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竜の咆哮

地面に突っ伏し、温泉よりも熱い涙を流しながらトニスが呻いている。両手足を縛られ、岩を括り付けられ、温泉に放り込まれて生還した(おとこ)の涙だ。

「制裁が重すぎやしないか」アベルがギリアムに小声で囁いた。

「トニスは常習犯だからな……」

 ギリアムは呆れた様に息をつく。なるほど、いつもの事という訳だ。


 アベルたちも入浴と、汗に(まみ)れた衣服の洗濯を済ませ、洞窟の中で(くつろ)いでいた。できればこのまま昼寝と洒落込みたいが、そうもいかない。

 一行は焚火を囲んで、思い思いに一時の休息を取っていた。洞穴の入り口から吹き込む風が吊るされた洗濯物を揺らしている。半刻(はんこく)もすれば十分に乾きそうだ。


「手分けをしよう」そう切り出したのはアベルだ。「まずは竜の確認、それと周囲の地形の把握だ。俺は竜のほうへ行く。直接確認をしておきたい」

 相手は伝説の象徴。魔獣の中の魔獣である竜だ。慎重に過ぎるという事はあるまい。まずは状況を精査し、少しでもこちらの有利に事が進むように下準備をしなければならない。リズが顔を上げ、アベルへ視線を向ける。

「周囲の露払いはどうする。竜との戦闘中に、他の魔獣から横やりを入れられたら困るのでは?」

「竜ごと叩き潰せばいいだろう」ギリアムが口を挟む。

「阿呆かお前は。筋肉で物を考えるのも大概にしておけ」

 丸太のような腕を組んで笑うギリアムに、リズが冷たい視線を向ける。

「一応、警戒しておいた方が良いかもな。他の魔獣と遭遇戦になった場合、あまり派手にやると竜を呼び寄せてしまうかも知れないが」アベルが頷く。


「それなら、トニスとアーリィが適任ね」ぱん、と手を叩いて口を開いたのはレナエルだ。「地形の確認にはリズとギリアム。竜の方へは私が向かいましょう。うん、そうしましょう。それが良いわ」

 確かにアーリィとトニスの組み合わせは、偵察や奇襲に適していると思えた。そして竜の巣はグァイネアの火口にあるという。つまり山頂付近だ。そこへ装備の重いリズやギリアムを向かわせるのは、酷というものであろう。鎧が擦れる音も防げない。比較的軽装で身軽なアベルとレナエルで向かうのは妥当といえた。

「でもなぁ、竜の元へ向かうなら、アーリィの鋭い感覚が欲しいんだが」

「あららアベルン。私が欲しいんですかぁー?」

 何かしらの不幸が重なって、竜に発見されるような事にでもなればお終いだ。アベルにしてみればアーリィを連れていくことは胸にお守りを忍ばせておくようなものなのだが、それをどう捉えたのか、顎に指をあててアーリィがくすくすと笑う。

「何か言ったかしら、二人とも」

 レナエルが奥にどす黒い物が見え隠れする笑顔を浮かべる。何故不機嫌になったのかは解らないが、下手に逆らうべきではないとアベルは首を竦める。




「……あれかしら。ほら、奥の黒い影」

 外套のフードを目深に被り、目元から上だけを岩から覗かせてレナエルが言う。

アベルとレナエルは洞穴を這い出てグァイネア山を登り、火口へと到達していた。泥を塗って周囲の風景と馴染むようにした外套を纏い、気配を殺して火口の様子を伺う。せっかく洗濯したのに、とも思ったがこればかりは仕方ない。竜に発見され、炭になった立木の仲間入りはしたくない。


 火口はすり鉢状になっているが、その底は広く平らだ。黒々とした半融解状態の地面のひび割れから、紅い光が溢れ出ている。

 目を凝らすと、黒と紅の大地にうずくまる巨大な影があった。翼を畳んで首を丸めた竜だ。

「寝ている……のかな」

「サラマンダーって言うから赤いのだと思っていたけれど、黒いのね」

 二人が前にあの竜を見たときは夜だった。その時は夜中であったので黒く見えたのだと思っていたが、昼間の陽光に照らされてもなお、件の竜は黒鉄を思わせる鱗で全身を包み込んでいた。

「溶岩が付着しているんだ。厄介だな、ただでさえ竜の鱗は硬いという話なのに」

「雨の日はどうしているのかしらね」

「さぁな……。頭から溶岩の中に潜り込んでいたりして」


 火口からは熱せられた空気が常に吹き上げている。こうして覗き込んでいられるのは十秒程度が限界だ。それ以上は肌が焼けて痛みが走る。

 岩陰に背を預け、腰を下ろす。小さい革袋から干し葡萄を取り出して二人でつまむ。口に広がるじんわりとした甘みを水で流し込むと、身体の強張りが(ほぐ)れるように疲労が抜けていく。

「ここでは戦えないわね」

 密やかな声でレナエルが言う。辺りには大小の岩が散乱し、小さいものでも拳くらいの大きさはある。こんなものが足元に散らばっていては、思うように戦えない。何より、このような火口の近くでは竜の再生を防ぐことはできないだろう。

「火口を離れる時を狙って地上で待ち伏せするか、誘い出すか、だな」

「いつ、どこに向かって食事に行くかが解れば、アーリィに撃ち落してもらうなんて事もできるかもだけれど」

「いや、竜はあの巨体の割にあまり食事をしないらしい。炎の熱や風の揺らぎを己の活力としている、と書物にあった」

「ほとんど神様みたいなものね」

「まったくだ」

 呆れと畏怖の入り混じった、押し殺した笑い声が流れる。自分たちがこれから挑もうとしているのは、その神の親戚であるような、竜なのだから。


「では誘い出すのが良いでしょうね。麓で宴会でもしてみる?」

「盛大に魔獣肉でも焼くか?」

「あ、良いわねそれ。個人的に大歓迎だわ」

 レナエルは笑いながらフードを脱ぎ、髪を手ぐしで掻き上げる。汗で張り付いていた髪がふわりと舞った。


「いやしかし、暑いわね……。流石は火山と言った所かしら」つい、とレナエルの視線が横に流れる。「それ、持ってきたの?」

 レナエルが顎で示すのはアベルの腰から下げられた数々の小物入れ、その中でも一際大きなウェストバッグだ。

「うん? ……あぁ、これな。基本装備だから、うっかりな」

「匂いを気にして入浴までしたのに、台無しじゃない」

 そのウェストバッグにはアベルお気に入りの探索道具、虫除けの香が詰められていた。火は付いていないので煙は上がっていない。

「そこは素直に謝るが、この様子じゃ要らない心配だったみたいだ。火口に熱せられた空気に巻き上げられて、竜まで匂いが届くことは無いよ」

 ふぅん、とレナエルが気の無い返事をする。

「それにしたって、随分とその香にご執心ね。たかだか虫の一匹や二匹にそこまで気を使うものかしら」

「何を言う。何度でも言うが、虫は恐ろしいんだぞ。音も無く近寄り、悪魔の呪いのような毒を知らずのうちに身体に忍ばせて去っていく。一流の暗殺者でも足元にも及ばない。少しの匂いと煙でそれを防げるのならば――」

「あぁーはいはい、解ったわよ。それは何度も聞かせて頂きましたー」

 辟易した様子でレナエルが手を振る。朝も夜も無くアベルは香を焚き続けた。初めこそ不満の声も上がったが、そうするとアベルがお決まりの熱弁を振るうので次第に誰も何も言わなくなった。


 竜に気を配りながら、二人はぼんやりと空を見上げる。緩やかで平和な時間。地獄の縁でピクニックだ。

 そよぐ風に乗せてアベルが呟く。

「その、なんていうか、ごめん。負担をかけているよな」

「香の事? 良いわよ今更。もう慣れた」

「そうではなくてさ。計画というか、作戦の事なんだけど」

 あぁ、とぼんやりした声がかえる。

「それこそ別に良いわよ。先に巻き込んだのは私だし、命を張るくらい、いつもの事だわ」

 アベルの立てた作戦は、作戦と呼んで良いのかを疑いたくなるほど行き当たりばったりな代物であった。なにせ、最後にはレナエルは一人で竜の咢の前に身を晒さなくてはならないのだ。


 アベルは遠くに視線を投げる。焼けた大地の一角に、打ち捨てられた建造物群が見えた。

「あれがグァイネア古遺跡群か? 広いな」

 地面に突き立てられた石棺のような遺跡群は、グァイネア火山の麓から広がっている。街一つ分はあろうかという面積だ。その古遺跡群を含むグァイネア山周辺一帯がイマルタル聖堂会の聖地であり、禁足地である。

 眼を細め、レナエルが遺跡群を睨む。

「悪くないわね。あの場所なら竜も思うように動き回れないでしょう。そして、こちらは身を隠しながら戦える」

「貴重な遺跡を戦場にするのか?」

「過去の遺物になんの価値があるって言うのよ。古い物はただ古い。それだけよ」

 どうやらレナエルには聖堂会の定めた物の価値など、どうでも良いらしい。アベルとしてもそれには同感だが、先人たちの営みが刻まれた遺跡群を踏みにじる行為はできれば避けたいところだった。しかし、レナエルの言う通り、戦場としては申し分ない。


 地響きのような唸り声が響く。二人は慌てて振り返り、岩の上から顔を覗かせる。瞳を焼く熱波に目を細めた。

「何かに反応しているわね」

 竜は鼻先を上げ、眼を細めて何かを探っているように見えた。

「俺たちの存在に気が付いた……という感じでもなさそうだが」

 その時、空気の揺らぎがアベルの元へ届いた。それは確かに人間の声のように聞こえた。一人や二人では無い。十人以上の人間が歓声のような雄叫びを上げている。

 首を巡らせ、声のする方角へ目を凝らす。先程は眺めていただけなので気が付かなかったが、古遺跡群の中の開けた一角に砂粒ほどの影が蠢いている。武装をしているようだ。

 ズルカ公国かライエル王子が差し向けた追手か。あるいはアズガルドの放った刺客だろうか。

 いや、違う。彼らがそのような面倒をかける必要は無い。悠々とランダルマで待ち構えていれば良いのだ。


「わぷっ!?」

 突然吹き荒れた熱風に、レナエルの髪が乱舞する。巨体の輪郭が揺らめくほどの熱気を纏いながら、竜が二人の頭上を飛び去っていく。

 咆哮一閃。空が裂けたのかと思えるほどの轟音を撒き散らしながら、黒いサラマンダーがその雄姿を見せつけるように大きく翼を羽ばたかせる。

 竜の行く先に広がるのは、グァイネア古遺跡群だ。目的は――、考えるまでも無い。

「そうだよな。手ぶらじゃあ帰れないよな」アベルが小さく舌打ちをする。「遠征隊の生き残りだ。くそっ、完全に想定外だ」


 寝床への人間の侵入許した竜はしばらくの間、警戒を緩める事は無いだろう。奇襲は難しくなる。警戒が緩むのは十日後か、それ以上か。いずれにせよ、待ってなどいられない。

「予想外に想定外。戦場とはセットみたいなものだわ。紅茶とスコーンのように、とは言わないけれど」

 レナエルが腰に下げたグリントソーンの鞘を指で撫でる。鳴くような金属音が微かに響いた。

 アベルは頷く。一度戦場に立てば、後は何が起こるか解らない。理解していたはずだ、覚悟もしていたはずだ。


 ――そうだ。やるしかない。


 早鐘を討つ胸を押さえつけ、アベルは熱く深い吐息を青空に溶かした。



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