対火竜戦 ①
トニスは薄暗い路地を進む。肩越しに振り向けば、両手の指で数えきれない数のむさ苦しい男たち。誰もが口をつぐんでいる。トニスは悪夢の中を彷徨う幽鬼を見ている気分になった。
無理もない。突然現れた竜に胆をつぶし、一度は生き残ったと安堵したのもつかの間、突きつけられたのは圧倒的な存在の生命力の奔流だった。あのような災厄の前では、人間など風に舞う木の葉にも劣る。
そこまで考えて、トニスは少し可笑しくなって口端を歪ませる。彼らが幽鬼であるのならば、それを先導する自分は何者だ。それに、木の葉に劣るのは俺も同じだ。俺はリズやギリアムのように腕っぷしが強い訳では無いし、アーリィのように強烈な打撃力など持ち合わせていない。
ややあって、比較的老朽化の進んでいない建物を見つけた。
遠征隊の生き残りたちに待機を命じ、さっさと立ち去ろうとするトニスへ、男の一人が「待ってくれ、俺たちも――」と追い縋る。
「足手まといだ」トニスが冷たく突き放す。
普段であれば声を荒げながら胸倉を掴まれる場面だ。実際、何人かが一度は降ろした腰を浮かせかけた。だが、彼らは苦痛に耐えるように顔を歪ませただけで、ただ沈黙していた。
墓穴のように薄暗い建物を後にし、陽の光の下に出てトニスは伸びをする。
「まぁ、俺も足手まといにならないように、せいぜい頑張りますかね」
■
アーリィの鼻歌が石壁に反射する。上から右から。反射して左から、下から。胸が浮くような心地よさに鼻歌の音量が上がっていく。
竜を射抜いた感触が掌に残っている。いかな狩人といえど、竜を撃ち落とした者などそうはおるまい。最高の気分だった。
アーリィとトニスは魔獣の気配を探して森へ入り、代わりに見つけたのが、複数の人間が通行した痕跡だった。
これはつまらない事になりそうだな、とげんなりして痕跡を辿ったが、中々どうして、思いがけず面白い事になった。
竜の咆哮が壁の四角い穴から入り込み、風のように別の穴へ抜けた。竜に居場所を悟られた様子は無い。リズとギリアムの相手で、それどころでは無いのだろう。
それにしても、と思う。
「リズリズの生真面目さにも困ったものですね。わざわざ保護するなんて」アーリィはため息混じりにひとりごちる。「あんなの、囮にして食わせてしまえば隙も作りやすいでしょうに」
不意に足元が震えた。竜の一撃が地面を揺らし、伝播した振動に建物が悲鳴を上げる。
また竜の咆哮が轟いた。明らかに激昂している。しかし、また空から炎を撒き散らすような事はしないようだ。アーリィの矢を警戒しての事だろう。何度も撃ち落とされるのは竜のプライドが許さないのかもしれない。それはアーリィのウェルテクスは有効打足りえると、竜自身が証言しているのと同義だ。
振動と竜の咆哮が止まない。竜とリズたちが激突する音が遠吠えのように聞こえてくる。戦いは激しさを増しているようだ。
アーリィは建物の屋上に辿り着いた。金属製の柵を乗り越え、縁に立って目を細める。遠くの建物の隙間から竜の姿が見えた。溢れ出す炎で全身が紅く染まっている。
竜は巨大だが、その体高は周囲の建物を超えない。教会の鐘楼と同等か、少し低いくらいだ。射線が通しにくい。
再び轟音と振動。竜はリズたちを直接叩きつぶす事にしたようだ。好都合だった。
竜との戦いにおいて、もっとも問題なのはステージの違いだ。あちらは空の上から炎を吐くだけでケリが付くが、こちらは地面を這いつくばるしかない。それは相手が地や水の竜でも同じことが言える。嵐や地震と同じく、奴ら自身が自然の驚異そのものなのだ。
そのような存在と渡り合うためには、目線を合わせる必要がある。空から竜を引きずり下ろすのだ。
まず、人狼アグルライカンの鉄眼を加工したアベルの強化魔法薬〝ムーンドリップ〟を用いて炎に耐える。そしてアーリィが竜を打ち落とす事で、炎は決定打にならず、空も安全ではないと竜に思わせる算段だった。
計画とはだいぶ違ってしまったが、ともあれ、竜はこちらの思惑通りに地上戦に打って出た。この石造りの人口森では、巨体を誇る竜の動きは制限される。悪くない舞台だった。
狙撃の基本は、相手にこちらの位置を悟らせない事だ。故に一撃ごとに狙撃地点を変える必要があるのだが、ここならばポイントを選び放題だ。そういった意味でも、グァイネア古遺跡群は理想的な地形だった。
弓を引き、「目覚めよ」と小さく呟く。ウェルテクスが仄かに発光し、静かな殺意が流れ出す。
チャンスがやってくる。頭の後ろでそんな声が響いた気がした。
地響き、唸り声、時折見える炎の切れ端、轟く咆哮、風の流れ、気配の動き。
手に取るようだ。数秒先の竜の姿が、アーリィには明確にイメージできる。
あの建物の隙間だ、とアーリィは矢の先端を向ける。
「我ら、そよぐ死。刈り取り、摘み取り、灯を吹き消す冷たき夜風」
不死の魔獣。結構では無いか。何度殺しても死なない獲物、なんて素晴らしいのだろう。
矢の先端に風が渦巻き、徐々に矢を包み込む。闇夜を紡いだような黒髪がふわりと舞った。
「穿て旋風。散らせ豪風。集いて歌え。額を抉れ――」
建物の隙間。細い空間に影が過る。竜の橙色に濁った瞳の光がちらりと覗く。
嗚呼、この瞬間だ。獲物の命を散らすこの瞬間こそが、生を実感させる。奪った命の分だけ、私の心は満たされる。
「狩猟の時来たれり。歓喜に叫べ――、ウェルテクス」
■
土煙の向こうで影が揺らめいた。
「ぬおっ!!」
地面を這うような低い姿勢から繰り出された竜の爪が、掬い上げるように伸びてきた。ギリアムは咄嗟に大剣で受けるが、衝撃を逃しきれずに後ろに弾き飛ばされる。
「ギリアム!」リズが声を上げる。
空中で一回転。ギリアムは突き立てた剣先で地面を削りながら着地をする。
「大丈夫だ! それより前!」
竜は一瞬で間合いを詰め、咢を開いて首を伸ばす。立ち並んだ杭のような牙がリズへ迫る。
受けるか。いや、捕まれば終わる。
リズは横へ飛び、がら空きになった首へ槍を突きだそうとした。しかしそれは叶わない。素早く態勢を立て直した竜の爪が、横合いからリズの身体を跳ね上げた。
「ぐっ――!!」
防具を越えて骨を軋ませる一撃に、リズの顔が歪む。その瞳に闇が映った。リズへ向かって開かれた、竜の咢の奥にわだかまる死の闇だ。そこに炎の煌めきが踊った。
ブレス――!!
空中では逃げ場がない。防御も間に合わない。リズの背中に冷たい予感が走る。
「せぇぇぇあぁぁぁ!!」
鈍い衝撃音。飛び出したギリアムの大剣が竜の首を撃ちつける。竜は口惜しそうに一つ呻き、後ろに跳んで距離を取った。
苛立つ竜の咆哮が轟く。周囲の建物が共鳴し、響く声は世界を揺るがす。心の弱いものならそれだけで卒倒してしまいそうな圧力があった。
「すまん、ギリアム」
「構わんさ。それよりあいつ、本当に硬いな」
竜は四肢を地に付け、姿勢を低くしてこちらの様子を伺っている。まるで獣だ。
「来るぞ!」ギリアムが声を張り上げる。
黒い巨体が更に身を低くし、そして弾かれるように跳ね上がった。斜め前にある建物に飛びつき、壁を蹴ってリズたちへ飛び掛かる。直線的な攻撃は無駄と判断し、立体的な攻撃に移行したようだ。
咄嗟に飛び退いた二人の立っていた場所には、竜の一撃によって深い爪痕が残された。
「くそっ、早い! 地面の上でも強いのかよ!?」
攻撃を避けながらギリアムが愚痴を吐く。竜はその巨体にそぐわない速度で動き回る。地を駆け、跳ね回り、壁を蹴ってリズとギリアムへ爪を容赦なく振り下ろす。
そもそも、竜と人間では生物としての〝格〟が違うのだ。同じ舞台に立ったからといって、それだけで対等になる訳は無かった。
もう一つ問題なのは、竜を包む紅焔が放つ熱だ。こうして対峙しているだけでも、体力が急速に失われていく。戦いが長引くほどこちらが不利になる。だが――。
「焦るなよ? 筋肉馬鹿」リズが言う。頬を伝い、汗の雫が顎先から落ちた。
「当然だ。こういうのは慣れて――、筋肉馬鹿!?」
どのような戦いでもそうだが、特にこのような力量を大きく上回る相手と対峙する場合、とにかく焦りは禁物である。破れかぶれの一撃など届くはずも無く、手痛い反撃を貰うだけだ。
ただでさえ、分厚い筋肉や太い骨を持つ大型魔獣へ致命傷を与えるのは容易ではない。逆にこちらは、相手のどんな攻撃でもまともに喰らえば致命傷になりうる。その差が恐怖を生む。
だが、不利なばかりでもない。
一撃決めればいい。そのような考えは油断を生み、仕留められるはずの相手が仕留められないという状況に、敵は苛立ちを覚える。怒れば攻撃は大振りになる。隙を突く機会は、必ず訪れる。
竜の爪がリズへ振り下ろされる。その爪は急激に勢いを失い、水の中で振るわれたかのように尻すぼみになる。爪が大盾にこつりと当たり、ヴェンデッタは本来あるべきだった衝撃を丸ごと呑み込んだ。
「掌まで硬くはあるまい!」
相手の一撃をそのまま上乗せして、リズが突撃槍を突きだす。槍の先端がめり込み、破裂するように竜の手首が吹き飛んだ。
予想外の激痛に竜が吠える。注意がおろそかになった足もとへ、ギリアムが切りかかった。足の付け根、膝の裏、足首。狙える場所はいくらでもある。斬れないのならば、まるごと砕け。完全無欠など存在しない。
竜の膝裏へギリアムの大剣が深くめり込んだ。竜の態勢が大きく崩れる。
怒りと驚愕の入り混じった咆哮が空気を震わせる。倒れ込む竜を駄目押しの一撃が見舞った。建物の合間を縫うように放たれた風牙が竜の濁った眼球を貫き、内側から頭蓋を砕いて二度目の死を叩きつけた。
地面が重く震える。倒れ伏した竜の身体から熱が失われていく。
「……どうだ。どうなった? 少しは効いたか?」
「いや――」リズは首を振り、ヴェンデッタを構え直す。「この程度では……」
竜の傷から、再び炎が溢れ出す。炎の中で破壊された手首、膝、頭部は時を遡るかのように再生し、橙色の瞳に光が宿る。
やがて炎が解け、竜がずるり、と起き上がる。憎悪の籠った瞳がリズたちを見下ろした。
「離れなさい!」
どこからか声が響いた。
考えるより先に身体が動いた。二人は竜から距離を取る。瞬間、閃光が降り注いだ。
天から落とされた光鎖が、竜を脳天から貫く。
刹那の出来事だった。視界が白く焼け、熱波と轟音が炸裂する。
残響のような耳鳴り。むせ返るような肉の焦げる匂い。余分なものが全て蒸発した、どこか白々とした空気の中に竜の姿はあった。瞳は虚ろで、意識が散っている。だが――、仕留めるには至っていない。
「遅くなったわね! みんな無事かしら!?」
「姫様! ……と、アベル」
「人をおまけみたいに言うな」
相変わらずなリズにアベルは眉根を寄せながらも、胸を撫で下ろした。どうやら、大きな被害を被ってはいないようだ。
「よう、遅かったな」
「山は登るより降りるほうが大変なんだよ。転げ落ちないように急ぐのは骨が折れる。転ぶと本当に骨が折れる」
「なるほど、大変だ」
男二人が笑いあう。レナエルがリズに「戦況は?」と尋ねた。
「アーリィが竜を撃墜、地上戦に持ち込みました。二度竜の頭部を砕きましたが、結果はご覧のとおりです」
竜の頭部から黒い溶岩が剥がれているのはそういう訳か、とアベルは心中で頷く。当然と言えばその通りだが、付着した溶岩は本来不純物なのだ。一緒に再生するはずが無い。
牙の隙間から細い呻きが聞こえてきた。竜が意識を取り戻し始めていた。
「……しぶといわね」迅雷の姫が顔を顰める。
「構えろ!」
リズの言葉と同時に竜が翼を広げた。羽ばたき、豪風を撒き散らして竜が天高く飛び上がる。
「うかつですねっ!」
既に狙撃地点を移動していたアーリィが声を上げる。
先ほどとは別の地点から風牙が放たれる。重い金属音。攻撃を予測していた竜はアーリィの矢を腕で受け、軌道を逸らせて弾いた。
「うえっ!?」
誘い出されたと解った時にはもう遅い。牙の間では灼熱の炎が圧縮されていた。矢の飛来した方向へ竜が咢を開き、火球を放つ。火山弾のように飛翔した火球はアーリィの居る建物の上空で爆散し、周囲を炎に沈めた。
「アーリィ!!」レナエルが悲鳴のような声を上げる。
「こっちにも来るぞ!」
「受けるな、避けろ!」
大盾を構えたリズの肩を掴み、アベルは駆けだす。それを追うように竜が急降下する。全身を炎に包みこんだその姿は、太陽が墜ちてくるようだった。脚の爪をアベルたちに向け、その質量で押しつぶそうと迫ってくる。
十字路の中心が深く抉られた。アベルたちはそれぞれ別方向に吹き飛ばされる。膝辺りまでを石の地面に埋め込ませた竜が羽ばたき、地面を巻き込んで飛び上がる。
地面に亀裂が走った。ひび割れ、砕け、足もとが沈む。
「なっ――!?」「え、ちょっと、やだ!」「うそだろおい!」「ま、さか。そんな!?」
沈む。沈む。沈む。堕ちる。
「レナエル!」
アベルは手を伸ばす。崩れ落ちる地面の向こうに伸ばされたレナエルの腕が見えた。だが、遠い。あまりにも。
絶対だと信じて疑わなかった存在が、崩れ落ちた。
大地は割れ、アベルたちは奈落の底へ落ちていく。互いの名を呼ぶ声が暗闇に呑まれていく。




