第22話 赤長衣の男
「……む? メリック!」
「危ない、逃げて!」
不意に俺の背後で、三つの声が立て続けに上がった。二つは、デュラムとサーラの声。残る一つは、何かの低いうなり声。
「二人とも、どうした……おわっ!」
振り向いたときにゃ、もう手遅れ。俺はうなり声の主に飛びかかられ、人外の力であお向けに押し倒された。幸い頭は打たずに済んだが、背中を強か打って息が詰まる。胸が三拍鳴って呼吸できるようになったところで、咳き込みながら空気を貪った。
やっと咳が治まったとき、俺の目に映ったのは――闇に溶け込む漆黒の巨体、形相凄まじくこっちをにらむ顔、顔、顔。そして、怒りに燃える真紅の六つ目。
まさか……森の神ガレッセオ? 樹木と獣の主が、夜の森に立ち入る無礼な人間を八つ裂きにしようと、自ら足を運んできやがったのか。
さっきデュラムが話してた伝説を思い出し、全身にぞくりと怖気が走る。けど、よく見りゃそいつは、獣に姿を変えた森の王なんかじゃなかった。
双頭犬たちの親分で、頭が三つある魔犬、三頭犬。子分よりずっとでかくて、手強い魔物だ。
「ちくしょう! 子分たちの仇討ちにきたってのか?」
三つ首の犬は俺の上に覆いかぶさり、でっかい口をくわっと開けた。三つ同時に、のどの奥が見えるくらい大きく――大きく!
冗談じゃねえよ。あんな大口で噛みつかれてみろ、人間なんかひとたまりもねえぞ。
必死に身をよじり、魔犬の下から逃れようとしたが……駄目だ! この犬っころ、右の前足で俺の左腕をしっかり押さえ込んでやがる。なんとかのけようともがいてみたが、魔犬の足は大地に根っこでも下ろしてるかのようにびくともしねえ。
「デュラム、サーラ!」
二人に助けを求めてみたが、妖精の美青年も魔女っ子も、いつの間にか地面に倒れてもがいてた。何やら縄らしきもんが、二人の体に巻きついてやがる。
「アハハハハ! 助けを期待しても無駄ですよ、赤い瞳の冒険者殿」
あざけるような笑い声が、夜の冷たい空気を震わせる。声が聞こえてきた右手に目を向けると、真っ赤な長衣の裾が見えた。
昼間にも、こんな長衣を着た奴を見なかったか?
「まさか……」
そう思って視線を上げてみりゃ……なんてこった、そのまさかだ。俺たちがおっさんと一緒に行くことになったとき、ちらりと姿を見せた赤長衣の男。そいつが今、杖を手にして三頭犬の傍らに立ち、俺を見下ろしてやがる。相変わらず真紅の頭巾を深々とかぶってるんで、顔はよく見えねえが。
「お二人を捕らえているのは、自ら獲物に巻きつき、蛇のように絞め上げる魔法の縄でしてな。たとえお二人が伝説の魔狼にも勝る怪力をお持ちであろうと、容易くは断ち切れませんよ」
「それなら、俺がどうにかするまでだぜ!」
俺は剣を鞘から引き抜くなり、今にも噛みついてきそうな真ん中の頭に斬りつけた。魔犬は一声悲鳴を上げて、傷ついた頭を引っ込める。だが、それだけだ。致命傷にはほど遠い。
傷を負った真ん中の頭を押しのけ、右の頭が牙をむく。そのまま俺の左肩に食いついて……いぃててててててッ! 肩を、肩を食いちぎられる!
革鎧なんざ、なんの役にも立たなかった。魔犬の牙は、二重に重ねた革を易々と食い破り、容赦なく俺の左肩に食い込んでくる。
「こ、この……! 放しやがれ、無礼者!」
痛みをこらえて、牙を骨の髄まで食い込ませようとする右の頭に、剣を力一杯叩きつけた。
さらに左の頭が食らいつこうとしてきたところを、これまた剣で十文字に斬って退ける。
獲物のしぶとい抵抗に、魔犬はいらいらしてきたようだ。三つの口から、熊も逃げ出す咆哮がほとばしった。おとなしく食われちまえ、とでも言うように。
万事休す。進退窮まり、袋詰めにされた小鬼みてえにもがく俺を見て、三頭犬はべろりと舌なめずりした。口から唾液があふれ出し、雨垂れみてえに滴り落ちてくる。
「アハハハハ! 〈樹海宮〉の宝を狙ってこの森に入られたのでしょうが……残念でしたな」
勝ち誇ったように笑う赤長衣の男。奴は三頭犬の前に来て、俺を傲然と見下ろした。
「〈樹海宮〉の宝を手にされるのは、我が主。先んじて手に入れようとする方には死んでいただきます……おや?」
そこで男は、何かに気づいたかのように、口をつぐんだ。曲がり気味の背筋をさらに曲げ、顔をこっちに近づけてくる。頭巾がつくる陰の奥で、二つの瞳が妖しい紫水晶の輝きを放った。
「最初にお姿を拝見したとき、見覚えのある方だと思いましたが、貴方はもしや、イグニッサ王国の……」
「そこに、誰かいるのかね?」
男が最後まで言いきらねえうちに、そんな声がした。あの声は……おっさんだ! どうやら、近くに誰かいるってことに気づいたらしい。
「おっさん、こっちだ! 助けてくれ!」
「なんと……その声はメリッ君ではないか」
おっさんの足音が近づいてくる。
よかった、助かるかもしれねえ! 一瞬、そう思ったんだが――。
「どこを見ていますの? あなたの相手は、このわたくしですわよ」
貴婦人服の女が言い放ったその一言で、希望の光はあっけなくかき消えた。雲居に束の間姿を見せた月が、また暗雲に呑まれちまうように。
「む……! 待てリアルナ、しばし休戦だ! 今はお前の相手をしておる場合ではない!」
「それはあなたのご都合でしょう? わたくしには、なんの関係もないことですわ」
途切れてた剣戟の響きが、再び聞こえてきた。あの女がおっさんの行く手を阻んで、邪魔をしてやがるんだ。
「ぬう……アステル、手を貸せ! 二人がかりで、この性悪女を止めるのだ!」
「耳を貸す必要はありませんわよ、アステル。あなたはわたくしの言いつけだけ聞いていればいいのですわ」
剣戟の響きが、無情に遠ざかっていく。
「おっさん……!」
自分の顔から引き潮のように、さっと血の気が引くのを感じた。手元に鏡がありゃ、蒼白になった情けねえ面を拝めただろう。
「これは僥倖ですな。フェイナ様のお客人が、青外套の剣士殿を足止めしてくださるとは」
赤長衣の男は、おっさんと貴婦人服の女がいる方を見やり、さもおかしそうに笑った。それから、俺の方へと視線を戻し、右手をゆっくりと挙げて、口許に酷薄な笑みを浮かべる。
「それでは改めて――死んでいただきましょうか」
奴が指を鳴らすや否や、三頭犬の三つ首が、俺に寄ってたかってむしゃぶりつく! 三つの大口が俺の四肢を引き裂き、噛み砕いて呑み込み――。
ってことにはならなかった。俺にとっちゃ、幸いなことに。
なぜかと言えば、男が指を鳴らすより一瞬早く、横合いから繰り出された槍が三頭犬の脇腹を突いたからだ。
ずぶり! 白銀の穂が皮を破り、肉を裂く。あの様子だと、骨まで穿ったかもしれねえ。
この一突きにゃ、さすがの魔犬も文字通り仰天した。三つの頭が弾かれたように俺から離れ、天をあおいで絶叫する。
「ふん……野良犬風情が私の仲間をえじきにするなど、許されると思っているのか?」
横槍を入れたのは、デュラムだった。そして、もう一人。
「あたしも忘れてもらっちゃ困るわね!」
威勢のいい一声と同時に――ガツン! 三頭犬の向こう脛を、杖で容赦なく打ちすえた奴がいる。サーラだ。二人とも、俺が三頭犬と戦ってる間に、魔法の縄とやらを断ち切ったらしい。
デュラムとサーラに左右から挟撃され、さしもの魔犬も浮き足立ってきたようだ。俺の腕を押さえ込んでた足が、ついに持ち上がった。
よっしゃ、俺は自由だ! すかさず身をよじって、三頭犬の下から転がり出る。
「――無事か、メリック?」
足下に転がり込んだ俺を見下ろして、デュラムが声をかけてきた。
「ああ。無傷ってわけじゃねえが、まだぴんぴんしてるぜ」
「……そうか」
人面鳥を追い払ってくれたときと同様、妖精の美青年は表情を緩めたが、次の瞬間にはまたいつものすまし顔に戻っちまった。胸を反らし、そっぽを向いて、
「次も助けるとは限らんぞ」
と、お決まりのせりふを吐きやがる。
「お前、本当に素直じゃねえな……」
「ちょっと、何やってるのよデュラム君!」
横合いから、魔女っ子のしかりつけるような声が飛んできた。
「メリック、あなたも戦えるんでしょ? なら、さっさと手伝いなさい!」
「いちいち姉貴面されなくても、わかってるって!」




