14:救いの手 - 1
西暦2203年7月20日
仮想世界〈プルステラ〉イギリスサーバー 第0321番地域 郊外
昼下がりの木漏れ日を受けながら、私は鼻唄交じりに庭の鉢植えをしていた。
バラにサフィニアにレモングラス……そうだ、ポピーの種も植えようか。単調な色に新しい色が加わるのは見ていて楽しいものだ。子供の頃、絵本を読んで夢見た光景に顔が綻ぶ。
ゾーイはいつの間にか眠ってしまっていた。……不思議な感覚である。半分は鼻唄を歌い、半分はその歌で眠っているのだ。何となく、ぼーっと惚けたような、夢心地のような感覚でガーデニングをしている。
初日に二人が身体を同時に動かそうとしてつんのめってしまって以来、ゾーイは動作の主導権を私に預けてしまっている。私がご主人様だからというのもあるが、基本的に痛い目に遭うと避けて通る性分なのだ。
意識が繋がっているので、彼女が動き回りたいと思っているのは存分に伝わってくる。たまには自分が昼寝をして、散歩代わりにゾーイに動いてもらうとしよう。せっかくこんなに大きな世界を走り回れるのだから、その感覚を自ら味わえないというのはもったいない。
「ん。上出来!」
出来上がった鉢植えを置いて、すっかり土だらけになった獣の両手を叩き、少し離れて我が家を一望する。
入居から僅か2週間程度ではあるが、焦げ茶色で統一されていた私のささやかな庭園はだいぶ鮮やかなものへと進展した。
これから秋にかけてはもっとたくさんの花が咲くことだろう。階段から2階に続くバルコニーの手すりには、種を植えたばかりの鉢を吊り下げている。色づく頃が楽しみだ。
あの憎たらしかったオーランドに、素直に感謝する。
我が家は人里から離れた、まるでおとぎ話のような鬱蒼とした森にある一軒のツリーハウスである。幹に戸が付いた1DKの部屋と、太い枝の上にも木造の小屋があり、一人で住むには充分過ぎる程に広い。
住人となるはずだった人の趣味だろうか、ガーデニングセットや工具、キャンプセットも取り揃えており、人里へ行かずともある程度自分で何とか出来るようになっていた。この辺は手続きで登録内容を変更してもそのままになっていたので、ありがたいというか申し訳ないというか……少しばかり複雑な気分である。
このような辺鄙な場所に敢えて一人で住もうとしていた家の持ち主とは、いったいどんな人物だったんだろうか。オーランドは男性なのか女性なのか、それさえも教えてくれなかった。もしかしたら、私のように人に交わらずに孤独を愛し、庭いじりをして心を癒したい――そんな願いを持った人が移り住む予定だったのかもしれない。
しかし、幾分足りないと感じるものがあった。家具である。
一階の木製の戸を開けると、今はテーブルの上に小物が散乱しており、置ききれないものは床に置いてしまっている。小物は多いのに、収納するスペースが全く見当たらない。
インベントリにしまっても構わないのだが、折角のリアルな生活を楽しむのにそればかり頼るのもどうかと思う。
ならば、やはり実行に移すしかないようだ。家具造りに。
幸い、それだけの道具は用意されている。ということは、元々持ち主だった人は、引っ越してから自分で家具を造る予定だったのかもしれない。
それなら私が遺志を引き継ぐべきなんだろう。持ち主が本当にやりたかったことを、私がやり遂げる。オーランドが言うように、それなら持ち主の魂も浮かばれるというものだろう。
家の中を色々調べたが、薪ぐらいの小さな木材しか見当たらないので、まずは収納用品――タンスの原料となる木を探しにいかねばならない。
一階の部屋の壁には、飾り物代わりの斧が立てかけてあった。ざっと三十センチ。元のエリカの肉体なら何度も振るうのは難しいだろうが、今はゾーイの分がある。試しに持ってみると思ったより重く感じられず、逆にもう少し刃が大きくても……と思うぐらいだった。
そこでゾーイが目を覚ました。これまで静かだった尻尾が勝手に揺らぎ始める。
何しに行くの? と聞いてくるので、家具を作ると伝えた。しかし、家具が何か解らないようなので、現世の家にあったアレやコレとイメージを膨らませると、ああ、と納得した。
斧を木材用の手押し車に乗せてガラガラと引いていく。小鳥の囀りと涼風に擦れる木々の葉の音に耳を傾けながら、柔らかい腐葉土をザクザクと獣の裸足で踏みしめていく。
そういえば、この身体のせいなのか、私には適切な靴というものがなかった。……いや、あったというべきなんだろう。足首には布製の何かがアンクレットかレッグウォーマーの如く巻きついており、下の先端が強い力で引きちぎったようにほつれてしまっている。
アイテムのプロパティを確認すると、意味は解らないが「布製の靴(unknown)」という名称のアイテムで、「加工者」として私の名前が載せられていた。恐らく、プルステラに転送された地点でこの巨大な足が規定サイズに納まらず、突き破ってしまったに違いない。
集落へ行くと服なんかも売られているんだろうか。これ一枚だけで過ごすのはあまりに不憫な気がする。
それに、いつまでも原始人よろしく裸足で歩くのも、何だか落ち着かない。うっかりトゲなんかを踏んでしまう危険性があるからだ。どうにかして靴か、それに近いものを作るしかなさそうだ。
木材となる木を選定する。こういった知識は皆無なのだが、うろがないものを選べばいいだろうか。
それなりに堅くて、長持ちしそうな木。どれもこれも斧を当てていくのは気が引けるが――。
「た、たすけてくれええ――!」
耳がピン、と上を向く。やや遠くから微かに聞こえた。男性の叫び声だ。
声のする方角を定めると、斧を片手に、落ち葉を蹴散らしながら木々の間を素早く駆け抜けていく。
――エリカ、はしるの、まかせて。
と、ゾーイが申し出た。さっと目を閉じて身体の指揮権を渡すと、彼女はカッと目を見開き、鋭い歯で斧の柄を銜え、倒れ込むように四本足に切り換えて力強く走った。途端に速度がぐんと上がり、次から次へと新しい景色を退けていく。
こうなると、動体視力はゾーイのものだ。木の模様ははっきりと見極められるし、飛び散る土の破片や木の葉すら遅く感じられる。
これが獣の感覚。何て力強く、何て神々しくも感じられるのだろう。
ヒトの女性から獣の雌へ。無駄のない筋力の使い方はさすがと言うべきか。
どれだけの距離を走っただろうか。およそ一、二分程度で現場に辿り着いた。
叫んだ男は斧を適当に振り回しながら目の前のそいつとギリギリの攻防を繰り広げている。
ゾーイは指揮権を私に返した。ぼんやりとしていた身体の感覚が目覚めるようにハッキリと戻ってくる。
手から生える手よりも長い四本の爪。青い肌にガラスのような透き通った鱗。太い尻尾。鋭い牙とその隙間から伸びる長い舌。
二本足で立ち、ジリジリと男を追い詰めている。
(人型の……トカゲ? リザードマン?)
私は二本足で立ち上がると、口に銜えた斧を右手に構えながらリザードマンに駆け寄った。
斧を振り下ろす。――が、気付かれて瞬時に避けられ、地面の腐葉土を撒き散らす。
「逃げて!」
と男性に呼びかけるが、動こうとはしない。どうやら腰を抜かしたらしく、立ち上がれないようだ。
猶予は与えられない。リザードマンはジグザグに跳ね回ると、突然のタイミングで飛び掛かってきた。
「ぐっ!」
斧の柄で長い爪を受け止め、力で押し切る。
リザードマンは後方に一回転して着地する。……すばしっこい上に、やはりヒトのように滑らかな動きをする。
「やあああっ!」
今度は私から仕掛ける。
斧を右斜め後方から上方に振り上げると、リザードマンは素早く宙へ逃げた。直ぐに斧を反転させ、リザードマンが落下するタイミングを狙いながら、背中から前方へ、一歩踏み出しながら力任せに振り下ろす。
リザードマンは自慢の爪で斧の刃を受け止めたが、二つに折れて吹き飛んだ。僅かだが、その指先から血がにじみ出ている。
続けて駆け寄り、もう一度右斜め上方から斧を振り下ろしたが、またしても避けられる。……軽い斧とは思ったが、使い方に慣れていないせいもあって振りが遅い。これではダメだ。
――エリカ、ツメをつかって! キバをつかって!
ゾーイが心の中で叫んだ。それでも指揮権は私に預けたままだ。戦闘時は迫り来る恐怖にパニックになって同時に動こうとしてしまう。ゾーイが動くより、私が恐怖に勝たなくてはならない。
斧は近くの木に振るい、刺さったままにしておく。
指先を開き、曲げながらぐっと力を入れて爪を構えた。
リザードマンは尚もジグザグに跳ね回り、私を翻弄する。
一呼吸する間に、ヤツは木の葉を撒き散らした。あっと叫ぶ間もなく押し倒される。
振り下ろされる右腕を何とか左手で掴んで止め、鋭い牙を開く下顎を右手で押さえつける。
力は均衡を保ち、互いの腕が震えた。
口許から垂れ下がる毒の唾液が私の頬を濡らす。目元にかかりそうになり、右の瞼は自然と閉じられる。このまま力比べをしたら勝てるかどうか……。
右膝を曲げ、その足で二、三度腹を蹴飛ばすと、少し力が緩んだ。右手にあらん限りの力を込め、ぐるっと左回転させ、頭を地面に叩きつける。そのまま噛み付こうとしたが無理な体制で限界があった。押さえつけていた力をバネに一旦後方へと飛び退く。と同時に、ヤツの爪が宙を薙いだ。――シャツの胸元が少し裂けた。
リザードマンが跳ね起きるタイミングで再び間合いを詰め、爪を振り上げる。ふらついて直ぐに動けない相手は懐を開いて油断している。爪を立てた手を力一杯振り下ろすと、確かに手応えがあった。
左肩から胸にかけて堅い鱗が引き裂かれ、飛び散ったものは木漏れ日を受けてキラキラと輝きを放つ。痛みのあまりか、リザードマンはぎゃあと悲鳴を上げて地面に倒れ込み、胸元を押さえながら派手にのたうち回った。
そのままヤツの懐に飛び込み、無理やり馬乗りになる。両腕を開かせ、太い手で押さえつけながら、直ぐに首の側面――頸動脈に喰らい付く。口一杯に味わったことのない苦い味が広がり、未知の体液が次々と顔を濡らしていくが、それでも強く噛みしめる。
リザードマンは耳をつんざく声でジタバタと抵抗したが、急速に抵抗する力が抜けていくのを感じていた。
やがて動かなくなるや、その身体はサラサラと細かい砂状になって崩れた。
膝や腕、口許に感じていた感触がふっと解け、ぱさっ、と温かみを残した腐葉土に身を埋める。
口に広がった血を吐き出し、腕で拭う。
血液中に「あの」細胞を溶かすような毒はないらしく、うっかり噛み付いてしまったのはギリギリセーフだった。
けど、こんな真似、私はもうこりごりだ。
「ひっ……!」
まだこびりついている血を拭いながら男に近付くと、彼は怯えた目を向けてずるずると後ろに下がった。
「大丈夫ですよ。私はあなたを襲ったりしません」
にこ、と微笑んだつもりだったが、それが不気味に映ったのか、決定打になってしまった。
「バ、バ、バ、バケモノ――――ッ!!」
腰が抜けていたはずの男は途端に立ち上がり、生まれたての子鹿のように足を震わせながら、がに股で走り去ってしまった。
「…………バケモノ……」
胸がズキン、と痛んだ。
血だらけの手で胸元に触れる。白い衣服が途端に赤く染まり、滑った感触が肌に伝わった。
――エリカ、だいじょうぶ? ……さびしいよね。ゾーイ、かんじてるよ?
同じ感情を抱いたゾーイが今にも泣きそうな声で問いかけた。私は首を振った。
「大丈夫。ゾーイがいるから」
そう、自分へと言い聞かせる。
胸の痛みは徐々に治まり、血で濡れた衣服も少しずつ元の白へと戻った。
汗だくの肌にはそよ風が冷たく感じられる。
筋力を使い果たしたからか、腕や脚は未だにぶるぶると震えていた。
男の取り残した斧を見下ろすと、ここが集落の伐採場であることをようやく知ったのだった。
2018/04/05 改訂




