【X.Y.Z】(1)
俺が店の鍵を開け、中に入る。
先程まで人が居たためまだ温かい。それでも、冬を間近に控えた今の季節だ。ゆっくりと、冷気は店の中に忍び込み始めている。
俺の後に続くかと思ったトライスだったが、一度完全に扉が閉まるのを待っていた。
そして扉の鐘をわざとらしく鳴らし、俺の顔をじっと見た。
「いらっしゃいませ、という声を聞きたいのだけど」
「……もう一回お願いできます?」
俺が言うと、彼女は頷いて扉を閉めた。
そして、先程と同じようにわざとらしく鐘を鳴らしながら扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
「……おぉ。ふふ。私、こういったお店、初めてなんですけどぉ?」
「……こちらへどうぞ」
なんだこの女、調子が狂うな。
俺は軽く苦言を呈したくなる。だが、彼女の俗っぽい笑みを見てその気が失せた。
トライスはそれまでの超然とした雰囲気を、がらりと一変させている。
人間と思えないような、酷く遠い存在みたいな雰囲気を持っていたかと思えば、今はまるで年頃の少女のようにコロコロと表情を動かしている。
俺はトライスを適当な席に座らせたのち、カウンターの中に入った。
彼女と隣あって座ろうという気にならなかった。
それをすることを心が拒むような、答えの見えない複雑な心境がそこにはあった。
「それで、あんたには聞きたいことが色々と──」
さっさと本題に入ろうと思った。
俺の周りにチラチラと現れる『白い髪の女』とは、お前のことなのかと、尋ねたかった。
ベルガモを唆し、この店に強盗に向かわせたのはお前なのか。
ギヌラに接触し、俺達の邪魔をさせようとしたのはお前なのか。
ポーション品評会で、手段さえも分からない窃盗を働いたのはお前なのか。
吸血鬼の双子を、ウチの店に向かわせたのはお前なのか。
そしてその追手をも、一緒に導いたのはお前なのか。
色々と吹き溜まった疑問と疑念をぶつけたかった。
「──待った」
しかし、そんな俺の言葉を、彼女は強制的な声で止めた。
「色々話したいと言うのは分かるけれど、君は『いらっしゃいませ』と言って、私を店に入れた。違うかい?」
「……そうだが、それが何か?」
「だったら、カウンターに座った『お客さん』に聞くことがあると、思わないかい?」
緊迫した空気を、満足に作らせる気はないようだ。
まるで俺一人だけが、この場に緊張を感じているようだった。
俺は大分毒気を抜かれている。ペースをこの女に握られているような気がする。
悔しいはずなのに、どこかそれを、心地よいと感じている気が、してしまう。
「……メニューはご覧になりますか?」
「いや、遠慮しよう。実はもう、決めてあるんだ」
仕方なくおしぼりを用意して手渡しつつ尋ねると、トライスはそう言った。
しかし、おかしいじゃないか。
この世界に存在しないはずの『カクテル』を、初めて来た人間が、メニューを見ずに注文するなんて。
「私は、今日という日をずっと待っていたんだ」
「……今日を?」
俺には、それがなんのことなのか、分からない。
だけど、それが恐らく彼女にとって大切なことなのだという、想像だけはできなくなかった。
「終わらない日常なんてない。そうは思わないかな?」
「……言っている意味がわかりません」
「日常っていうのはひどく特別で、ギリギリのバランスで保たれているんだよ。それがどんな奇跡的なことなのか、日常を無為に過ごしている限り気づきはしない。ふとしたきっかけで、あっさりと壊れてしまうまではね」
トライスの瞳は、綺麗に輝いていた。
とても悲しそうに見えた。
とても嬉しそうに見えた。
その二つの感情が入り交じって、不確かな、怪しい美しさを湛えていた。
「……すまないね。君には、分からないことかもね」
「……申し訳ありません」
「良いんだ。でも、私にとって今日は特別な日に、すると決めた。だから注文はこう」
トライスの言っている言葉は分からない。
それでも、彼女の注文は、とても、簡単なものだった。
「【X.Y.Z】を貰おうかな。私と、君の、二杯分で」
俺は「かしこまりました」と静かに応えて、準備をすぐに行った。
すでに洗浄を済ませていた器具を再度並べて、簡易的な作業場を作る。
この時間の注文だ。わざわざ真面目に準備することはない。
【X.Y.Z】の材料は、シンプルだ。
シンプルという説明を行うのもいい加減しつこいかもしれないが、そうなのだから仕方が無い。
ベースは『ラム』──『サラムポーション』。そして副材料として『ホワイトキュラソー』と『レモン』が選ばれる。
分量はそれぞれ、サラムが30ml、キュラソーとレモンが15mlずつ。
そう【ホワイト・レディ】や【バラライカ】と同じ、2:1:1の黄金比率である。
用意するグラスは、逆三角形でお馴染みのカクテルグラス。それらを二つ、取り出す。グラスを軽く拭いたら、片手で二つを持ちコールドテーブルの冷凍庫側を開ける。
氷とキンキンに冷えた『サラムポーション』を取り出してから、入れ替わるようにグラスを詰めて扉を閉めた。
冷蔵庫側からは『レモンジュース』の瓶を取り出す。それも台の上に置いて、残る『ホワイトキュラソー』──『コアントロー』もすぐにボトル棚から取り出した。
「良く集めたものだね」
俺の作業中に、トライスは声を漏らした。
返事を求めているのかと思ったが、彼女は独り言のように滔々と言葉を並べていく。
俺は、レモンの果実を切らず、レモンジュースだけで30mlを計りながら、その声を聞き流していた。
「最初は何もなかっただろう。この世界には『カクテル』も『バー』も存在しなかった。『酒』そのものすら、大したことはなかったはずだ」
材料を全てシェイカーに注ぎ終える。二人分なので分量はそれぞれ倍。60ml:30ml:30mlになる。
それらを軽く混ぜて味を見る。今となっては慣れ親しんだ、甘酸っぱい力強さだ。
「だというのに、君は良くやっていた。与えられた課題をこなし、必要なものを手に入れて、少しずつ『カクテル』を花開かせていった」
シェイカーに氷を詰めていく。
八分目まで満たされた氷が、常よりも量の多い液体の中で流氷のようにたゆたう。
それらを覆い隠すように、シェイカーの大きい蓋、ストレーナーと呼ばれる部分をまず被せた。
続いて、トップと呼ばれる小さな蓋も被せる。
「ついに今日、君は君自身の手を使わずに、この世界の『バー』を動かした。この何も無い世界に『カクテル』の文化が芽吹いたんだ」
俺は、きつく閉めるために、コールドテーブルの上に置いたおしぼりに、シェイカーを叩き付けた。
いつもはココンと軽い音だが、まな板ではないので、やや鈍った音がした。
俺がシェイクの体勢に入ったと見てか、トライスは口を閉ざし、俺の方に注目したのが分かった。
彼女に目を合わせることなく、横を向いてシェイクを始めた。
いつもより液体が多い分、初動は重い。
液体の動きに常より注意を払いつつ、手首を切る。
徐々に中の液体が俺に支配を委ねる。カコラン、カシャコラ……相変わらずピッタリの擬音が見当たらない氷の音が、二人だけの空間に響く。
左肘は動かさない、右肘の動きだけで、シェイカーを上下に揺さぶる。
手首を切り、肘を上げ、手首を切り、肘を下げる。
一連の動きは、体に覚え込ませている。
頭で何を考えていても、もしくは何も考えていなくても、俺の体は五感の全てを使ってカクテルを導いていく。
温度が、リズムが、音が、液体と固体が。
材料である酒達を、別の一つに作り替えていく。
その様子を伝えてくれる。
ゆったりと動きを鈍らせ、そして、最後の一振りでシェイクを終えた。
作業台にシェイカーを置いたら、すかさず冷凍庫を開けてグラスを取り出した。
二つ並べたグラスに、俺から見て右から液体を注ぐ。
これも体に覚え込ませた30mlを、それが済んだらすぐに隣に60ml、折り返して残りの30mlを注いで、おしまいだ。
ほんのりと薄く白く、そして力を感じる液体が、ユラユラとグラスの中で揺れていた。
一つをトライスに、もう一つを注文通り俺の前に置いた。
「お待たせしました。【X.Y.Z】です」
俺の言葉に、トライスは嬉しそうな顔をした。
相変わらず、どうしてそんなに無邪気な表情をしているのか理解ができない。
俺に『カクテル』を作ってもらうのを、とにかく楽しみにしていたみたいな、そんな表情を浮かべている。
「早く頂いてしまいたいけど、やっぱりその前にアレが必要だよね」
「アレ?」
トライスがグラスに手を伸ばしたのに合わせて俺もグラスを取ったところで、トライスが唐突に言った。
しかし俺は。彼女が酒を飲む前にする決まり事など……。
……ん?
どうして俺は、彼女が酒を飲む前にする決まり事があると、思った?
なんとなく。なんとなくそんな気がした。
そう。この女はこう言うのだ。
「それじゃ総。何か最近『良い事』は、あったかな?」
乾杯の前に、良い事を尋ねる。
それは、酒に対する感謝の気持ちだ。
酒にはそれぞれ、作った人間の思いが込められている。
あなたが作ったこのお酒は、こんな『良い事』のために飲まれました。
そうやって感謝することが、お酒を美味しくするために必要なこと。
そのときのお酒を、特別な美酒へと作り替える儀式。
聞いたわけじゃない。それでも、そういうことだと思った。
アイツは、そういう奴だった。
……アイツ?
アイツって、誰だ? 俺はさっきから、何を考えている?
なんだ?
いったい、俺はどうした?
どうして、この女を前にしていると、こんなにも思考があやふやになるんだ?
「総?」
トライスの心配そうな声で我に返った。
しかし、心配そうなのは声だけで、彼女はただ、俺の返事を待っている。
「……弟子が、ようやく独り立ちしたんだ。そんなに嬉しい事はない」
「そうだね。聞くまでもなかったかな」
トライスは言いつつ、グラスを構える。
そして、口上を並べながら静かに前に出した。
「このお店と、お酒の前途を祝して」
「……乾杯」
どうしてこの女に、そんなことを祝われているのか。
答えはまったく分からないまま、俺は彼女にグラスを合わせた。
そして、この正体不明の女が、どういった感想を漏らすのか。
ほんの少しだけ、期待してしまう自分が、居た。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
長々と続いてしまった三章幕間ですが、明後日の25日に三章幕間を完結するつもりです。
恐らく複数話更新になるかと思われますが、なるべく長くならないように気を付けたいと思います。
そこからほんの少し日数を開けて、四章はまた四章完結まで毎日更新していけたらと考えています。
あくまで努力目標ですので、いつものごとくお約束はできませんが……
四章以降の予定は、またその時に。
※0329 誤字修正しました。




