【書籍発売記念SS】僕の宝物
6/3 書籍発売カウントダウン!
オルカ視点のお話です。
甘い、甘いお菓子が食べたい。
勉強漬けで酷使した脳が糖分を欲している。
七歳のオルカは、家庭教師に明日までに読むようにと手渡された分厚い本から目を逸らし、存在を追い出すようにぎゅっと目を瞑った。
酷使された目と脳が鈍痛で訴えてきている。働かせすぎだ。
(ああ…アルディーヤ子爵家のおやつが食べたい)
これが食べたいと言えば叶う立場のオルカだが、本当に食べたい物ほど簡単に食べられない。
栞を挿してから本を閉じ、頬を机にくっつけて圧し潰した。子供の柔らかな頬がむにっと丸みを帯びて潰れる様子は第三者の視点ならとても愛らしい。
愛らしいが、オルカの視線の先には子供の机には不釣り合いな本の山が積み上がっていた。
(これ全部今日中に読んで、感想を纏めて、明日提出かぁ…面倒くさいなぁ)
それでも、サボるわけにはいかない。
母の期待が籠もった教育を、オルカは拒否できない。
たとえこの教育が結果を伴わないとしても、母を少しでも安心させてあげたい。
(僕が伯爵家を継げたら、母様は幸せになれるのかな)
母はオルカに継いで欲しくて、兄の家庭教師をオルカへ着けている。
そのための教育だ。
しかしその教育のおかげで、オルカが伯爵家を継ぐ場合、異母兄の存在が邪魔になることに早々に気付いていた。
きっと母は、オルカに異母兄を…ベスティを追い落として欲しいと思っている。敵対して欲しいと、明確に競い合う相手だと行動して欲しいのだ。
圧倒的な能力差を見せつけて、反対する方が不利益だと周囲が認めるほどに、オルカに賢くあって欲しい。
だけど。
(僕、お兄様のこと嫌いじゃないんだよなぁ)
むしろ、嫌いなニンジンを食べてくれるので、大好きだ。
母が嫌がるから表立って仲良くできないが、伯爵家は兄が継げばいいと思っている。
母の期待はわかっているけれど、賢いオルカは母の願いがオルカの願いと別物だと、ちゃんとわかっていた。母の願いは母の物。母とオルカは、別人だから。
…わかっているけれど、ひとりぼっちの母を泣かせたくはない。母の望みを否定して、泣かれてしまったら…母に嫌われてしまったら。
オルカは家族を憎んでしまうかもしれない。
こっちを見ない父と、夢見る母と、置いてけぼりにされている異母兄。
少し前までバラバラで冷え切っていた伯爵家は、父が振り返って状況を理解したことで、違う形の危うさを形成している。
母の悪意に気付いた父は、母を家に閉じ込めて反省を促した。けれど積もりに積もった母の鬱憤が、そんなことで晴れるわけがない。
(あー、頭が痛いよ)
オルカは母を屋敷に閉じ込めるのは悪手だと思っているが、父にそれを伝えたところで子供は気にしなくていいなんて遠ざけられて終わりだとわかっていた。オルカは自分が幼くて、発言に説得力がないことをちゃんとわかっている。
わかっていたから頭を抱えて、大人の不器用なやりとりに地団駄を踏む。
(僕がどれだけ勉強しているかわかっているんだから、僕がとても優秀だってわかっているんだから、もっと話を聞いてくれてもいいと思うんだよね。なのに父様も母様も、結局子供扱いする。こっちは大人が思っているより状況が見えているんだぞ。このままじゃ溝は深まるばかりなのに、なんで大人って面倒事を遠ざけちゃうのかな)
面倒くさい気持ちはわかるけど、やらないと終わらないのに。
積み上げた本を眺めて(僕だってこんなに面倒な勉強に真面目に取り組んでいるのに)とため息をつく。
鬱屈した気持ちを抱えたところで、控えめにノックの音がした。
「オルカ。休憩にしない?」
「お兄様!!! お帰りなさい!!!!!!」
ひょっこり顔を覗かせた異母兄を認めた瞬間、オルカはぴょんと椅子から飛び降りた。
母を気遣って弟との接触を減らしている異母兄だが、それでも必ずオルカの所へやって来る時がある。
それは、彼がアルディーヤ子爵家へ遊びに行った帰り。
そう、お土産を持って来てくれる時だ。
オルカは嬉々として異母兄に駆け寄った。
「今、丁度休憩しようと思っていたんだ。今日のおやつはなんだったの?」
「それは良かった。今日のおやつはオルカの好きなお菓子だったよ」
異母兄のベスティが両手で抱えた白い箱。
ベスティの友達のご令嬢、ノーチェがわざわざオルカのために用意してくれた、お土産用の白い箱。毎回この白い箱にお土産を詰めて、ベスティに持たせてくれる。
オルカにとってこの箱はびっくり箱だ。
いつだって、驚きのお菓子を詰めてオルカに届けてくれるびっくり箱。
期待して中を覗けば、鮮やかな彩りのお菓子が飛び込んできた。
「え!? これはまさか…ドーナツ!?」
オルカが一度戸惑いの声を上げたのは、そこにあったのがオルカの知らないドーナツだったからだ。
オルカの知るドーナツは茶色いシンプルな物。
生地を焼くのではなく揚げることでカリッとした外側と、ふわふわした内側のギャップが堪らない一品だ。あと形もいい。真ん中に空いた穴が不思議と目を引くのだ。
箱に入っていたのは、形自体はオルカの知る穴の空いたドーナツだが…白い箱には、見たことのないカラフルなドーナツで溢れていた。
食べ物なのかと疑いたくなるほど色鮮やかな、心躍るパステルカラー。
生地もそれぞれ色合いが違い、オルカの知るドーナツが一つもない。驚きと共に、期待で胸が高鳴った。
目新しい物は忌避しがちだ。好奇心はあるが、及び腰になる。
だけど食べ物に関しては…アルディーヤ子爵家が提供する食べ物に関しては、好奇心が勝つ。
だって、食べ物への信頼でアルディーヤ子爵令嬢ノーチェの右に出る者はいない。
彼女が美味しいと言った物は確実に美味しい。
好みは分かれるが、彼女が勧める物で美味しくなかった物などない。
そしてこれはオルカの大好きなドーナツ。
そのドーナツがこんな色鮮やかに変身しているのだ。
(絶対美味しい!)
オルカは我慢できずに、白い箱から一つドーナツを取り出した。
取り出したのはピンク色にコーティングされたドーナツ。掛かっているのはチョコで、恐らく色合い的にイチゴ味。生地はクリーム色で、今まで手に取ってきたドーナツより柔らかかった。
予想以上の柔らかさに、オルカはちょっと正気に返った。
立ったまま、なんの用意もなくお菓子を手に取るなんて無作法だ。お行儀が悪い。叱られてしまう。
行儀見習いの教師がいたら、おやつ抜きの大失態。
恐る恐る箱を持ったベスティを見上げれば、彼は微笑ましそうにオルカを見ていた。
擽ったそうな顔をして、立てた人差し指を口元に当てて悪戯っぽく笑う。
『秘密だよ』
声に出さず、動作で誰にも言わないと約束してくれた。
オルカは寛大な異母兄が大好きだ。
頬を染めてドーナツにかぶりつく。
感触を裏切らない柔らかさ。コーティングされたチョコが割れる音。生地の中に詰まっていたクリームの存在に、オルカは良い意味で驚かされた。
(お、おいしい~!)
オルカは甘い物が大好きだ。
伯爵家は父の好みから辛い物の方が多く提供されるが、どちらかと言えば甘い味付けが好きだ。
きっとたくさん頭を使うから、身体が糖分を求めているのだろう。だからおやつの時間がこんなに嬉しい。
ベスティに促されて椅子に座ったオルカは嬉しいサプライズでクリームまみれになっていた。
お茶の用意をする前に食べ始めたので、おしぼりもない。つい、手に付いたクリームも舐めとった。
勿体なくてついやってしまったが、これは流石に怒られるだろうか。でも手に付いたクリームがいつも以上に美味しく感じる。背徳感からだろうか。
ベスティは怒らなかった。
むしろわかるという顔をして、オルカの手を拭ってくれた。どこから出したのだろうと不思議だったが、よく見ると白い箱に手ぬぐいが入っていた。流石ノーチェお姉様。食に関して根回しが利いている。
「食べ過ぎると夕飯が入らなくなるから、食べるならあと一つだけ。残ったのはお父様達へのお土産だ」
「…! ぜ、全部僕のです!」
「ダメだよ。最初に選ばせてあげるから、残ったのはお父様達の分」
「そんなぁ」
そんな殺生な。
これだけ美味しそうな、いや美味しいお土産を独り占めできないなんて。こんなにたくさんあるのに。半分くらいオルカの分でもいいと思うのに。
「お茶を頼んでくるから、その間にもう一つ決めてね」
使用人を呼べばいいのに、ベスティはオルカの頭を撫でて部屋の外に出た。
オルカは人が居ると集中できないタイプなので、勉強中は使用人ですら遠ざける。だから周辺に使用人がいない。
いないが、鈴を鳴らせば飛んでくるのに。ベスティはいつも、わざわざ探しに行く。
それがオルカに選ぶ時間を多めに与えている優しさだと、気付くのにだいぶ時間が掛かった。
(でも、たくさん時間があっても決められそうにないなぁ)
どれも美味しそうで全部食べたい。美味しい物への欲求が止まらない。
オルカは普段、食にそこまで気を遣わないのに、アルディーヤ子爵家が関わるといつもこうだ。
「…お姉様、早くお義姉様にならないかな」
数々の料理はノーチェ監修であって、ノーチェが作った物ではないとわかっている。
貴族のご令嬢らしくノーチェに料理の腕がないことだって知っている。
しかし、そのノーチェに料理を食べさせたい料理人が多すぎるのもわかっている。
つまりノーチェの嫁ぎ先に、名のある料理人も付いてくる。
嫁入り道具として志願してきそうなレベルでいる。信頼できる料理人は貴重だから、嫁入り道具になっても問題ない。
となれば、ノーチェの嫁ぎ先は三食完全勝利。おやつだって豪華。まさに夢の食生活が待っている。
オルカは将来義弟になって、そのおこぼれに与りたい。切実に。
(お兄様も厨房に入るだろうし、となると厨房の改装が必要かな。使い勝手の良い充実した厨房とか、お姉様喜びそう。お姉様が喜べば皆喜ぶ。皆幸せ)
素直に美味しい物に対して、美味しいと嬉しそうに笑う人。
あの笑顔を、皆が見たいのだ。
そう、料理人が喜ぶ顔をする人。
(お姉様がいれば、皆笑顔になる。お姉様がいれば…)
この伯爵家も変わる筈だ。
母はベスティに…その想い人であるノーチェに、警戒心を抱いている。
きっとそう簡単に変化は望めない。
だけどお日様みたいに笑うノーチェなら、母のことも照らしてくれるのではないかと、オルカの胸に小さな願望が宿っていた。
(…あ! ヤバい足音! 帰ってきた! 早く決めなくちゃ!)
近付いてくる物音を拾って、オルカは慌てて白い箱の中身を見下ろした。誘惑で溢れる白い箱に歯噛みしながら、自分の分を必死に選ぶ。
そんなオルカの顔は、碧眼はキラキラ輝いて、頬は興奮で紅潮して、口元は味への期待でむにむに動いている。
自分だけのドーナツを選ぶオルカの顔だって、料理人冥利に尽きる顔で…周囲が微笑ましくなるほど嬉しそうな顔をしていた。
美味しいを楽しむ人の顔は、いつだって誰かを笑顔にする。
知らぬは本人ばかりなり。




