいけない記憶。
「わたし」が、ユヅキであるという証明。
――だめだった。咄嗟に思い出そうとしても、ほとんど思い出せない。
かろうじて覚えているのは、自分が元々、オオガミ ユヅキという高校生の男子だった、ということと、家族の名前。……それと、アニマポートに向かった日のことや、先日思い出したばかりの、母が亡くなった時のことぐらいしか覚えていない。
ユヅキだった時の人格なんてものは、もはや、今の「わたし」には存在していない。今演じているはずのヒマリとしてしか、自分の人格を覚えていなかった。
「……何故、もっと早く相談してくれなかったの、『ユヅキ君』」
「ママ」は優しく、しかし、どこか残念そうにわたしに話しかけ、頭を撫でた。
「言ってくれれば、きっと相談に乗れたのに……」
「いや、母さん──」
「お兄ちゃん」が遮った。
「俺のせいなんだ。父さんや母さんを心配させたくないから、打開策が見つかるまでは内緒にしようって……相談して決めてたんだ」
ママは眉をひそめた。その目に涙が浮かぶ。
「……バカね。本当に、バカよ…………私は。息子や娘の事も助けられずに、何が看護士なの!?」
ママが、身体に力を入れられないわたしを、静かに抱き締めた。
「ごめんなさい」と何度も謝り、やがて子供のように声をあげて泣いた。
わたしは、ようやくディオルクの言葉の意味を悟った。「このままではやがて、身を滅ぼす結果になるだろう」――確かに、そう言っていた。彼は、こうなる結末を知っていたんだ。それをヒントとも知らずに、わたしは……。
「ねぇ、ママ」
わたしはママに抱かれながら、そっと呼びかけた。
「ママさえ良ければ、わたしはヒマリとしてこれからも生きていくよ」
ママは驚き、かぶりを振った。
「……駄目よ、そんなの! だって、本当のヒマリは……」
「――亡くなっているんでしょ? 知ってるよ。だけど、ユヅキはこれからも消えていく。そうなったら……、」
――我慢出来なかった。
一粒零れると、次から次へと頬を伝う涙。
乾く前に消えゆく、まるで今のわたしのような、作り物のエフェクト。
下唇をぎゅっと噛みしめ、わたしは誰でもないわたしとして、言い放った。
「……そうなったらわたしは、いったい誰として生きていけばいいの!? ユヅキじゃないし、ヒマリでもない! わたしはいったい、誰だって言うの!?」
ママが悪いわけでもないのに。
だけど、この理不尽な運命を呪わずにはいられなかった。その捌け口となるべきハッカーとやらは、未だに姿を見せていないのだから。
「ごめんなさい」
と、ママはもう一度謝り、わたしから身体を遠ざけた。
「あなたが最終的に誰になりたいかは、あなたがじっくり考えて決めて。あなたがどっちを選択しても、私は自分の子供として、あなたを受け入れてあげるから」
「ママ……。……うん、ありがとう」
しかし、そう言ってくれたものの、選ぼうだなんて言って、ユヅキに戻れるというわけでもない。可能性があるとしたら、来年の七月七日。三百六十五日が経過したその日に、現世へ帰るということだ。
でもその時、ユヅキとしての人格や記憶はどうなってしまうのだろうか。今だってユヅキの人格はほとんど失われてしまっている。いつかはヒマリに取って代わり、ユヅキであることすら忘れてしまうのではないだろうか。
そうなる前に、見つけなくてはならない。ユヅキとして戻るための方法を。
§
日が暮れ、白銀の幻想的な月が浮かぶ頃、ようやくわたしは力を取り戻し、何とか立ち上がれるほどになった。
まだおぼつかない足で歩くわたしを、「それでも安静にすべきだ」と、お兄ちゃんが背負ってくれた。
……なんか、複雑な気分だ。
他人の兄に背負われている自分が、妹として悦んでいる。
冷えきった心が十二分に満たされ、力が抜けるほど安心している。
……でも、心のどこかではまだ拒絶しているのだ。その人は自分の本当の兄ではないのだ、と。
「それじゃあ、ヒマリちゃん、あたしはここで別れるね。……無理しないで、早く元気になってね」
ミカルちゃんはそう言って、今にも泣きだしそうな、哀しそうな顔を向けてきた。
わたしは、その柔らかい頬を指でつついてやる。
「約束の新作、待ってるよ」
「もう……! 本当に本当に、心配してるんだから!」
「あはは……ごめんね。じゃあ、ちょっと空けるけど……登校日に、また」
「うん……」
小さく手を振って、わたしたちは別れる。
最後に残ったレンにも挨拶をした。
「ヒマリ……お前、いっつも無茶するんだからさ。たまには自分の身体、大事にしろよ」
「ありがとう、レン。ムツミとコウタにもよろしくね」
「ああ」
コウタを先に帰したのはムツミの判断だった。
大勢で行くべきじゃない。今は安静にすべきだ、などと言っていたらしい。
それでも、とレンは付き添ってくれた。結局ムツミが折れ、レンだけを保健室に行かせる形になったのだが、正直、これほど嬉しいことはない。
「……それと、さ。色々と複雑らしいけど……その気になったら、オレにも相談しろよな」
「ふふ……わかった。ありがとね」
笑いかけると、レンは恥ずかしそうに俯き、わたしに背を向けた。
「……じゃ、じゃあな! 元気になれよ!」
「うん。またね」
わたしだけの騎馬となったお兄ちゃんは、校門を出て、学校をぐるりと壁沿いに曲がり、いつもの通学路へ戻っていった。
あれだけ騒がしかった校庭を外から覗き込むと、得点ボードは片付けられ、運動会だった形跡は既に崩されたテントぐらいしかなかった。
わたしの意思に関わらず、運動会は完全に終わりを告げていた。小学生最後の運動会だというのに、最後までいられなかったのが本当に残念だ。
パパとママは先に一緒に帰ったらしい。今頃、心配するパパにママから事情が話されているだろう。……それでも、顔に出やすいパパには真実を打ち明けないらしく、今のところはお兄ちゃんと、主治医であるママだけの秘密にしてある。
「色々と考えるところはあると思うが」
お兄ちゃんが振り返らずに言った。
「今は、とにかく心を落ち着けて、安静にするんだ。騒げば騒ぐほど、お前の中のユヅキが消えていくんだからな」
「うん……」
家に帰ると、いつもの夕食の一時が少しばかり静かだった。
どんな話題ですら、この場では場違いだとでも思ったのか。……そのことが、わたしには重い責に感じられ、ご飯がまるで喉を通らなかった。
風呂には入らずに汚れた体操服を洗濯機に放り込んでパジャマに着替え、二階の自分の部屋へ上がる。
元々、風呂に入る必要なんてないし、もし風呂に入ろうものなら、きっと、育ち盛りの自分の裸を見て何らかの脳内物質が大量に分泌され、よりユヅキとしての人格がより希薄になっていくだろう。
何せ、今の「わたし」は、この身体を自分のものとして感じながら、一方では他人のものだと意識してしまっているのだ。答えが出るまでは、とにかくどんなことであれ、安静にすべきだと思う。
「はぁ……」
ベッドに横たわり、デスクから取り出したばかりの青いフォトフレームを眺める。
その写真に映ったユヅキの家族を見て、まだ記憶があることにほっと安堵した。……と同時に、ユヅキってこんな顔をしてたんだ、と、まるで赤の他人のように眺めていた。
……これだけは、絶対に失いたくない。
母が見られなかった青空を代わりに目に焼き付けること――それが、初めから乗り気でなかったユヅキの、プルステラへ行くことを決めた最大の理由、なのだから。
ピロリン、と、耳元で優しいメールの着信音がした。寝転がったままDIPを操作し、受信したメッセージを確認する。
「あ……」
――それは、運動会前からご無沙汰だった、エリカからのメールだった。
2018/04/05 改訂




