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【第3章追加!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第2章

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第5話「古い字」

これは、誰の字だろう。


封を切った瞬間、そう思った。


朝の工房に、見覚えのない使者が立っていた。宰相府の定期便ではない。馬に乗った男が一人、公爵家の紋章が入った革の書簡袋を差し出して、何も言わずに去った。


リーゼルが窓から使者の背中を見送っている。


「師匠、あれ、宰相府の人じゃないですよね」


「違う」


紋章を見ればわかる。鷲と月桂樹。ルーゼン公爵家の家紋だった。


私はその紋章を、十五年間毎日見て育った。


書簡袋の中に、封書が一通。


封蝋の紋章も同じだった。


開けるべきか。


手が止まった。


レナードさんが言っていた。公爵が動いている。勘当撤回の準備をしている。公爵が直接辺境に来る可能性がある、と。


その前触れだろうか。


封を切らなければ、何も始まらない。切らなければ、ただの紙だ。


私は封を切った。


中の便箋を広げた。


筆跡を見た瞬間、胸が詰まった。


見覚えがあった。


幼い頃、父の書斎で見た字。公爵家の公式書簡ではない、私的な手紙の字。少し右に傾く癖。筆圧が強くて、紙に溝ができる。


三年前の断罪の場で、判決文を読み上げた法務官の声は覚えている。けれど父の字を最後に見たのはいつだったか。もっと前だ。勘当の前。まだ私が公爵家の令嬢だった頃。


文面は短かった。


『会いたい。話がしたい。』


それだけだった。


署名は「エーリヒ・ルーゼン」。公爵の公式な署名ではなく、個人の名前だった。


私は便箋を膝の上に置いた。


手が震えていた。


怒りではない。悲しみでもない。もっと古い場所から来る、名前のつかない感情だった。


三年間、何もなかった。


勘当されて辺境に来て、銀貨四枚とトウキの根三束で始めた。工房を建てて、リーゼルを迎えて、村の産業を作った。その間、父からは一文字も届かなかった。


それが今、たった二行。


「会いたい。話がしたい」。


何を話すというのか。


返書を書こうとした。書けなかった。何を書けばいいのかわからなかった。


私は便箋を畳み、棚の奥にしまった。


捨てはしない。でも、返事も書かない。


午後、トーマスさんが工房に来た。


「ヴィオレッタさん、ちょっといいかね」


村長の顔は穏やかだったが、目の奥に心配の色があった。


「今朝、公爵家の紋章をつけた使者が村を通ったそうじゃな。村の者が何人か見ておる」


やはり、目立っていた。


辺境の村に公爵家の使者が来ること自体が異常だ。馬に乗った男が紋章入りの書簡袋を持って走れば、村人の目に留まらないはずがない。


「トーマスさん」


「うん」


「少し、お話ししたいことがあります」


私は竈の前の椅子を指した。トーマスさんが腰を下ろす。リーゼルは奥の乾燥棚で作業をしている。聞こえる距離だが、この子にはまだ話す準備ができていない。


「トーマスさん。私は三年前に帝都の宮廷で断罪された、元公爵令嬢です」


声に出すと、思ったより平坦だった。


「ルーゼン公爵家の令嬢として育ち、冤罪で断罪され、勘当されてこの村に来ました。断罪は無効になりましたが、身分の復帰は辞退しました。今の私は平民で、帝国公認の辺境薬草顧問です」


トーマスさんは黙って聞いていた。


私が話し終えても、しばらく黙っていた。


それから、膝を一つ叩いた。


「知っとったよ」


「え」


「薄々な。最初にこの村に来た時から、ただの流れ者にしちゃ物腰が違うと思うとった。帳簿のつけ方も、薬草の知識も、平民の娘が独学で身につけるにしちゃ整いすぎとる」


「それに、宰相閣下が直々にこの村に来るようになった時、確信したわ。辺境の薬草茶がいくら美味くても、宰相が何度も足を運ぶ理由にはならん」


トーマスさんは笑った。穏やかな、しわの深い笑い方だった。


「じゃが、わしにとっちゃ関係のないことじゃ」


「関係のない」


「お前さんが公爵の娘だろうが平民だろうが、この村に来て工房を建てて、薬草茶を作って、村の暮らしを良くしてくれたのは変わらん。リーゼルを育てて、グスタフに流通を作って、トウキの煎じ茶で村の年寄りの咳を止めてくれたのも変わらん」


「それがお前さんのやったことじゃ。名前も肩書きも、後からついてくるもんだろう」


私は言葉が出なかった。


涙がこぼれそうになって、唇を噛んだ。


「村の者には、わしから話しておく。公爵家の使者が来た理由は、帝国薬草顧問への公式連絡じゃ、とな。それで十分じゃろう」


「……ありがとうございます」


「礼はいらん。お前さんが明日も竈に火を入れてくれれば、それでいい」


トーマスさんが立ち上がった。帽子をかぶり直して、戸口に向かう。


振り返って、一つだけ付け加えた。


「公爵が来るんなら、わしが村の代表として迎える。お前さんは工房にいなさい。ここはお前さんの場所じゃ」


戸が閉まった。


工房に一人になった。


リーゼルは奥で作業を続けている。カミツレの花を吊るす音が、小さく聞こえる。


この子にも話さなければならない。


でも、今日ではない。


明日の仕込みが終わってから。この子が落ち着いて聞ける時間に、自分の口から伝える。


「この子にだけは、自分の口から」。


それだけは決めていた。


夜。


棚の奥から父の書簡を取り出した。


もう一度、読んだ。


「会いたい。話がしたい」。


字は、記憶の中のものと少し違っていた。


右に傾く癖は同じだ。けれど筆圧が弱くなっている。紙に溝を作るほどの力がない。三年の間に、父も変わったのだろうか。


返書はまだ書かない。


捨てもしない。


竈の残り火がかすかに赤い。トウキの香りが工房の中に漂っている。


この場所を、私は三年かけて作った。


ここに父の字が届いた。


それだけが、今の事実だった。


便箋を畳み、棚に戻した。


明日、リーゼルに話す。


それが、今の私にできる次の一歩だった。

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