【書籍発売記念SS】涼やかな、映え!!
6/3 書籍発売カウントダウン!
雨の多い季節。
梅雨。
しとしとと窓を濡らす雨を見上げながら、ノーチェは一人掛けのソファで刺繍をしていた。
「うにぅ…ぐったりなの…」
しかし姿勢悪く、椅子にでろん、と垂れながら。
お行儀が悪い。手に持った針が危険。
ノーチェが座っているソファは窓際にあるので、ずり落ちればずり落ちるほど雨雲がよく見える。朝方から強い雨足で空も真っ暗だったが、現在は曇天。窓ガラスを濡らす雨粒も小さい。
雨は作物にとって恵みなので嫌いではないが、長雨はどうも気分が落ちる。
(低気圧の所為、だと思うの…)
ノーチェ十二歳。長雨の低気圧に敗北。
(雨の日は馬車も危険だから、ベスティにも会えないのよー)
しとしとと降る雨に、ノーチェは不貞腐れてぷくっと頬を膨らませた。
雨続きで道がぬかるんでいるので仕方がない。
交通手段が馬車なので、ぬかるんだ道で馬の脚や車輪がとられれば事故に繋がる。馬車の交通事故も危険だが、雨の日はぬかるみが原因で横転する馬車は少なくない。となれば、危険を避けて雨の日は外出を避けるのが一番だ。
(安全第一なのよ!)
技術の発達した現代でだって雨の日の外出は控える。気分が乗らないのも理由の内だが、雨の日はどうしても事故が増える。慎重になるのは大事なことだ。
(でもやっぱり退屈だしぐったりなのよ〜)
ノーチェはずるーっと椅子から滑り落ちた。落っこちながら未練がましく、窓の外を見上げる。
ぐったりしたノーチェからは空ばかりで庭は見えないが、この季節だって庭師が見事に整えてくれている。
そう、梅雨の季節と言えば紫陽花。
青紫に揃えた紫陽花が、アルディーヤ子爵家の庭を美しく彩っていた。
現在のアルディーヤ子爵家の庭では紫陽花が川のように広がり、通路を進めば花の浅瀬を泳いでいる気分になれる。それ程の密度で、大量の紫陽花が並んでいた。
紫陽花の葉ではカタツムリがのんびり歩き、カエルだって楽しげに歌っている。
そんな梅雨らしい風情ある生き物たちを探しに行きたい気持ちはあるのだが、ノーチェは気圧に敗北して椅子から立ち上がれない。お友達とも遊べない。お勉強の気分でもない。
ならば気晴らしに、刺繍をしようと針を手に取った。
その結果。
ノーチェは見上げていた視線を、手にした刺繍中のハンカチへと落とした。
(…私、何を刺していたのかしら?)
自分でも図案がなんだったのか、わからなくなっていた。
(お外に行けないから、せめて部屋でも楽しめるように、刺繍セットから紫陽花の図案を選んだつもりだったのに…)
あれぇ?
刺繍セットは素人でもできる簡単な図案がセットになっている、刺繍をはじめたばかりの人にとっても優しい品揃え。刺繍は貴族令嬢の嗜みとも言われているので、このように初心者に優しいセットが昔から売られている。
ノーチェも、勿論お姉様も常備している貴族令嬢必須アイテムだ。
その中でも比較的難易度の低い、季節ながらの図案を選んだ。
そう、紫陽花の図案を。
小さくて紫の花をたくさん密集させれば紫陽花に見えると思ったのに、何かおかしい。
勿論、刺す前に図案を描いて、色だって真剣に選んだ。青と紫の糸。葉っぱの緑。完璧な布陣。間違えようのない色使い…のはずなのに。
(おかしいわ。青と紫のお花が密集すれば紫陽花に見えるはずなのに、葉っぱもちゃんとあるのに…)
ノーチェは手にした刺繍を頭上に掲げ、じっと観察した。
こんもり楕円に密集した青と紫の糸。同じ色が密集しないように、規則的に二つの色を並べたのが格子状みたいになっている。でもお花だからなんとなく紫陽花にみえるはず。見えるはずだけど。
(なんか違うわ…別の何かに見えるの…)
お花じゃない…別の何かに見える…なんだっけ…?
ノーチェはぐったりしたままうーんうーんと唸り…ハッと閃いた。
「…これ、亀さんかもしれないわ…!」
格子状の楕円形。これは亀の甲羅だ。
青紫の甲羅の亀さんだ。
葉っぱのつもりの緑が丁度五つあって。亀の頭、手足に見える。
亀さんだこれ。
もうどこからどう見ても亀さん。
亀さんにしか見えない。
(亀さんってことにしよう…!)
当初のモチーフをなかったことにして、潔くノーチェは方向転換した。
ノーチェが刺繍モチーフの行き先を決定づけたとき、控えめなノック音が響いた。
「お嬢様。本日のおやつをお持ちしました」
「わーい!」
ノーチェは刺繍セットをテーブルに置いてぴょんと跳び上がった。
低気圧に負けてぐったり立ち上がれなかったノーチェだが、跳び上がることはできたようだ。
ぐったりしていたのにおやつと聞いてとても無邪気に喜ぶお嬢様に、使用人も思わずにっこり。
そしてカートに載せられた本日のおやつは…。
「わあ…! 綺麗!」
透明なガラスに盛り付けられた白いムース。その上には細切れにされた紫のゼリー。添えられたミントの葉。
「紫陽花なのよー!」
そう、紫陽花をイメージした、紫陽花ゼリー。
白いムースは牛乳とヨーグルト。水色と紫の半透明なゼリーはかき氷シロップで着色された紫陽花カラー。
二色かと思えば四色あり、緑と透明も混ざっていた。四色混ぜることで自然なグラデーションができている。器とゼリーの間にミントの葉が添えられて、より紫陽花らしさが演出されていた。
勿論紫陽花は青紫だけではない。赤紫の紫陽花ゼリーもある。
こちらも赤と紫、ピンクと透明のゼリーが混ざり合って、綺麗なグラデーションを咲かせていた。
紫陽花ゼリーは現代でもかき氷シロップがあれば、ご家庭でも簡単にできる。なんなら子供と一緒に楽しく作れる。難しいと感じるかもしれないが、本当にかき氷シロップがあれば色づけはとっても簡単だ。
子爵家はかき氷にシロップは使わなかったけれど、簡単に色づけできるから重宝していた。味ではなく、見た目を重視するときは特に。
そう、まさに今。
「見た目も涼やかで、風流で、素敵なの~!」
夏の涼を目で食べる。
これぞ、映え!
ノーチェは料理長の作り出す映えるゼリーに大喜びだ。
何より、長雨の低気圧でぐったりしていたノーチェへの気遣いが感じられて、より嬉しい。
食べるのが大好きなノーチェが食事を残すことはなかったが、食事のペースは落ちていた。使用人は、料理人はしっかり主人達の体調変化を見抜いていたのだ。
だからこうしておやつも、趣向を凝らして涼やかで食べやすいゼリーを選んだのだろう。
(美味しい物は好きだけど、体調によって食べられないときってあるもの…身体と相談して、そのとき食べやすい物を美味しく食べるのが大事よね)
特にこれから暑くなるので、夏バテに気を付けて美味しく食べたい。
「ん~今日のおやつもとっても美味しい! でりしゃすなのよ~」
実に風流なゼリーをペロリと食べたノーチェは、いつも工夫して美味しい物を提供してくれる厨房に感謝して、元気になるぞと気合いを入れた。
気合いを入れるノーチェに、冷たいお茶を提供していた使用人がぽつりと呟く。
「皆様暑さに食欲も落ちていますので、本日の晩餐はつるりと口にできる物をご用意するそうです」
「まあ。それは嬉しいわ…はっ!?」
ニコニコしていたノーチェは、閃いた。
とても真剣な顔をして、情報を提供してくれた使用人を見る。
相手も、とても真面目な顔をしていた。
「つまり…はじまるのね?」
「はい…夏が、来ましたので」
「そうなの…とうとう、なのね」
大真面目に、真剣に。
頷き合ったノーチェと使用人は、同じように何もない空中を見詰めた。
とっても不思議なことだけど。
こっちにもこの言葉が普及している。
――冷やし中華、はじめました。
ちなみにすっかり存在を忘れられていた亀さんモチーフとなったハンカチは、失敗作として引き出しにしまわれていたのだが…何の因果か巡り巡ってベスティへの誕生日プレゼントに昇格し、彼の隠しポケットに住むことになる。
あれぇ!?




