幸福の欠片たち
魂が重なる、とでもいうのだろうか。
体の奥から現れたシュナンツェがわたしの前に出る。
一歩引いたわたしは、シュナンツェのフィルター越しに世界を見ていた。
瞬間、驚愕に目を見開く。
世界が、黒い。
ひざまずく彼らのまわりに黒いものがまとわりついていたのだ。
煙のようでどろどろとした澱みのようでもある。
地べたを這うようにしてふつふつと生みだされるそれらが神殿内に揺蕩い、満ちている。
――怨念?
内なるわたしの口もとが小さく引き攣る。
うう、とか、ああ……とか、きゃああ……! とか、ホラーじみたうめきや戦慄の声が一切聞こえなかったのが救いだった。そんなものが聞こえたら間違いなく儀式を中断して逃げ出す。
目の前にあるのは某ホラー監督も真っ青のリアルホラー。
いまならメガホン片手にホラー映画を撮れば、授賞を狙えるかもしれない。
いつかこの恐ろしさをお母さんに伝えてあげよう。
きっと女優業の役に立つはずだ。
気丈にも職業病よろしくそんなことを思ったけど、心は必死に後ずさりしたくてもがいていた。
だけど本体を操るシュナンツェは平然と彼らを見下ろすのみ。
切り替わったことにいち早く気づいたザックが険しい顔でわたしを睨みつけた。
研ぎ澄まされた青色の瞳には紫色の目をしたわたしの横顔が映り込む。
「数多の無念な魂達よ。竫浄の神、シュナンツェ・エル・リベラルの名に於いて命ずる。主らの怨嗟を蒼白の炎へと還せ。生前の苦しみをこの世に堕とし、新たな導きへ誘われよ。道は、主らの頭上に開かれる」
突如として神殿内に風が舞った。
シュナンツェを中心とする魔方陣が眩いばかりに発光し、風を巻き上げ長い黒髪を真上へとなびかせる。
しかし、見る者によっては銀色にみえたかもしれない。
艶やかに黒く、時に神々しく銀色に輝く髪。
儀式用の衣装すらも派手な音を立ててたなびいていたが、光が点滅するように黒いドレスへと変化する。
わたしの手にはいつの間にかひんやりとした銀色の錫杖が収まっていた。
神殿が復活した際、同様の光景を目の当たりにしたユリウスやザック。またはミズノやロウェル。二度目ではあったが、彼らもまた驚愕からは免れない。
唯一、異常を見逃さないように眼光を鋭くしていたのはザックだけだった。
魔方陣から発せられた青い光は天に弧を描く。
敷地を覆うほどの巨大な魔方陣が空に浮かび上がり、ただでさえ壇上のわたしに驚愕する人々は誘われるようにして天を見上げ、腰を抜かした。
立て続けに起きる異常な出来事。
混乱し恐怖にとらわれそうになった彼らの心を抑えたのは、壇上から流れだした歌声だった。
神殿の隅々にまで行き渡る澄んだ声色は、楽器のように音を奏でる。
エル・リデア。エリシオ・ル・デカルタ……
わたしは天へ描かれた魔方陣へ向かって両手を伸ばす。
巻き起こった風は紡がれる旋律を乗せて銀色に煌めいた。
わたしの声で紡がれる歌はこの世界の言葉ではない。
けれど和紙に落ちた絵の具のように浸透し、風のように痛みを奪い去ってゆく。
何かの幻覚にとらわれたみたいに、人々の表情から力が抜け落ちた。
不思議なことにわたしの心にも変化が生じる。
目の前に広がる闇の海。不気味すぎる光景に畏怖恐々としていたのに、寒空でたき火に当たったように心が温かい。じんわりとした温もりが細く唇からもれた。
自分の喉を通して紡がれる不思議な歌に、なぜかとても懐かしさを覚える。
涙がでそうなほど切なく、胸が苦しい。
黒い海が淡い桃色へと変化し始めたのは、そんな感情に戸惑っていた時。
泡沫に似た桃色の光がぽつりぽつりと天の魔方陣に向かって浮かび上がる。
そのひとつが、ザックの肩からふわりと飛んだ。
「……ハンナ?」
目を丸くしたザックが光をてのひらに乗せて呟く。
声には、戸惑いと驚愕。両方が入り交じる。
――笑い声が聞こえた。
赤ちゃんの笑い声だった。
あやされて、楽しんでる。
ハンナはザックが大好きだった。
ハンナの記憶はとても短く、代わり映えしない。
いつも仰向けで寝ていて、のぞき込むザックの顔を見ては嬉しさに声をあげた。
紅葉みたいな小さな手がザックの笑顔に伸びる。
生まれたての穢れなき声はザックの腕の温かさに安堵を覚え、言葉の形をとらぬまま声に応じていた。
〝ザック、大好き〟
魔法陣に向かって浮かび上がる無数の光と共に、わたしの中に様々な記憶が流れ込む。
多くの記憶は彼らとのささいな幸福を蘇らせるものばかり。
小さく、されど強く輝く幸福の欠片たち。
ザックと同じように彼らにもみえているのだろうか。
誰かの名前を呼びながら光に手を伸ばす彼らの顔は痛いほど切なく、不思議と柔らかさに満ちていた――




