双子の試験(11)
長くなってしまったので、今回は二話更新です。
その一話目です。
「あ」
声と同時に、フィルがステアしていたグラスから氷が一つ零れ落ちる。落ちた氷はカウンターにカランと着地すると、そのままカウンターを滑った。
お客さんの視線が、氷の軌跡をなぞる。
少し不注意なミスだが、落ち着けばすぐに解決する問題だ。
だが、事態は更に悪化する。
「も、申し訳ありませ──っ」
「ちょっと──っ」
フィルは慌てて、コールドテーブルの上──まな板の両脇に置いてある濡れ布巾を手に取った。しかし、その上にはボトルが重なっていたらしい。
サリーの悲鳴にも似た短い声の直後に、ゴンという鈍い音が、外から見えないカウンターの内側から起こる。
その影響で、いくらかコールドテーブル上の器具達に影響が出たようだ。カランだのコツンだのいった音も連鎖的に発生していた。
とはいえ、大目に見れば、これも些細なミスと言えるだろう。
この程度で終われば。
「す、すみませんっ!」
その連鎖は、更にサリーに続く。
彼女は作業場をすぐに整理しようとしたのだろう。しかしタイミングが悪い。
フィルがうっかり、バースプーンを挿しっぱなしにしていた作業中のグラス。
そのスプーンにサリーの腕が引っかかり、グラスが横転した。
幸か不幸か、グラスはカウンター側へと倒れ、満たされていた透明の液体がスーっと板面に広がっていった。
その近くに座っていたお客さんは軽く驚いた声を上げ、荷物やグラスを持ち上げて退避させる。幸い、破砕はしていないのでお客さんが怪我をする心配はないだろう。
「ほ、本当にすみませんっ!」
「す、すぐに片付けますわ!」
二人は即座に頭を下げ、そのまま勢いで行動に移ろうとする。
しかし、焦っていた故に二人の動きはチグハグ。
反対方向へと同時に動き出そうとした結果、鈍い音が聞こえてきそうな勢いで、ぶつかった。
「ゔぅつぅ」
「だたぁ」
サリーは額を、フィルは鼻を押さえてうずくまる。
その光景を見ていた、俺を含めたカウンター席の人間は、ほとんどが見ていられなくて視線を逸らした。
しかし、そうでない、人種もいる。
「……あらまぁ。わが子ながら、無様なこと」
どちらかと言えばこの様子を楽しむ目で、俺の隣に新しく座った銀髪の女性が言葉を漏らしていた。
「……それで、どうして来たんです?」
事態が一段落するまで、カウンターの誰もが黙っていた。
それまで息の合った動きで、余裕すら見える営業を行っていた双子が、いまは明らかにギクシャクとしている。
その原因が、突然現れたこの女性であることは、火を見るよりも明らかだ。
なにをするにも、二人のバーテンダーがチラチラと様子を窺っているのだ。
自分たちと同じ銀髪の、その妖艶な女性を。
「どうしてって?」
「ですから、どうして今日、何の前触れも無く店に?」
俺は内心で警戒しながら、その銀髪の女性──ラスクイル・キリシュヴァッサーへと尋ねた。
しかし、相変わらずこの人は、読みにくい。
意味有りげな、それでいてなんの含みもなさそうな微笑を浮かべて言うのだ。
「あら。私は何か許可を取らなければ、このお店に来てはいけないのかしら?」
「……いえ、それに当てはまるのは一人だけ居ますが、ラスクイルさんは違いますね」
「それなら、良いじゃない。ダメ?」
俺の苦笑いすら、愛しいとでも言うように。
この女性は、世の男をまるごと虜にする、可憐な仕草で首を傾けた。
事実、俺達の様子をチラチラと窺っている中年連中が、揃いも揃ってガタガタと姿勢を正している音が聞こえた。
本当に、とんでもない美人だ。これで年齢が三桁だというのだから、ファンタジー世界は侮れない。
俺は内心の警戒を濃くしつつ、あくまで営業スマイルを崩す事無く畳み掛ける。
「ダメとは言いませんよ。ですが、事前に教えて頂ければ自分も接客に回りましたのに……実は今日はあの二人に初めて営業を任せた日です。なにぶんまだ不慣れですから、もう少し経験を積んだ頃に、二人もあなたに営業を見てもらいたいかと」
適当な言葉を選んで言ってはみたが。
本心を言えばこうだ。
『なに弟子の巣立ちの日に、前触れも無く現れてくれやがったんだ、この美人が』
まぁ、俺の心くらいこの人ならば平気で読んでくるかもしれない。
この人には俺の会話技術はあまり意味をなさない。それだけ、生きてきた、時代と環境が違うのだろうから。
俺のスマイルに何を思ったのかは知らないが。
ようやくラスクイルは核心的なことを言ってくれたのだった。
「それじゃつまらないじゃない。せっかく初めてが今日だと聞いたから、何の許可も取らずにお忍びで遊びに来たのに」
なに考えてんだこの自己中美人は。
どこかで情報を仕入れて、狙い撃ちで今日来たというわけだ。
俺は僅かに目を細めて、少しだけ強い言葉で言ってみる。
「冷やかしですか?」
「愛情でしてよ」
愛情という言葉もきっと間違いではないのだろう。
だが、それ以上に『子供の成長と失敗をこの目で楽しみたい』と、雰囲気が告げている。
というか何の許可も取ってないって、また外交問題の危機ってことかこれ。
ヴィオラと領主様と、この人の執事のトリアスが、また頭を抱えることになる。
「それに、あなたとこちら側で飲んでみたいとも思っていたのよ。バーテンダーさん」
「はい?」
せめて何の問題も起こさずに帰ってくれますように、と念じていたから素の反応をしてしまった。
彼女はそれまでの妖艶な表情を僅かに緩めて、少しだけ真剣な顔をする。
「以前はゆっくりとお話もできませんでしたから。子供達のことも、あなたの口から詳しく聞いてみたいわ」
そう答えたのは、さっきまでわが子の失敗を楽しんでいた女性とは思えない。
純粋に、子供達とその周囲を案ずる、一人の母親に思えた。
「……良くやってくれてますよ。あなたが来てから緊張しっぱなしですけど、もう二人だけでもこうやって働けるくらいです……な?」
俺はもう片方の隣に座っている、スイに同意を求める。
彼女は先程からラスクイルに警戒の目を向けていたが、俺の言葉に、いつもより饒舌に反応をする。
「そう。二人とももう立派なバーテンダー。あなたが心配することはない」
オーナーと店長の、強い主張だ。
カラン、と氷の音がした。
見ると、フィルが作り直している【ジン・トニック】の中で、バースプーンが僅かに狂ったらしい。スプーンの背を、グラスにぶつけてしまったのだろう。
しかし、今度はそれだけ。
俺達の信頼に応えるように、彼はそれ以上慌てることもなく、静かに作業を終えた。
しかし、自分でそのグラスをこちらに持ってくるのを躊躇う。
以前母親に飲ませたときの酷評が、脳裏を過ったのだろう。
「フィル君っ! 私達も注文お願い!」
その逡巡の間に、フィルのことを気に入っている女性達から声がかかる。
フィルは「はい、ただいま!」と答えた後、もう一人のバーテンダーに助けを乞う。
「……サリー」
「……仕方ないわねぇ」
結局、フィルはすぐに他からの注文に取りかかった。
そして、フィルが作ったカクテルは、サリーに運ばれてこちらへと向かってくるようだ。
その光景に、やっぱり少しだけ呆れてしまうが、それでも、どうだという気持ちで俺はラスクイルに視線を向けた。
彼らも、今は立派に成長しているのだと。
しかし彼女は、そうじゃないわ、と首を振る。
「別に仕事の心配をしているわけじゃないのよ」
「……はい?」
仕事の心配をしていないのなら、いったい何の話をして欲しいというのか。
俺の疑問に、目の前の美人が面白そうに唇をつり上げる。
「だって二人とも下の方が未経験でしょう? 先輩のあなたに手取り足取り──ナニ取り教えて貰って、ちゃんとヤレてるかしらと」
ガシャン。
ガシャン。
ガタン。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
俺の視界外から、三つの音がした。
振り返れば、すぐに何の音か分かる。
一つは、自分の母親に持って来ていたグラスを盛大に落として割ったサリーから。
一つは、作業中のグラスを将棋倒しにしたフィルから。
そして最後の一つは、椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がったスイからだ。
「……あら? 夜のお仕事を教えて貰うっていうのは、そういう意味じゃないのかしら?」
言いつつ、もの凄く面白そうな顔をしているラスクイル。
それに最初に食って掛かったのは、顔を真っ赤にしたスイだった。
「う、ウチの店は健全な店ですから! そういういかがわしいお店と一緒にしないでください!」
「あらあら。その慌てぶり。まるで健全じゃないことに興味があるみたいね。お嬢さんったら、うふふ」
「なっ!? そ、そんなんじゃないもん!」
また口調が変わっているぞスイ。
そんなスイは、うーとかむーとか唸りながら、悔しそうに呻いて俯いてしまう。
酔っているせいか、いつもよりも大分頭の回転が悪いらしい。理路整然とした反論が浮かんでこないようだ。
それは論点のすり替えだ、くらい言ってやれば良いのに。
と、スイがやり込められているうちに、落としたグラスにも構わずサリーが吠える。
「そんなの関係ないじゃない! だいたい、私を母様みたいな貞操観念の緩いビッ◯と一緒にしないでくださる!?」
「そんなこと言って、本当は自分に自信がないサリーちゃんだもの。実は、このバーテンダーさんにまったく見向きもされなくて、凹んでたりするんじゃないのぉ?」
「なっ、だ、誰が総さんなんか! ち、違いますわよ!」
誰が『なんか』だこのやろう。
と思っている俺だが、下手に突っ込むと事態を悪化させかねないので何も言わない。
もっともそれ以上に、一応今はまだ客なので、もうしばらくは黙っているつもりだ。
というか、既に彼女らは店で大声を出さないとか、そういったことを忘れているのではないか?
最後に、その二人よりも顔を真っ赤にしたフィルが叫んだ。
「というか何で僕まで一緒なんですか! 男同士じゃないですか!」
「……性別なんて、関係あるの?」
「関係ありますよ! ありますよね!?」
だからフィル、変なタイミングで俺を見るのはやめろ。
ついでに、カウンター向こうのお姉さま方も、俺を睨むのはやめてください。
というか、男同士なら夜遊びの話だろ。どうして俺とお前の話になるんだよ。
俺はふぅ、と一つ息を吐いてからゆっくりと答える。
「あるに決まってるだろ。いや、そういう思想を否定するつもりはないが、俺は基本的に異性愛主義者だ」
「でしたら今夜とか、どうかしら?」
「お母さん。話をややこしくするだけして、こっちに振るのはやめて貰えませんか?」
うふふ……ともの凄く楽しげな笑みを浮かべているラスクイルに、俺は怒りを通り越してあきれ果てていた。
やっぱり、わざとだ。
この女性の先程からの発言に、本気など一つもない。
この吸血鬼の女王は、とりあえず自分が楽しむためだけに、この場を引っ掻き回しているにすぎない。
スイをからかい、サリーをからかい、フィルをからかい。
それによって起きる混乱を、どう収めようとするのか。
子供達と、俺を試している。
なんつう自己中だ。
そして、そんな遊びを許してしまうとは、なんて情けないバーテンダー達であろうか。
もちろん、俺も含めてだ。
「総!? まさか乗ったりしないよね!?」
「や、やめてください! 母様とあなたがなんて考えたくありませんわ!」
「総さん! その、いくら母様が美人でも、その人は!」
方々から声がかけられ、店中の視線も、なんだなんだと集まっている。
カウンターのお客さんは、それでも楽しんでいるみたいだから、まだ良い。
テーブル席のお客さんは、こちらを怪訝な表情で見ている。
とりあえず、後で怒るし、怒られる……な。
それを覚悟で、やるしかない。
俺は椅子から立ち上がり、大きく息を吸った。
「うるっせえんだよ! 黙れ落ち着け! そして仕事に戻れ営業中だ! サリーはさっさと掃除しろ! フィルは注文に取りかかれ! スイは座れ!」
店内に響くような大声で、
冷や汗を内心でダラダラと垂れ流しながら、
俺はまず、店側の三人に指示を飛ばした。
※0329 表現を少し修正しました。




