暗雲
「ヤマト、ありがとう」
扉を閉じて、抱きしめたヤマトに囁く。
__お主が望む事に異は唱えぬ。それ故、礼はいらぬ。
そう言って、ヤマトは私の胸に顔を埋めた。
ここまでするのかと言うなかれ。
あの調印式で私が懸念したのは、おから料理の権利の事や課税の事ではない。
あの書類にこの国の巫女として仕えると言った内容が勝手にプラスされている可能性を私は懸念していた。
私の用いる語学が日本語である事をユリウスは知っている。
そして、この国の当主になる者は代々伝承を読み解く為に日本語を習う。
それならば、あの書類は初めから日本語で明記すれば良い。
ユリウスがしたためなくても、ロウェル爺ちゃんがいる。
日本語で作成出来ない訳がなかった。
そして実際、その日のうちに日本語バージョンを作り出した。
なら、なぜあの調印式に使われた書類には、日本語を使わなかったのか。
この国の主要人物が全員集まった場での公布、その場での私の権利の主張。
そこまで場を整えての調印式。
字が読めないと言って断れば、権利は周囲には認められず、あやふやな物となる。
調印しないわけがないと踏んで、この国の文字で何か追記した。
そう踏んで、日本語で作成して貰った。
呼ばれたのはユリウスとライザーしかいない執務室。
案内してくれた部下は下げられた。
内容が同じだったとしても、あれも調印だ。
第三者を呼ばないなんて不自然過ぎる。
そうなるんじゃないかと思ってヤマトに頼んでおいたのだ。
「正解、だったわね」
私は一人、そう呟いた。
朱鳥達が部屋を後にし、威圧から解き放たれた二人には沈黙が訪れていた。
ライザーは厳しい視線をユリウスへと向ける。
「どうなされるのですか」
「どう、とは」
ユリウスの表情は変わらない。
焦るでもなく、不安がる様子もない。平然とした様がそこにはあってライザーは憤りを抱いた。
「先に書いた誓約書です。どうなされるおつもりなのですか」
「黙れ」
その瞳に煮えたぎるような怒りを滲ませて、ユリウスはライザーを黙らせる。
あの娘……ここまで来ると小賢しい。
この調印式の為にしてきた事が水の泡だ。
食事会に呼んだのも、娘の我儘を通したのも、全ては警戒を解き、素直に調印させる為だった。
聡い娘なのは分かっていた。
だからこそ手順を踏み、緩やかに警戒を解き、味方なのだと思わせようとしたのだ。
調印式に使った書類を見て、翻訳しろと言ってくる事は想定内だった。
それを見越して、翻訳した偽の書類も初めから用意していた。
それが———ユリウスの口元にふっと皮肉な笑みが漏れる。
用意した偽物が本物となり、本物にと用意したものが白紙に還るとは笑い草だ。
たった、猫1匹のせいで。
全てがひっくり返るとは。
「あの猫は、邪魔だな……」
椅子から立ち上がり、窓の外を眺める。
あの黒い猫。
あれさえ、いなければ。
「御当主様……?」
聞き取れなかったユリウスの呟きに、ライザーは眉を寄せる。
ユリウスの視線は眼下へと注がれたまま、その唇には薄らと笑みが浮かんでいた。
「あの猫を殺せ」
静寂に包まれた執務室に、その声はよく通った。
聞き間違いか、とライザーは思った。
あの、猫を殺す?
猫と言っても、あれはその辺にいる野良とは訳が違う。
神々から遣わされし者。
導く者。
神々に代わって成せる者。
それは、偽りではない。
ライザーはそう確信していた。
初めて立花朱鳥と見まえたあの日。
あの場で起こった出来事。
他言無用。そう言われた為、あの場にいた全員に緘口令が敷かれた。
だが、当然あの猫に対して警戒は解かなかったし、畏怖の念も強かった。
普段は立花朱鳥の側で、ただ大人しくしている猫のように見える。
けれど、あれは確かに意思を持つ生き物なのだ。
時折、彼女とすれ違う時も、一人で歩いているのに会話をしている仕草を何度も見かけた。
彼女は笑顔なのだ。
あの猫と話す時は。
あの猫を殺して、あの娘が大人しくこちらの言う事を聞くとでも思っているのか。
御当主様は分かっておられるのか。
あの猫を殺して、なにが解決すると言うのだ。
あの猫と彼女の繋がりは、我々には見えぬ強い何かで結ばれている。
いつでも、どんな時でも、あの猫は私達を見ていた。
あの金色の瞳で、見ているのだ。
厨房からの要請があった翌日、ライザーは様子を見る為、食堂へと赴いていた。
キッシュに抱えられながら、運ばれて来た立花朱鳥を皆が一斉に叩き起こそうとした時。
あの猫も、手をあげて叩いたのを目にした時はぞっとした。
あれは私達が何もしないから、大人しくしているように見せているだけなのだ。
あれが神々の名を語るのは、嘘でもハッタリでもない。
絶対に、手を出してはならない。
どくどくと、心臓が大きな音を立てる。
「聞いているのか、ライザー」
ユリウスは訝しげに返事を返さないで立ち尽くしたライザーに視線を移した。
はっとして顔をあげたライザーの顔色は悪い。
ユリウスは、すっと目を細める。
「何を怯えている」
「い……いえ……」
ユリウスと視線が合わせられず、ライザーは目を泳がせた。
「そんなに怖がる事か? たかが、宙に浮ける猫だろう。その辺の野盗でも雇えば、きっとすぐに済むさ」
野盗……
心の中で呟く。
「分かっていると思うが、他言無用だぞ」
「はっ」
ユリウスから下がれと命ぜられ、ライザーは執務室を後にする。
扉を閉めた彼の顔色は未だに悪かった。
扉の前で暫く立ち尽くし、せめぎ合う葛藤の中でしばし苦しんだ後、ライザーはすっと顔を上げた。
その顔は、いつもの冷静さを取り戻していた。
目には強い光が宿り、彼は考える。
あの猫はいつも娘と一緒に居る。
野盗に襲わせるとなると、この城内では到底叶わない。城下町でも無理だ。
ならば、彼女を外に出す必要がある。
そこまで考えて、ライザーは歩み始める。
これからやるべき事を見据えて。




