7. VT社の懇談会
ヴェネティゼータの都市部は、古い順に「大崩壊」前の遺跡、「大崩壊」前からありつつ現在でもその遺跡の上に人が住む地区、騎士団設立以降発展した旧市街、騎士団中興の祖と称えられる団長が再開発した新市街、現フェイレイ・ルースグループの会長が大資本を流入させて開発を急ぐ地域、に分かれる。
軌道エレベータが都市の近くにあるのだが、その地上側基部付近は住居を置くことが認められていない、完全な倉庫地帯だ。地上の騎士団施設も、普通の都市としてのヴェネティゼータも、このエレベータがロジスティクスの生命線だから、警備も厳しいし、都市部をここまで拡張することもない。
グループで最も従業員数が多いのは、騎士団ではない。テクノロジー企業であるVT社だ。超短期契約労働者を除いても、全体で一〇万人を超える。
ヴェネティゼータ・テクノロジーズの頭文字を取ってVT社という、実に素っ気ない名前のその会社の本社は、旧市街と新市街を結ぶ線上にある。どちらからも従業員が通いやすいようにしたため、というわけではなく、建設当時はそのあたりの岩盤が堅固過ぎて開発に向かなかったから、地価が安かったのが理由だ。
工業用地にするなら地盤が固いに越したことはないので、創業以来この地帯に工場を立て、更新してきた。
騎士団同様、何度も倒産の危機を迎えながらなんとか続いてきた。
クリシュナやエステルが呼ばれて訪れたのは、いくつかに分けて建てられている工場群のうち、グループ内で「軍需群」と呼ばれている中にある建物だ。
毎日の再訓練と新型ギアのテスト搭乗で疲労が溜まっている二人は、演習場から地上車に乗せられて心地よい振動に揺られているうちに安眠してしまい、起きた時には目的の建物に到着していた。
今日は騎士団士官の通常服を着ている。再訓練は休み、テスト搭乗も無しでVT社からの招請に応じるよう命じられていた。
黒基調の騎士団の制服は、貴族文化と少なからずつながっている組織だけあり、戦闘服や地上用のパイロットスーツと違って無骨さよりも様式美が勝っている。
パンツスーツのクリシュナと違い、エステルはスカートスタイル、それも膝下丈のフレアスカートを身に着けていたから、可憐さが加わって破壊力がある。
短髪のクリシュナは普通に軍帽をかぶるだけだが、長髪のエステルは夜会巻きにして略帽をピンで止めている。長髪の士官は割とよくやる形式だ。
二人ともメイクはしている。どちらも淡めだが、この前クリシュナがVT社幹部のイリス・ティーレ博士に会った際、完全ノーメイクで出て来た残念系女子の姿に少々衝撃を受け、訓練中以外は多少なりとも身なりは整えよう、と思いを新たにした結果らしい。
二人が並んで立つと、男装の麗人が軍装の美少女をエスコートしているように見えて、実際その姿を見た女性エンジニアたちの一部が興奮のあまり悲鳴を上げるという一幕もあったのだが、本人たちはそれに気付いていないようだった。
「ドゥ・プレジール中尉は可愛いけど、夜会巻きは減点ね」
「背伸びした感がいいと思うけどなあ」
「せっかくのゆるふわを丁寧にまとめるなんて、カワイイの神への冒涜だわ」
「ここはあえてツーサイドアップで行って欲しかった……!」
「その点ゴーシュ少尉は完璧だね」
「フェミニンな要素を完全に抜いたコーディネートにナチュラルメーク、唇は強調しない代わりにアイメイクは強めにしてるあたりがよくわかってる」
「浅黒妖艶美少年の完成形だね」
「王子が、王子がいるよ……」
「さらわれたいっ……!」
色々とツッコミどころの多い会話だが、あえて触れまい。
クリシュナがVT社内で「王子様」と呼ばれるようになった、記念すべき日であった。
それはさておき。
呼ばれた先の建物は工場ではなく、様々な工場の中にある小さな目立たないビルだった。もっとも、まわりの工場がでかすぎてスケール感がおかしくなっているだけで、一般的な商業ビルなどと比べれば大きい。
地上部分は三階建てくらいに見えるが、VT社の建物の主要部分はだいたい地下にあるから、ぱっと見にだまされてはいけない。乾燥し荒涼とした大地が広がるこのあたりでは、昼夜の気温差が大きく、地上に建屋をさらしていると冷暖房効率が悪く、細かい砂も入り込むし、建屋の寿命が縮まる。
さっきまで寝ていた割に二人ともしっかりとした足取りで建物に入る。
工場やこの建物など、VT社の建物はほぼすべてが石造ではない。建材は建物の種類によって異なるが、二人が招かれた建物は、ケイ素を基材に様々な金属や炭素化合物を混ぜて作った特殊樹脂でできている。大気中の僅かな水分を抽出して純水に加工する能力を持ち、その水で屋内の植物を潤したり、室内の湿度管理を行ったりするという。
たしかに、屋内に入ると空気が柔らかい。外のひりつくような乾燥を感じずに済むのは快適だった。
エントランスは大きな吹き抜けのホールになっていて、開放的な宙空には三次元モニターで惑星ヴェネトの全景が映し出されていた。周囲の壁は都市部の住宅等と同じ明るい色の石の色をしているが、本物の石を薄片にして貼り付けているらしい。
少しひんやりした空気の中で、ホールに人は少ない。受付に人を置く趣味はないらしく、来客も多い時間帯ではなさそうだ。ちなみに惑星ヴェネト標準時の二三時、ヴェネティゼータ標準時の十一時過ぎである。
ホールの奥はエレベーターやエスカレーターが並び、その奥には喫茶スペースがある。こちらはそこそこの人気らしく、人の姿が遠くに見えているが、遮音フィールドかエアカーテンのおかげか、声は聞こえてこない。
案内役の社員が二人から一度離れ、案内カウンターに行く。パネルを見ながら何やら連絡を取っているようだ。二人はホールの片隅に立ちながら、所在無さげにあたりを見回す。まさか、入ってくる前からここに至るまで、エンジニアたちが各所のカメラでその姿を捉えつつキャーキャーいっていたとは、もちろんつゆ知らない。
すぐに案内役の社員が戻ってきて、再び案内を開始する。
本物の大理石を敷いてあるというホールの床に靴音を響かせながら、エレベーターに進む。二人の靴は制服に合わせてあるから、エステルは支給品の踵が低いパンプス、クリシュナも支給品の短い編上げのブーツ。制服同用品はいいのだが、おしゃれではない。
エレベーターに乗り、垂直方向に四〇メートルほど降りて筐体から降りた二人は、天井が高い高級ホテルのような空間に出た。広いロビーがあり、深いワイン色の絨毯が敷かれ、壁にはわずかに赤みを帯びたジョーゼットがひだを作ってかけられ、天井間近の壁面に当てられた間接照明で照り沈みができている。あらゆる金属部品は磨かれて光を放ち、ほのかな芳香が鼻腔をくすぐってくる。
この階の受付には人がいた。人まで受付に置くとなると、このフロア、異常に格式が高いぞ。エステルが警戒した。
受付などという、案内設備が整えばまったく必要ではなくなる職をわざわざ作るなど、貴族か成り金の趣味でしか無い。エステルの伯爵家も、本邸は受付に着飾った人を座らせて贅を誇っていた。
その受付に座っていた人物が立ち上がり、二人を迎えた。
その顔を見てエステルもクリシュナも驚いた。
「ティーレ博士」
理系女子のだめな部分を代表しているかのような女性、イリス・ティーレ博士だった。
ただし、この日は化粧をし、髪も結い上げ、服も光沢あるシルクのタイトなワンピースの上に、同色で織りを変えたジャケットを羽織るスタイルのスーツを着ていた。びっくりするほど上質な美人で、エレガントさはまるで貴族だ。本物の貴族であるエステルが思うのだから、クリシュナもびっくりしている。
「こんにちは。ようこそおいでくださいました、お二人共」
まさか受付嬢ではあるまい。どうやら受付に人を置いていたのではなく、博士が勝手に座っていただけらしい。
「これは、どういう……」
淑女の礼など知ったことではないクリシュナが尋ねようとしたが、エステルがそれを制して半歩前に出た。問うなら、上官であるエステルからでなければいけない。
「博士、この度はお招きいただき光栄です。早速ではありますが、我々はいかなる目的で招いていただいたのか、ご教示いただけませんか」
自分がドレスでもまとっていれば、もっと複雑で儀礼の入り組んだ言葉を発するのだろうが、軍服だ。軍人らしい口調で問う。
博士は見違えるような美貌を、これだけは変わらず無表情なままでエステルにまっすぐ向けた。
「ご説明がありませんでしたか?」
「上席からはこの建物に案内されるままついていけ、とだけ」
「ああ……そういうところは統括責任者に似るのですね……」
と謎のボヤキを口にしたあと、博士は二人に説明する。
「新型機や新型砲、都市の開発について、現在のところ我社はいくつかの銀行団から借り入れを行って進めています。銀行団の担当者などには週ベースで詳細な報告を行っていますが、今日は責任者レベルの方々を集め、現況報告と顔合わせなどを行う会が設定されています」
銀行団からの借り入れ、という言葉にまず二人は不穏さを感じる。
聞くところによると、騎士団を買収して現在経営陣のトップにいるオーナー会長は、ヴェネティゼータの都市国家としての年次予算額を遥かに超える借金をして、都市開発や各種兵装の新型開発を行っているという。ひとつこけたら全部ぶっ飛ぶ、らしい。
その責任者レベルが会しているという。
なぜそこに我々が。
露骨に嫌そうな顔になったクリシュナの顔を見ないようにして、博士は続ける。
「当然ながら、ギア開発は花形の一つですから、開発責任者としての私は出ざるを得ません。会長が本来は開発主任ですが、どこをほっつき歩いてるんだか、『行方不明だと色々差し障りもあるだろうから、家出中ってことにしといて』とかいう妄言を吐いているようなので無視するとして」
美しい顔が若干歪む。色々苦労しているらしい。コメントはスルーしておこう、と二人は沈黙を守る。
「お二人には、新型機のテストパイロットとしてご活躍いただいています。その代表として、この会で銀行団の方々からのご質問などあればお答えいただきたいのです」
「それも任務とあらば微力を尽くしますが、小官らでその任に堪えますか」
小娘と思って舐められても、コメント力を求められても困るぞ、と言外に伝えると、博士はうなずいた。
「お歴々は経済の修羅場をくぐり抜けてきた方々ですし、ある意味うちの会長に鍛えられていますから。お二人を専門家として尊重してくれると思いますし、お二人のコメントからご自身の知りたい情報をご自身の力で読み取ってくださると思いますよ。何しろ鍛えられてますから」
二度いった。その意味まで聞いたら、博士の愚痴が止まらなくなりそうだと察したエステルは、敬礼で彼女の言葉に答えた。
「承知致しました」
半歩後ろでクリシュナも敬礼する。
そのタイプがまるで違う美女三人が集う場に、足早に一人の男性が近付いてきた。三つ揃いのスーツを着た整った容姿の青年だ。
「博士、テストパイロットのお二人か?」
「鄧さん、そうです」
博士がうなずいた。
フィル・エーカーのような剛直さとは違う、切れ味の鋭い厳しさを感じさせるその青年は、二人に「鄧士元です」と名乗って一礼した。
「今回は急なお願いで申し訳なかった。ご協力に感謝します」
参謀といわれても違和感の無い雰囲気だが、礼も口調も意外に柔らかい。軍事組織にいるとあまり感じない、柔らかな人当たりだ。眼光は鋭いが、確かに民間人だ。
「あまり固くならず、普段通りにお過ごし下さい。まあ、そうはいっても難しいのは承知の上ですが。私や博士も最大限サポートします」
エステルあたりの経験上、地位も実力もある男というのは、それなりに地位や実力を評価されているような若い女を相手にする時、獲物として見るか、見下して上に立とうとするかしてくるものだが、彼は違うらしい。彼女が見てきた相手が悪いのかも知れないが。
さすがに上流階級相手のやりとりは、エステルの独壇場だ。
「今までの機体とは一線を画する性能であることは間違いありませんが、まだまだ底が見えません。開発作業はこれからも続きますが、素性の良さは既に明らかです」
説明する中でも余裕の笑みを絶やさず、白金のまつげを瞬かせながら語るエステル・ドゥ・プレジール中尉の堂々たる姿は、見た目が可憐なうら若き女性であるがゆえにかえって強さを感じさせる。
素性は良いかも知れないが散々に振り回されてえらい目にあってます、などというはずもなく、エステルは昨日もひどい目にあったばかりの機体を褒め上げた。
「パワーバランスに深刻な難があると聞いているが」
立食パーティのような形式で行われている懇談会は、ゲストたち銀行団の重鎮を中心に、ホスト側の代表である鄧や、新ギア開発担当者のティーレ博士、新型砲の開発担当者、都市開発部門の長、新型船舶の営業責任者などが集まり、様々な分野の会話が入り乱れて行われていた。
エステルに問いを投げかけているのは、宇宙列強の一つ「トゥール連合」に本拠を置く銀行の本社執行役員。国家財政レベルの判断を日常的に行う人種だ。当たりは柔らかいが、腹の底に何を抱えているかわからない怖さがある。
ごくごく一般的な庶民として生きてきたクリシュナは、生涯合うこともないだろう人種だ。同じ人間とも思えない不気味さを感じ、でかい仕事をする人間ってのは同じ人類とも思えないんだな、などと薄ら寒い思いをしている。
「まだ骨格だけの機体ですから、パワーバランスを気にする段階にはございません。逆に、ここでバランスが取れているようでは、開発が進むにつれ尻すぼみになりかねませんから」
「そのようなものかね」
「競技用船舶でもそうですわ。競技シーズン前にまとまってしまうような船は、シーズン中に大化けすることもございませんでしょう」
上流階級はだいたい宇宙空間でのレースが好きで、この重役もそうではないかと当たりをつけたらしいエステルが、例え話で返す。
正解だったらしく、重役はうなずいた。
「なるほど、それはそうだ」
エステルの軍人らしい闊達さと、昇竜階級らしい鷹揚さとが絶妙に入り混じった話は、重役を納得させるだけの説得力を持っていた。
貴族令嬢出身ということで、上流階級あしらいはお手の物なエステルは、当然のように茶会の開催も経験しているから、例えば目上の男性に対しさり気なく飲み物を変えてやったり、エスコートされるふりをしてエスコートしたり、ギア開発責任者の立場で話し始めると凄まじい専門用語を並べ始めるティーレ博士の通訳を務めたり、会場内で八面六臂の活躍ぶりだったといって良い。
もっとも、本人は自分の役割を冷静に見切っている。それも貴族階級の大事な才覚だ。
所詮、彼女たちはテストパイロットでしかない。経営者として、金融家として、莫大な資本を武器に戦っている人々にとって、いくら社の経営の鍵となる新型機開発の根幹に関わっている人間とはいえ、重要度は明らかに低い。
この場に必要な人間ではあるが、重要度は低い。重大な経営情報や金融情報を得ることを期待して来ている人々にとって、見た目に美しい添え物に過ぎない。
その立場が分かっているから、エステルは余計なことは口にせず、出過ぎもせず、聞かれれば答え、そばにいるなら世話をし、会場の華に徹した。
エステルのその態度が理解できるから、つまり添え物である自らを良くわきまえつつ振る舞う彼女の頭の良さと謙虚さがわかるから、人々は彼女の存在を歓迎した。
調子に乗って出過ぎるようなら冷然と無視されただろうし、引っ込んでいるようなら存在そのものを無視されただろう。
おっかない世界だな、おい。
近くにいて見ていたクリシュナは、最初からこんな世界に馴染む気はさらさら無いから、無視してくださって大いに結構という気分だったのだが、エステルはそうもいかないだろうとも思う。
あの白金の髪の上官は、世界最強国のひとつの伯爵令嬢として生まれてしまっているし、子爵に除爵されてもいる。家から離れた今でも帝国の藩屏であり貴種である。生きている以上は上流階級であることを強いられているし、人が思う以上に逃れることは出来ないだろう。
最初からそうであったかは知らないが、今のエステルは自分の立場をちゃんと客観的に見ている。だから、立ち位置を間違えない。
クリシュナは、ごく自然に彼女のそばに立ち、下僚として振る舞った。出過ぎず、口を挟まず、問われれば答え、軍人らしく背を伸ばし、きびきびと立ち振る舞う。
どうせ自分は一般人生まれのいち軍人に過ぎない。エステルのように背負っているものがあるわけでも、背負わされているものがあるわけでもない。
だったら、背負っている、背負わされているエステルを助けることくらいはしようじゃないか。
どうせここまで来てしまったら、壁の花になったところで苦痛なだけなんだし。
主役になることを求められず、脇役を助ける黒子役をしていれば、しかも何の責任も持たずにその役をしていればいいのだとしたら、実に楽な役回りじゃないか。
もともと図太いクリシュナは、さっさと場に適応すると、押し出しが強くならない程度に普段通りに振る舞った。どうせ自分に注目したり、情報を欲しがってきたり、利益を得ようとしてくる人間などここにはいないのだから。
そんな小さい人間はここにはいられないのだから。
そう思い動いているクリシュナは、実は評価を高めている。出過ぎないエステルも好感を持たれているが、彼女の場合は出自が出自なので、周囲の要求水準が高い。出来て当然、という考えがどうしても周囲にある。
一方でクリシュナはそんな人間ではないただの軍人であることは見ればわかることだから、背筋を伸ばしてきびきびと立ち回り、男装の麗人めいた凛々しい雰囲気で周囲を気遣う様が好評価を呼んでいた。
本人は全く気付いていなかったが。
給仕役で出ていたVT社の社員が後にこの光景を語り、「王子様」のあだ名が確定し広まっていくことになるのだが、本人が気付くのはだいぶ先の話である。
とはいえ。
彼女たちがどんなに頑張っても、開発責任者たちがどんなにアピールしても、銀行団のお歴々は次第に機嫌を下降させていった。
当然だろう。
彼らが一番相手にしたかった人間が、この場にいないからだ。
銀行団が何に対して金を出しているか。
極論すれば、金が生み出す金のためだ。
それを実行する人間が、この場にいない。そのことが次第にこの会場全体のストレスになっていく。
「で、会長はどうしているのかな」
「到着が遅れているとは聞いているが、このまま朝まで待たせる気か?」
会合が一時間を超え、酒も入り始めたところで、いよいよ空気が重くなってくる。
そろそろそういう時間が来たな、という顔で鄧が緊張に満ちた目をし、素人に伝わらない自分の説明にイライラし始めたティーレ博士が食いに走り始めた。
不穏になり始めた空気を察し、だが自分にそれを変える立場も力もないことを知っているエステルは、さてどうしたものかとクリシュナの顔を見上げた。
近くにいてひと息吐こうとグラスを手に取ったばかりのクリシュナは、片眉だけ軽く上げた。
『……そろそろ帰ってもいいかもね』
という意図は、正確にエステルに伝わっている。
「……そういうわけにもいきませんよ」
とエステルが苦笑する。
「そうですね、まだ何も食べていないことですし」
とクリシュナ。食い気に走ろうとしているということは、黒子役もそろそろ飽きてきたらしい。
「中尉もいかがです。空気が悪くなりきる前にお皿を埋めておいた方がいいですよ、きっと」
いいながら、クリシュナは既に皿を持って料理を取り始めている。エステルは苦笑し、次の瞬間、凍り付いた。
見てはいけない物を見てしまった気がして、フリーズした。
視線の先、クリシュナの姿を通り抜けたその先、大きなホールの端、なぜか死角のようになっている一角。
そこに、エステルも顔を知る有名人でありながら、いかにも存在感の無い人間がひっそりとたたずんでいた。
「……先輩、あれ……」
思わず先輩呼びしてクリシュナの注意を引く。クリシュナがエステルの方を見て、その視線を追うようにして同じ人の姿を視界に入れ、危うく皿を落としかけた。
「あ、あなた……」
人影は二人の反応を見て、ふっと息を漏らしたようだった。
「……見つかっちった」




