ユリウスの変化
「御当主様はご無事ですよ」と伝えたミカンと、何やら視線を合わそうとしなかったミズノ婆ちゃんは、これを隠していたんじゃないかしら。
ミカンも婆ちゃんもまだ身の回りの世話をしてくれていたけど、答えを求めるように振り向くと、二人とも満面の笑みを浮かべて頷いてくれた。
「御当主様はわりと早くお目覚めになられての。お体の汚れは酷いものじゃったが、怪我ひとつなかった。そしてあの火事は自分の不注意で起きたと皆に謝られたのじゃ」
「そうだったの」
それを聞いたヤマトがすっと目を細めて婆ちゃんを見た。
何か言いたいような顔をして、じっと婆ちゃんの話に耳を傾けている。
何か気になることでもあるのかしらと、ヤマトを撫でながら首を傾げたわたしは、別の疑問に気がついた。
じゃあ、あのひとはなんのためにあそこにいたわけ?
てっきり放火犯だと思っていたけど違うのかしら。ユリウスを助けるのも躊躇っていたようだし。それに……いま考えてみると、どこかで見たことがあるような……
眉間にしわを寄せて、むむむと考えてみたけれど、まったく思い出せなかった。思い出せないものは仕方ない。ユリウスの自業自得というならそれで済む話しだもの。
わたしはさっさと考えを切り替えた。
「御当主様はすぐにベッドから飛び起きて、やることがあると告げられた。体調を気遣うライザーを一喝されてな。この命は巫女殿に救われた、恩返しをせねばならぬと言って聞かなかったのじゃ」
そう語るミズノの目には薄らと涙が浮かぶ。
あのとき、ユリウスのまわりには無事を願う大臣閣僚で溢れていた。が、やっと目覚めたと思ったら、早々に着替えて部屋を飛び出そうとしたのだ。
それにはみんな目を丸くして慌て止めに入った。怪我がなかったのは喜ばしいことだが、まだ動くべきではない、しばらく静養すべきだと必死に諭したのだ。
けれど大臣たちを振り返ったユリウスの顔はこれまで見たこともないほど穏やかで。浮かべた微笑みは目を見張るほど優しいものだった。
あの顔で「恩返しをしたいのだよ」と言われれば、誰に止めることができようか。
「そうすることでしか、いまは報いることが出来ないのだ。どうか力を貸してくれ」と頭を下げた御当主様に、誰が非を唱えられようか。
家臣に対して頭を下げるという行為は本来恥ずべきものである。
当主という矜恃にかけて、今までも決してユリウスはその様なことをしなかった。そのユリウスが頭を下げた。
彼は気付いたからだ。この国を良くしようとしているのは自分だけではないのだと。自分ひとりだけが背負うものではないのだと。幼き頃から傍に仕えてくれたライザー、親代わりとなってくれたミズノとロウェル。
そして朱鳥。
ひとりで国は大きくできない。そのためには多くのひとの力がいると朱鳥は言った。ユリウスもまたそのひとりなのだと。そして彼女はこうも付け加えた。自分もその手助けをするからと。
ならば何を恐れることがある。不安になる必要など初めからどこにもなかったのだ。
共に支えてくれる人々は、ずっと前から傍にいてくれたのだから。
これからは手と手を取り合い、水が欲しいと言われれば与え、陽が欲しいと言われれば与えよう。そうして朱鳥の撒いた種を育てていこうではないか。その声を聞くことこそが、この国の父としての役目であるとユリウスはしかと理解した。
「この国のために、力を貸してくれるか」
そこには恥など微塵も感じられず、それどころか慈愛に満ちた姿があった。
その変化にミズノもロウェルも、ライザーでさえも目を見張った。
両親からろくな愛情を注がれず、幼い頃よりただ一人で領主という座に立ち、誰かに縋ることも助けを求めることもしなかったユリウス。
国を捨てた父のために、自分がしっかりしなければならない。
当主としての気質を兼ね備えていたユリウスが、幼いながらに心に刻んだその思いは確かに立派なものだった。けれどそれ故に、誰にも弱さを吐き出せなくなった。
そうしてはけ口を見失い、いつしか捻れてしまったその思い。
その根幹にある思いを、泥の中に紛れた一粒の砂金を掬うように拾い上げてきたのがライザーであり、ミズノであり、ロウェルである。
堂々と力を貸してくれと口にしたユリウスに、やっと心の枷が剥がれたのかと、不必要に背負った重みから解放されたのかと、ようやく自分たちを見てくれたのかと。彼らは歓喜に震えた。
ミズノは口元を袖で隠してロウェルの胸に寄り添い、ロウェルは実に嬉しそうに目を細めてミズノを抱きしめた。
ライザーは目を赤くしながらも、一本に結んだ唇に力を込める。そして頭を下げて跪いた。
「もちろんです。我ら一同、この国のため、御当主様の力になることが使命。なんなりとお申し付け下さい」
その場にいた全員が音を立てて跪き、頭を垂れた。
それはユリウスからしてみれば何度も目にしてきた光景である。いままでは、その顔に感情を現すものなど何一つなく、当然のように受け入れてきた。
けれどいまは違う。端正な顔に微笑を称え、穏やかに言ってのけた。
「感謝する」
それから三日。寝る間も惜しんでユリウスは現場の指揮を執った。時折、工事現場の片隅にヤマトの姿を見た者もいたらしい。ただじっと、ユリウスの姿を眺めていたと聞いた。
猫なのだからあちこち歩き回るのも当然じゃろうとミズノは思ったが、この知恵ある猫の考えていることなど分からんというのが本音だ。
「体に負担がないようなら、見てまいれ。今日も御当主様は現場におられるはずじゃ」
穏やかな笑みを浮かべた婆ちゃんに、わたしは力強く頷いた。
「行ってくるわ! キッシュ、オスカーさんたちを呼んできてくれる? それまでに準備しておくから」
「はいはい。本当に動いて平気なのかよ」
「平気よ。早く!」
キッシュは訝しげな顔を浮かべてから、小さくため息をついて部屋を出ていった。




