フィルの特性
開店までの時間、俺はまず二人に、バーテンダーの心構えを教えた。
それをどこまで真剣に聞いていたのかは定かではないが、二人とも理解はしていた様子だった。
そして、そのあと、俺は昨日言ったことを改めて告げる。
「それで二人とも、今日は何もしなくていい。準備は俺がやるし、それを教えるのはまた今度だ。作業も全部俺とスイがやる」
「……それで、本当に良いんですか?」
俺の言葉に、フィルの方が済まなそうに質問をしてきた。
「あぁ。とにかく、二人は元気に挨拶すること。そして自己紹介すること。それが済んだら、楽しんでみること。これだけを考えればいい」
「なんでそんなゆっくりなんですの? 私達は、なるべく早く『カクテル』を教えて欲しいのですけれど」
「それが、バーテンダーになる一番の近道だからだよ」
焦るように突っかかって来たサリーに、俺はピシャリと言った。
まず、この店の雰囲気に馴染むこと。それが、新しい人間の一番にすることだ。
もっと本格的なバーであれば、客とは一言も喋らないどころか、バックに籠ってひたすらに洗い物ということもある。
だが、俺の働いていたところはそこまでではなかったし、まずは、雰囲気に慣れて欲しいと思った。
彼女はまだ少しだけ不満げだが、散々説教されたせいか、反論はせずに引き下がる。
俺はそこで、意図してにこりと微笑み、付け加えた。
「それじゃ、分からないことがあったら何でも聞いてくれ。緊張しないで、自分を出しながら楽しむこと。以上」
そのあと、その双子には簡単な掃除だけを手伝ってもらい、静かに開店の時間を待った。
カラン。
入り口の鐘が鳴る。
それはつまり、新しい客が入って来たということだ。
時刻はまだ十八時になる前。
この店のオープンから、一時間経たないくらいだ。
「いらっしゃいませ!」
テーブル席にではなく、カウンターの方へと足を向けたお客さんに挨拶をする。
良く通る声で。語尾は伸ばさず切る。
居酒屋のような挨拶ではなく、その人、個人のための挨拶。
それが、バーテンダーの挨拶だ。
「い、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませー!」
それをこの二人にも一応説明はしたのだが、まぁ、最初は仕方ないか。
ちなみに、前者の少しどもったのがフィル。
後者のやたらと語尾を伸ばしているのがサリーだ。
「お、威勢の良いのが二人、入ってるな!」
「イソトマさん、お疲れさまです。こちらへどうぞ」
俺は、この常連客が好む中央少し入り口寄りの席に、そっとコースターを配置した。
入り口の近くは、同時に双子を配置した場所でもあり、その場所は丁度、俺と双子達の中間地点でもある。
彼が席に着いたあと、すぐにおしぼりを用意しそっと彼に手渡す。
「いやー。本当に弟子になったとは」
「疑ってたんですか?」
俺が少しだけ苦笑いで言ってみると、イソトマは面白そうに言った。
「なに、マスターに鬼のようにしごかれて、逃げ出しちゃいないかとね」
「いやいや! 僕、弟子には優しいですから!」
最初は。
そう心の中で付け足したが、横合いから、ぼそりと少女の声が聞こえた。
「……嘘吐き」
俺がにこやかな笑みを浮かべたままそちらを見ると、サリーがさっと目を反らした。
「ほら、二人とも、自己紹介」
俺は軽い苛立ちを水に流して、二人にそう促した。
言われて、率先して前に出て来たのはサリーだった。
「初めまして……ではないですね。昨日お会いしました。改めまして、サリーです。宜しくお願いしますわ」
「おう、よろしくな。俺はイソトマだ」
サリーの自己紹介は、憎たらしいことに中々様になっているのだった。
言われた通りに、敬語も一応使えている。まぁ、ある程度は予想できたことではある。
度胸がある奴は、こういうのは早いのだ。
そして、真面目な子は往々にして、尻込みもしてしまう、のだが、
「……フィル? 挨拶は?」
サリーと違って、かちこちと固まってカウンター端から動かないフィルに尋ねた。
もう片割れの弟子のほうは、えっあっ、と視線を少し彷徨わせ、言った。
「……僕は、良いです」
いや、何も良くねえよ。挨拶しろよ。
俺は、思わずツッコミそうになるのをなんとか堪える。
だが、彼と距離の近いサリーは、俺の気持ちをあっさりと代弁していた。
「何が良いのよ! 何も良くないわよ!」
「さ、サリー」
「良いから早く挨拶しなさい! 蹴られるわよ!」
いや、それくらいじゃ蹴らねえよ。
またしても、ツッコミそうになるのをなんとか堪えた。
サリーに促され、フィルは手足を同時に出すロボットのようにイソトマの前に出る。
「あ、ふ、フィルです。よろしくお願いします」
「お、おう。イソトマだ。よろしくな」
ややその動きに面食らったイソトマが、少し心配そうに挨拶をしていた。
その少年のオドオドした態度に、俺は違和感を覚える。
まさかとは思うのだが、この少年、実は極度の緊張しいなのではないか。
あれ? でも、昨日は初対面でちゃんと話していたはずだよな。
いったい、何が違うというんだろうか。
と、そんな考えをしている間にも時間は進む。
俺は意識的にその思考を打ち切り、接客に戻る。
「イソトマさん。ご注文はどう致しますか?」
「お、そうだな。俺も昨日のアレ、飲んでみたいんだが」
昨日のアレ。
さて、俺は昨日様々なカクテルを作ったわけだ。
そして酒豪で通っているイソトマは、またしてもイベリスを忘れたゴンゴラと、色々と飲みまくっていたわけだ。
そんな彼が要求するアレとは。
彼が飲んでいないカクテルで、印象に残っているものだろう。
「【ブラッディ・シーザー】ですね。かしこまりました」
俺は頷き、その後に少しの希望を込めて尋ねてみた。
「そしてイソトマさん。実はこの二人、イソトマさんが初めてのお客さんなんですよ」
「分かってるっつの! 今日入ったこの子らに、俺からはなむけの一杯ずつだ!」
「かしこまりました!」
俺は腰を折って礼をした後に、急いで作業に取りかかった。
用意するグラスは、三つだ。
きょとんとしている双子に、今はわざわざ説明するでもないだろう。
少し行儀が悪かったのは認めるが、イソトマは、そういう提案をされて悪い気はしないタイプだ。だからこそ、俺は自然に提案することにした。
言外に『この二人に、何か飲ませてあげてはくれませんか』と。
もちろん乗ってくれなければそれまでだ。だが、乗ってくれたのは好都合だった。
フィルについて、少しだけ気がかりなことを埋めておきたいところだったから。
「おまたせしました。【ブラッディ・シーザー】です」
「おぉ。待ってたぜ」
俺の言葉に笑顔を見せるイソトマに対し、恭しく細長いグラスを差し出す。
そして、隣に立っている二人にも、同じようにグラスをそれぞれ渡した。
「こちら、イソトマさんから。二人のこれからの成長を願って、一杯ずつだ」
二人はその一杯を、おずおずと受け取った。
そして、しばし呆然と、何をして良いのか分からなそうにそれを見つめる。
「まずは、お礼」
「あ、はい! ありがとうございます!」
「か、感謝致しますわ!」
俺の言葉に反応して、慌てて礼をした二人だった。
「おう! じゃあ二人とも、頑張ってマスターみたいになれよ!」
「は、はい!」
「え、ええ」
イソトマの激励の声を受け、二人はそれぞれ返事をしていた。
フィルは緊張に声を裏返らせ、サリーはあからさまな苦笑いで。
というかサリー。随分と嫌そうだなお前。
と、そんな俺の心の声は知らずに、三人は軽く乾杯した。
グラスの位置が三人同じ高さなのも少し気になるが、それもおいおいだ。
そのあと、いつものごとくイソトマは、一気にその杯を飲み干してみせたのだった。
「くはぁ! なんだこれ、体に良さそうな一杯だなぁ!」
言葉の後の、説明を求めるようなイソトマの視線に、にこやかに答える。
「基本はトマトですからね。それに様々な魚介のエキスと調味料も入っておりますし、体に悪いとは思えません。ただ、どんな飲み物でも一気はあまりオススメしませんよ」
「俺ももったいないとは思うけどよ。マスターの作るのが美味いのがいけないんだぜ」
そう手放しに褒められて、悪い気はしない。
俺は飾らない笑顔で「ありがとうございます」と返したあと、そっと二人の様子を窺った。
見ると丁度、その二人もイソトマに倣うように、グラスを一気に飲み干したところだった。
……相手に合わせるのは悪い事ではないんだが、一気はやはりオススメしない。
しかし、その後、フィルの変化は大変顕著であった。
「イソトマさん。こちら、ご馳走様です」
「おう。頑張れよ!」
「はい! 精一杯頑張ります!」
俺が何を言うでもなく、フィルはごく自然にイソトマに再び礼を言っていた。
浮かべる表情は、先程までと打って変わって柔らかく、また、その頬が少しだけ血色良くなっている。
「ほら、サリーもしっかりとお礼を言う」
「わ、分かってるわよ」
そして、少しだけぽけっとしていたサリーを、促してもみせた。
その様子は、昨日のフィルの言動と一致するものでもあった。
俺は、なんとなくだけど、フィルの特性に心当たりができていた。
恐らくそうなのだ。
バーテンダーには、というか人間には必ずそういうタイプがいる。
「なぁ。フィル」
「はい、なんでしょうか総さん」
そのハキハキとした受け答えに、ますます確信を持ちながら俺は言った。
「フィルは、酒が入ると性格変わるタイプだろ?」
言われたフィルは、何を言っているのか少し分からなそうに首を傾げていた。
一人は、傍若無人の我がまま生意気少女。
一人は、酒が入らないとエンジンの掛からない少年。
俺はまた、最初から面白い組合せの弟子を取ってしまったものだと思った。




