9話 心の介抱
肌寒い夜道を駆け抜けて自宅マンションが近づいたところで足を止めた。
頭の中を空っぽにしたくて高熱の中、全力で走った。
「うっ……葵……」
しかし、気持ちが晴れることはなく……どこまでも深い海のように沈んでいく。
親父が俺の金を使い込んでいたと知って……勿論ショックを受けたが……。
今の俺の心境はそれの比ではなかった。
葵が遠くに行ってしまった。
近くにいた葵が徹の元へ……。
涙で視界が歪む。
激しい頭痛で足元が覚束ない。
今日一日ですべてを失った。
金も……見据えてた将来も……大好きな葵も……。
ふらふらになりながら自宅マンションの傍まで歩を進めたのだが、意識が朦朧としその場に跪く。
「……だめ、だ」
昨日から熱があるのに……走ったり、怒鳴ったり、泣いたり……無茶をしすぎた。
あぁ……眠い……寒い……。
真冬のような寒さと強烈な眠気が俺を襲う。
視界が……心が……少しずつ深く暗く沈んでいく。
もう……一層の事……このまま、死んでしまった方が楽に……。
「なん、だ……?あ、たたかい……?」
凍えるような寒さの中、微かな温もりを感じた。
その温もりが俺の意識を少しだけ引き戻してくれた。
「大丈夫!?大和くん、聞こえる!?」
「せ、先輩……?どうして、ここに……?」
俺の傍に慌てて駆け寄ってきてくれたのは……速水先輩だった。
先輩は自身が羽織っていた上着を脱いで、それを震える俺の体に被せてくれた。
「寒い!?救急車呼ぶ!?」
「い、いえ……」
「自宅の鍵持ってる?」
「ズボンのポケットに……」
「借りるね」
俺のズボンのポケットから鍵を取り出した先輩は玄関扉を解錠してくれた。
そして一人では歩くことができない俺は先輩に支えられながら、ようやく自宅へと帰宅した。
♢
「あ……?俺……どうしたんだ……?」
意識を失っていたのか……?
目を覚ますと自室の天井が見えた。
いつの間にかベッドで眠っていたようだ。
上体を起こして、おぼろげな視界で部屋を見渡すと椅子に腰けている速水先輩の姿を発見して驚いた。
「起きた?体調はどう?」
「せ、先輩、どうしてここに!?」
「覚えてない?大和くん、マンションの前でうずくまっていたから……鍵を拝借して……」
そうだった……。
また俺は先輩に助けられたんだった。
「ごめんね、勝手に家に入って」
「あ、いえ……助かりました、ありがとうございます……」
「こんな状態の大和くんを放っておけないから……ご両親が帰ってきたらお暇させていただこうと思ったんだけど……」
スマホで時間を確認すると時刻は深夜3時だった。
「今日は……母は夜勤で……朝まで帰ってこないんです。親父は……知りません」
母さんはパートやバイトで色々な仕事を掛け持ちしていて夜中に仕事をすることもある。
親父も夜中に出掛けることは多い。
どこで何をしているのか知らないが……ふらふらと飲み歩いているのだろう……。
「先輩はどうして俺のマンションに……?」
「大和くんのことが気になってね。連絡したけど既読もつかないし……。心配になって……来ちゃった」
先輩から何件かのメッセージが来ていることに気がついた。
一昨日、バイト先でも倒れてしまったから心配を掛けてしまっていたようだ……。
「で、どう体調は?」
「あ……はい……少しマシ、です」
「今はゆっくり休んで。朝になったら病院に行こうね」
先輩の優しい声と気遣いが……俺の痩せこけた心に染みる。
「もしかして大和くん、そんな状態なのに……学校に行ってきたの?」
「あ……はい……」
先輩はある物を俺に差し出してくる。
「これを宮野さんに渡すために……?」
それは渡すことができなかった葵への誕生日プレゼント。
「大和くん……さっき意識が朦朧としていた時も、これを大事そうに握って離さなかったよ」
文化祭であった出来事が……脳内にフラッシュバックする。
「今日文化祭だよね?プレゼント……渡せなかったの?」
俺は静かに頷いた。
「そっか、宮野さん生徒会長で忙しいもんね。当日渡せなかったのは残念だけど、体調が良くなって次に学校へ行った時にでも……」
「ちが、う……違うんです……。もうそれは……渡せないんです……」
強烈な喪失感が襲ってきて……俺の目から涙がこぼれる。
「大和くん……なにかあった?」
先輩はいつもと同じ優しい目で俺のことを見つめてくる。
この人はいつも寛大で温かくて……。
「先輩……」
「大丈夫、ゆっくりでいいから……」
そんな先輩の真心籠った言葉に……俺は号泣してしまった。
俺は先輩になにがあったのかをすべて話した。
今までの貯金が無くなったこと。
大学に行けなくなったこと。
葵の父親に会ったこと。
葵と口論になって彼女を突き放したこと。
葵と徹が抱き合って……恋人関係になったこと。
プレゼントを渡せなかったこと。
言葉を選ばずにパニック状態になりながら溜まりに溜まったストレスを、憤りを、悲しみを、先輩にぶつけた。
「俺……これから、どうしたら……」
そんな俺の話を最後まで口を挟まず真剣な表情で先輩は聞いてくれた。
「大和くん……」
重くなってしまった空気の中、先輩は静かに口を開いた。
「ごめんね。今の私には大和くんを助けてあげることはできない。ただの大学生に過ぎない私は財力も社会的な立場も持ち合わせていないから」
俺は俯きながら先輩の話に耳を傾ける。
「人生は大学に行くことがすべてではないし、今は宮野さんのことが好きなんだろけど、これから先もっと素敵な人が大和くんの前に現れるかもしれない」
速水先輩の言葉は正論で、冷静に客観的な意見を聞かせてくれる。
でも……抜け殻のようになってしまった今の俺の心には……なにも響かない。
「でもね……大和くんは頑張った、本当によく頑張ったよ。それは私が知っているから……だからね……」
先輩は椅子から立ち上がり、俺のベッドに腰かけて言葉を続けた。
「だから……私が、慰めてあげる……」
そう言った直後、先輩は俺の両肩に手を当てるとゆっくりとこちらの上半身を横たわせてくる。
「え……?せんぱい……?」
慰めてあげる……?
高熱で頭が回らない俺は先輩の言葉の意味を理解できなかった。
俺の体の上で馬乗りになった先輩を見て……やっとさっきの言葉の意味を理解した。
「せ、先輩、なにしてるんですか!?」
「大丈夫だよ、力抜いて……」
なんだ……?
いつも優しくて、大人しい先輩が……なぜかすごく……色っぽく見えて仕方がない。
「大和くん……初めて……だよね?」
「え……あ……」
緊張で言葉が出ない。
勿論、俺には他人との性的な経験はない。
先輩は高校時代からとんでもなくモテていることは当然知っていた。
大学に通っているこんな美人な女性を周囲の男が放っておくわけがない。
「先輩は……経験あるん、ですか……?」
先輩の右手が俺の顔を優しくなぞる。
「さあ……どうだろうね」
俺の耳元で先輩が囁く。
先輩から香ってくる匂いが鼻腔をくすぐる。
「せ、先輩。そ、そんなことしたら俺の風邪が移りますよ」
「風邪は誰かに移した方が早く治るって言うでしょ?」
「それって……迷信なんじゃ……」
さっきまで気落ちしてなにも考えられなかったのに……。
死んでしまった方が……なんて考えていたのに……。
「お腹が空いたら何か食べないと……。疲れが出たら眠らないと……。心が寂しい時は慰め合わないと……」
……興奮する。
……理性が吹き飛びそうになる。
……男の本能が速水先輩を求めている。
「大和くん……目を閉じて」
先輩の顔が、唇が、俺に近づいてくる。
(葵……)
こんな状況になっても葵の姿が脳裏に浮かぶ。
でも……もういいじゃないか……。
もう……葵とは……葵の隣に並び立つことは……できないんだから。
「せん……ぱい」
俺は今最低な行為をしようとしている。
自分の想いが叶わないと知って、優しい先輩のことを利用して……。
その憤りや悲しみをこの人の体を使って発散しようとしている。
先輩に身を委ねて俺は目を閉じた。
彼女の吐息を感じた。
緊張で全身に力が入った……その時だった。
俺の額に何かがぶつかる感触がした。
「ん~?これは……38℃はある、かな?」
目を開けると至近距離に先輩の美しい顔があって……。
「先輩……なにを、しているんですか……?」
「なにって検温だよ。……これだけ熱があったら辛いよね」
先輩のおでこが俺の額に接触していて……緊張で顔が熱くなる。
「あ、あの……」
馬乗りになっていた先輩は俺の体から離れてベッドを降りる。
「ごめんね、期待させちゃって」
「い、いえ……」
期待……か。
たしかに俺は本能のままに先輩のことを抱きたいと思って……。
「大和くんの心の中には、まだ宮野さんがいるもんね」
「それは……」
否定できなかった。
女々しい自分に嫌気が差す。
「誘った私が言うのはおかしいけど、こんな形でエッチしても……きっとその場しのぎにしかならないんだよ」
「でも俺は……今すごく辛くて……」
「そうだよね……。でもここで前を向かないとだめなんだよ。落ちぶれたら絶対にだめ!わかった?」
俺は諭してくる先輩からは妙な説得力を感じた。
実際俺は先輩と体の関係を持たなかったことに……少しほっとしていたんだ。
「それと……このプレゼントだけど、どうするつもり?」
葵に渡す予定だったプレゼント。
しかし……もう必要ない。
「先輩……よかったら貰ってください。ボールペンなんであっても邪魔にはならないと思うし」
「うーん……他の女の子に渡す予定だった物をいただくのもね……」
「でも……俺が使うわけには……。それを見ると、嫌でも葵のことを……思い出してしまうし」
「……わかった。なら、私が捨てといてあげる」
先輩のその言葉に……俺は心は締め付けられた。
「いや……捨てるのは、勿体ないと思うんですが……」
「確かにそうだね。私たちみたいな苦学生がそんなこと……。でもね……前に進むためには、思い切った決断が必要なんだよ」
前に進むため、か……。
確かにその通りだ。
いつまでもウジウジしていても仕方がない。
「は、はい……。では……お願いします」
葵への気持ちを断ち切る意味でも俺はこのプレゼントの処分をお願いした。
「ごめんね、少し話しすぎたね。ほら、もう休んで」
再びベッドで横になると先輩が布団を掛けてくれた。
話を聞いてもらったからだろうか……。
少しだけ心が軽くなったような……。
「先輩……本当に、ありがとう……」
次第に眠気がやってきて瞼が重くなる。
「ねぇ、大和くん。もしも……私たちが自立して心に余裕が持てるようになって……その時にお互い独り者だったら、その時は……」
先輩の声が段々と……遠くなっていく。
「その時は……エッチしようね」
俺を励ましてくれているのか、先輩のその言葉を聞いて俺は瞼を閉じた。
「大和くん……寝ちゃった……?」
優しい速水先輩に見守られながら……。
「幼馴染……好きな人……恋……」
久しぶりに安眠についた俺には……。
「……くだらない」
先輩の漏らした声が聞こえなかった。




