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湯煙旅情

 降り注ぐ太陽の光は緑の天蓋に濾過され、輝く薄布のようになってアベルたちを包み込む。

「アベル。〝土産〟はどの程度必要なんだ」

 一行は変わらず森の中を進んでいた。木漏れ日を顔に移したリズが口を開く。

「余すことなく、と言いたいところだが、魔霊星と心臓、それと頭部や髄などがあれば問題は無いはずだ」

「そこまでしても竜の再生能力は損なわれないのか?」

 おそらく、とアベルは頷く。リズは方眉を上げた。

「毒蛇竜カブラーチスや、土刃竜クンガルヴァ討滅の英雄伝と同じく、か。おとぎ話の世界に踏み入る日が来るとはな」


 子供たちの憧れる英雄たちの活躍を描いた英雄伝は、決して妄想や夢想の類ではない。竜の恐ろしさを忘れないために、人は竜のような強大な困難にも打ち勝てるのだという事を後世に伝える為に、事実を物語風に仕立てた記録書だ。

 あの名無しのサラマンダーにどこまでの再生能力があるかは不明だが、魔霊星が残存し、その上で固有の条件さえ満たせば、他の竜と同じように再生して見せるものと思われた。サラマンダーの場合は、再生に炎を必要とするはずだ。

 だがアベルたちの目的は竜の討滅ではない。あくまで〝生け捕り〟なのだ。

 魔霊星を砕けば勝負は決する。それも簡単な事ではないが、アベルたちは竜の再生能力を損なわさせず、魔霊星を残して竜を倒す事を目的としている。それは過去の英雄たちが果たした偉業よりも、何倍も困難な事であった。


「やっぱり、魔霊星を竜の身体から切り離すしかないですかねぇ」

「現状ではそれしかないわね」

 アーリィとレナエルが話し合う。魔霊星を失えば竜は再生能力を失う、という事は顔役から託された書物や、数々の英雄伝からも明らかだ。だが砕くわけにはいかない。であれば、肉体から切り離してしまえば良いのではないかという訳だ。

「問題は、魔霊星の位置だけど」レナエルがアベルへ視線を向ける。

「頭部にあった例は無いようだ。多くの場合は、胴体の奥だな。堅固な鱗、強靭な筋肉、頑強な骨に守られている。そこから抜き出すのは――、簡単じゃない」


「どうにか魔霊星に手を出すことなく、竜の生命活動を停止させてしまうような、何かがあればねぇ」

「それこそ夢物語ですよ、姫様。そんな手段があれば、誰でも英雄だ」

 レナエルの言葉にトニスが応える。

「人に想像できることは、必ず実現できる」アベルが何かを読み上げるように言う。

「なんだ? それは」ギリアムがアベルへ視線を向ける。

「過去のアルケミストたちが残した言葉だよ。そして、それは真実だ」

 魔獣や魔霊星といったものは、アルケミストにとっても未知の代物であったらしい。彼らは、そこから魔装具や魔術という技術を生み出した。事実を見つめ、現象を研究し、未知の力を、既知の技術へと生まれ変わらせた。一見どんなに途方もない代物でも、人の手で掴む事は可能なのだと示して見せたのだ。

 だから、とアベルは思う。

「何かあるはずだ。神の指先は、いつも近くにあるはずなんだ。俺はそれを探し出して見せる」

 目を細めて書物に齧りつくアベルの肩を、良い顔になってきたな、とリズが軽く叩いた。




 一行は淀みなく外界の森をゆく。細やかな光の粒子が木の葉の間を舞っている。折り重なる(こずえ)の隙間から細い陽光が降り注ぎ、その光の中で色鮮やかな蝶が花から花へと飛び移る。太い枝に絡みついた蛇が退屈そうに垂れ下がり、地面のそこかしこから水蒸気が生命の息吹のように立ち昇っていた。

 道中に魔獣の襲撃が無い事も無かったが、食い詰めた魔獣が破れかぶれに襲い掛かって来た、と言った程度の散発的なものだった。もちろんその程度で傷を負うようなアベルたちでは無い。トニスやアーリィの鋭敏な感覚は敵襲を事前に察知して見せたし、ギリアムやリズ、そしてレナエルも一流の武人。アベルもそこらの魔獣に後れを取るような素人では無く、いざとなれば魔法薬という切り札もある。問題と言えば、魔獣の肉を食してみようとして、リズに厳しく諌められたレナエルが頬を膨らませていじけたくらいだ。


 かくして一行は大きなトラブルも無く、隠れ里を発って四日目の昼前に、禁足地グアィネア山の遠景を望める地点にまで到達していた。


「あれがそうか。禁足地、聖堂会の聖地……と言う割には色気のない山だな」

 ギリアムが目を細めてぼやく。遠くにかすむグァイネア山と、その周辺に緑は存在しない。剥き出しになった山肌に見えるのは、骨のような白と焦げ付いたような黒ばかりだ。その麓に広がるのは焼き払われた荒涼とした大地。時間が止まったかのように色彩を欠いた大地に蠢く影は無い。地面に影を落とすのは、根差したまま炭化した樹木の残骸だけだ。

「近くに拠点を構えて、竜の様子を確認しよう」

「洞窟みたいなものがあれば良いわね」

 辺りを見回すアベルに、干し肉を齧りながらレナエルが言う。


「水場も探さないとな。飲み水が心もとない」トニスが言う。

「あ、それ賛成ですー。できれば水浴びなんかも、したいですね」

 アーリィは服の胸元を引っ張り、鼻を近づけて困ったように笑う。

 湿気の多い森の中を歩き詰めだった一行からは、仄かにすえた様な匂いが立ち昇っていた。

「何か、匂いますね」ふと、アーリィが顔を上げる。

「みなまで言うな。竜に嗅ぎ付けられても困るしな。とりあえず水場があれば身体を拭って」

「確かに匂う。これは……」

 リズの言葉を遮る形で、少し顔を上げてアベルも首を巡らせる。


「何だ、お前まで」

「いや、俺たちがって話じゃ無い」

 アベルは匂いの方向を探る。あたりをつけ、怪訝そうな顔をするリズに笑いかける。

「喜べ。水浴びなんかより、ずっと良い事ができるかも知れないぞ」




 それに近づくにつれ、痛んだ卵を思わせる臭気が強まっていく。まさか毒ではないのか、と警戒するリズ達を連れて岩山を探っていると、もうもうと白い煙の立ち昇る池に出くわした。

「あっ! これって、もしかして」

「ひ、姫様、お待ちを!」

 リズの制止を無視してレナエルは駆けていく。池の縁に辿り着くと膝をつき、手甲を外して恐る恐る水面に指を近づける。

「お待ちください姫様、水棲の魔獣でも潜んでいたら――」レナエルの背中を追ってリズが駆け寄る。

「はわぁー!!」

「ひへっ!?」

「あったか――い!!」

「ひっ、姫様! 一体どうし――え、あったかい?」

 突然の声に驚いて奇声を上げてしまったリズは、取り繕うように咳払いをする。そしてまるで炎に触れようとするかのように、そろり、そろりと池へ腕を伸ばす。


「――本当だ。これは、湯か……?」

「ねぇアベル! これって〝温泉〟ってやつよね!?」

 魔獣肉を取り上げられて不機嫌だった事も忘れてしまったかのように、レナエルが瞳を輝かせる。

「グァイネアは火山って話だったから、もしかしたら、とは思っていたんだ」アベルもレナエルの隣に膝をつき、手首まで沈めて湯を掻き混ぜた。「こりゃ良い。温度も最適だな」

 天然の温泉は広く、深さもあり、入浴に適しているように見えた。湯量も豊富で申し分ない。

「へぇ、初めて見たぜ。凄いもんだな」

「俺もだ。湯が地面から際限なく湧いてくるなんて、とんでもなく贅沢だな」

 トニスとギリアムが声を揃える。常在戦場な彼らにとって、湯を浴びるという行為は大変な贅沢だ。戦場において水とは渇きを癒し傷を清める、文字通りの命の水だ。それをわざわざ火にかけ、一時の快楽の為だけに浴びるなど、考えられない。


「これだけの上物には、そうそうお目に掛かれない。大抵は大きめの水溜り程度の代物で……」振り返るアベルの表情が固まる。「――お前、なんでもう脱いでいるんだ」

 アーリィ既に下着姿になっていた。この数日で軽くなった荷車から手ぬぐいと、油と木の灰で造った石鹸を探している。石鹸は傷の洗浄や、魔獣の血糊を落とすために持ち込んだものだ。

「え? だって入浴するんですよね?」

「いやさ、お前、もうちょっと恥ずかしがったりとかはしないのか」

「これっぽっちも!」

 アーリィは薄い胸を張る。どうやら彼女に、貞淑という概念は存在しないらしい。


「そんな事より、レナレナー。リズリズー。早く入りましょうよー」見つけ出した手ぬぐいと石鹸を振ってアーリィが呼びかける。「男たちは水汲みと荷物の番でもしていてください。見張りは結構ですよ。別に裸でも戦えますから」

 アベルたちは言われるがままに温泉を後にし、女性陣を残して飲み水の確保と周囲の探索に出向いた。

 程なくして細い川を見つけ、水が汚染されていない事を確認して革袋の水筒につめる。その間に、ギリアムが夜風を凌ぐのに適した洞穴を見つけた。獣か魔獣の巣穴であったようだが、主は既に居ない。遠慮なく拝借することにした。

 もはや不要となった荷車を崩して焚き木にし、野営の準備を整えた所でトニスが口を開いた。


「さてと、行くか」

「行くって、どこに」

「決まってんだろアベル。女性陣が入浴している。俺たちは役目を果たして手持無沙汰。つーまーりー?」

 眉根を寄せるアベル。ギリアムは大きく息を吐いて首を振った。

「やめておけトニス。楽しい事にはならんぞ」

「楽しいか楽しくないかじゃないんだよ、ギリアム。すぐそこで女性が裸体を晒しているんだぞ? 覗いてやらないなんて、失礼ってもんだろ!?」

 熱弁を振るうトニス。普段は飄々とした彼だが、この時ばかりは冬の海でも沸騰させてしまいそうなほどに熱い男になっていた。

「覗く方が失礼に決まっているだろうが」アベルが言う。

「解っていないなアベル。逆だぜ、まるっきり逆だ。風呂を覗かないってのはな、異性として興味が無いと宣言するような物なんだぜ。そりゃあ、お前は興味を持てないかもしれないが、そこは男の付き合いってもんだろうが」

「かっ。くだらん。行くなら一人で行くが良い。骨は拾って犬に喰わせてやる」

「ギリアムも紳士ぶるなよ。お前、リズの肌を見たくはないのか?」

 ギリアムがぐっ、と息を詰まらせる。

「鎧越しでも解るほどに、強烈に主張をする豊満なバスト。鍛え上げられつつも、しなやかさを失わない肢体。温泉の熱気で上気し、熟れた桃のように色づいたリズの肌を見てみたくはないのか」

 ばつが悪そうにギリアムは頬を掻く。それを見止めて調子づいたトニスの饒舌が止まらない。


「アーリィは胸こそぺったん……控えめだが、あの褐色の肌と均整の取れた肉体はまるで芸術だ。そう、芸術なんだ。女体こそが〝美〟という物なんだよ。姫様を見ろ。曙光を紡いだような黄金の髪、宝石のような蒼い瞳。主張しすぎず、控えめに過ぎないバランスの取れた胸。すらりとした肢体は、世の彫刻家が生涯を賭けて作り出したどの作品よりも美しい! 左目を裂かれた傷も、姫様の美しさを損なうに足りない。いや、あの傷があるからこそ姫様の美しさは完成されるのだ。美しい躰に力強い魂を内包し、そこにあの傷が退廃的な美を付けくわえている。そう、あれこそが――」

「トニス。お前気持ち悪い」

 アベルの冷たい一言で洞穴の賛美演説は幕を閉じた。トニスは咳払いをし、改めて男二人に問いかける。


「さぁ、行こうじゃないか。美を求めて」

「それならば天国に行くのが良いだろう。さぞ極上の美を目の当たりにできるのだろうな」

 洞穴の入口には、濡れた髪を一つに束ねて肩から前に垂らしたリズが立っていた。その背後でレナエルが汚物を見るような眼をトニスに向けている。アーリィは腹を抱えて笑いを噛み殺し、呼吸困難になりかけていた。


「アーリィといい、お前といい……。少し目を離すとろくな事をせんなお前らは。せっかく気を使って早めに切り上げたというのに」

「お、お早いお上がりで。良くここがお解りになりましたね……」

 トニスはぎこちなく首を向ける。

「足跡、折れた枝の高さ。追跡するための痕跡は山ほどある。それにお前の演説だ。随分遠くまで響いていたぞ」

 リズは顎を上げ、見下ろすようにトニスを睨む。

「……不潔」

「はうっ!?」

 これでもかというほどに嫌悪感が込められたレナエルの一言に、トニスの顔が引きつる。

「そ、そんな姫様! 私はただ女体の美をというものを――」

 がしっ、とトニスの肩が力強く掴まれる。リズが怒気を孕んだ凄絶な笑みを浮かべている。


「言い残すことは無いな?」

「……は、はい……」


 涙目になったトニスの声が、洞穴の岩壁に溶けて消えた。その様子を眺めて、アベルは小さく溜息をついた。


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