異物~涼太編~
悪夢だと思いたかった。
生暖かい風が身体を撫でつけ、じんわりと全身に湿った汗をまとわせる。
ふと気がつくと目の前に圭一さんが立っていた。
少しぎこちない笑みを浮かべて俺を見ている。
苦笑いしているようで、でも目の奥に悲しそうな色を宿して。
圭一さんはそっと俺を抱きしめた。
――え?
思わず目を見ひらいた。
突然、灰色だった景色が急に色づき、現実に引き戻された気分になる。
「大丈夫だよ。朱鳥ちゃんはきっと無事だから」
圭一さんは抱きしめる腕と言葉に優しさを含ませる。
ああ……そうだよな、わかってはいるんだ。
圭一さんの肩越しに和美さんが見える。
彼女は穏やかな性格の圭一さんとは異なり、ショートカットと真っ赤な口紅の似合う快活美人だ。忖度を見極める判断力と強気な性格は朱鳥にとてもよく似ている。
大きな二重の瞳には常に豪胆さが窺えるひとだったが、いまは俺をみるその瞳が不安そうに揺れている。
なんだって、そんな顔してるんだ。
俺はいま、和美さんを不安がらせるほど酷い顔をしているのか。
「そうよ。あの子のことだもの、きっとその辺でバカやってるわよ。はやく探しに行かなくちゃ」
俺と視線が合ったことに気が付いて取り繕ったように和美さんが笑う。
さっと視線をそらし、わざと明るく振る舞う。
それが俺への気遣いであることは明らかだった。
「うん、そうだね。探しに行こう。部屋の中は全部探したのかい?」
ぽんぽんと俺の肩を叩いて圭一さんが体を離す。
俺は片手で顔を覆い隠した。
「いや、あっちの部屋はまだ見てない」
そう言うと「じゃあ見てくるわね!」と和美さんは颯爽と部屋から姿を消した。
でもそれは俺から逃げるようでもある。「僕も見てくるよ」と圭一さんも和美さんを追うように出て行く。
静けさを取り戻した部屋に取り残された俺は、ベッドへ腰を沈ませた。
何気なしに顔をあげれば、テレビボードの上に倒れている写真立てに目が止まる。
歩み寄って手に取れば、中学の卒業写真だった。
俺とあいつと、麗花さんが三人で映っている。
あの時は卒業式のそれとは違う賑わいだったなと思い出す。
人気女優の立花麗花が来ていると瞬く間に噂が広がり、麗花さんと会話したくて仕方ない知らない奴の親まで来て教室の前はごった返していた。
麗花さんは嫌な顔せず対応していたっけ。
帰り際、写真撮影を名乗り出てきた見知らぬ奴に、麗花さんはデジカメを渡して撮ってもらった。
この写真と同じ物が俺の部屋にも飾ってある。
まったく朱鳥はあの頃と何も変わらない。
気は強いし強情だし短気だし、その上、口も達者でよくいろんな奴と喧嘩する。
でも根はとても優しく情にも厚い。
男以上に豪胆なくせしてグロ系は苦手っていう女らしい一面もある。
いつだったか、それと知らずに戦争モノの映画を見たら、顔を真っ青にしてトイレに駆け込んでたっけな。
その後、弱点は克服する! と意気込んで、やめろと言うのに何度もそんなDVDを借りて涙目で観ていた。結局は克服はできなかっただろう。
俺は写真立てをテレビボードに立てかけながら、小さく笑って部屋を出た。
「やっぱりいないわね、どうしようかしら」
リビングで和美さんと会う。
「家の中にはいないようだね。まずは手分けしてアパートの周りから探してみよう」
無駄だと思ったが、まだ確定したわけじゃない。
俺はそこに一縷の望みをかけることにした。
道すがら懐中電灯を手に、毛布を抱えているひととすれ違う。
避難所にでも行くのではと声をかければ、やはりそうだった。
場所を教えてもらうと、この先に総合体育館があるらしい。
俺もあいつもこの辺りの情報には疎い。
圭一さん達とは一通り見てまわったらアパート前で集合することにしてあった。
もしかしたらあいつも人伝に避難所の場所を聞いて向かったかもしれない。
俺はそれを伝えようと踵を返す。
その時だった。
――ズキンッ!
刺すような痛みが俺の中を駆け抜けた。
体が縦に割れるかと思うような衝撃に意識が飛びそうになる。
なんっ……だ!?
呼吸もままならず、目眩を起こしてその場にへたり込んだ。
心臓がバクバクと不穏な音を立てる。
体の芯に氷が突き刺さったみいに体中の臓腑が萎縮し、熱が一気に奪われる。
だけどそれは、ほんのわずかな時間のことだった。
額を押さえてうずくまった俺は、ゆっくりと手をほどく。
痛みや冷気が去った代わりに根づいたのは、言いようのない不快感だ。
水の中に油が分離して浮いているような、決して相入れぬ何かが俺の中に割って入ってきたような、そんな不快感が全身に蔓延している。
その何かの正体を俺は瞬時に理解する。
不確定だったものが確信へと変わり、湧き上がったものは怒りだった。
零度から一気に沸点に到達するが如く、憤怒が爆発して俺を支配する。
「ふざけるなよ!!」
――人々が忙しく行き交う中、俺の怒声は雑踏に紛れて掻き消えた。
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