変な夢(9)
遅くなりました。その分、長いです。
申し訳ありません……
白州と言えば、イメージとして浮かぶのは爽やかな緑色のボトルだろうか。
ボトルの色合いは、味そのものを想像させるのに大きな役割を持つと言っても良い。
白州の、というよりはジャパニーズウィスキーの特徴は、なんといっても飲みやすさにあると思う。
特にこの白州は、そんなジャパニーズウィスキーを存分に感じられる銘柄に思えた。
色合いはかなり薄い。これは熟成年数によるものだろうが、それでも白州の色合いは薄い気がする。茶色とはほど遠い、仄かなハチミツ色だ。
香りはとてもフルーティで、口当たりはとにかく軽い。
その一口目で、飲むもの全てを受け入れるような、そんな懐の深さを感じさせる。
しかし、そこから口の中に広がっていく味は、決して軽いだけではない。
存在感を主張する麦の甘さとスパイシーさ。それらが広がりきったあとに来るのは、泥炭特有の、控えめな煙のような風味である。
それらを感じたあと、ごくりと液体を呑み下すと、その心地よい煙っぽさと、鼻を抜けて行く爽やかな香味が混ざり合う。
それはまるで、深い森林の中で大きく深呼吸するような、生き生きとした植物の緑を感じさせるような瞬間であった。
「くはぁ。やっぱり白州は良いねえ」
俺の目の前で同じようにロックで飲んでいた伊吹が、おっさんみたいな感想を漏らしていた。
ついでにその視線の先に、俺の家にもとからあった、同じくサントリーの角瓶があるのだが、俺の考え過ぎだろうか。
「そうそう。ジャパニーズウィスキーの誕生といえば、やっぱり鳥井信治郎氏と竹鶴政孝氏は外せないよね」
「誰もそんな話はしてないし、それは耳にたこが出来るくらい聞いたっての」
鳥井信治郎氏と竹鶴政孝氏は、共にジャパニーズウィスキーの誕生に深く関わっている人物だ。
かいつまんで説明すると、鳥井氏は当時の日本で大きな酒類会社を経営していた。しかし、氏の会社ではウィスキー開発に関して様々な壁があった。
そのときに、ウィスキーの本場イギリスで技術を学んだ竹鶴政孝氏と二人で、ウィスキーに馴染みの少ない日本でウィスキーの開発に励んだという話である。
このあたりの話は、それだけで本が何冊も書けてしまう分量になるので、詳しく説明することは難しい。
その当時の試行錯誤の結果として今のジャパニーズウィスキーがあるというだけで、俺には十分だ。
まさか俺が、ウィスキーの無い土地で一からウィスキーを作るなんてことに、なるわけないのだし。
とにかく、ジャパニーズウィスキーは、イギリスのスコッチウィスキーを元に作られた。
だが、そのスコッチの特徴である、ピート香が日本ではネックであったとか。
ピート香とは、泥炭と呼ばれる、植物が長い年月をかけて堆積して出来た燃料を使って、原料である大麦麦芽を乾燥させる際に付く香りのことである。
それはまさしく煙のような風味であり、ウィスキーを表現するときに『スモーキー』と言われる原因は、大体これである。
そしてその香りは、当時ウィスキーに馴染みの薄い日本では受け入れ難いものであった。
試行錯誤の末、そのピート香が控えめで、軽い飲み口のジャパニーズウィスキーが洗練されていったらしい。
「うんうん。やっぱり、このまま飲んでも凄く美味しいよね」
「欲を言えば、十二年とか十八年とかが飲んでみたかったけど」
「いくらか知ってて言ってるよね? 君?」
俺のぽろりと漏らした言葉に、伊吹が呆れながら返していた。
何かと言えば、白州は高い。
俺達が今飲んでいる──ラベルに『白州』とだけ書かれたボトル。この一番安いボトルですらクリスマスの時に飲んだ、ターキーのレアブリードよりも高い。
定価で4,200円である。
それが十二年になると倍。8,500円にもなる。
これは、俺が買おうと思っていたゲームソフトよりも高額である。伊吹の経済事情は知らないが、流石の彼女でもポンポンと買うのは躊躇われる金額であるようだ。
「でも、やっぱり値段に見合った味がするよ、ホント」
「おい。だから俺の家の角瓶を見ながら言うのはやめろ。同じサントリーだろ」
「別に不味いとは言って無いじゃない。ゲームやりながら飲むには角瓶くらいが丁度良いと思うよ」
「それは、俺のプレイングは酒を飲みながら見るくらいが丁度良いという意味か」
俺が少しだけ苛立ち気味に言ってみると、伊吹はちゃうちゃう、と首を振っていた。
「もっと身近な存在ってこと。お酒とお酒様の違いみたいな? 角瓶は身近な神様だけど、白州は特別な時にお参りする神様みたいな」
「その宗教はお前だけで完結してくれ」
「なんだよぉ。寂しいこと言うなよぉ。お姉さんと一緒に崇めようぞ」
「だから俺を巻き込むなって」
ハハーとわざとらしい動作をしている伊吹を尻目に、俺はもう一口を含む。
氷が溶けることで、味わいは甘みを増し、より一層の飲みやすさを獲得している。
本当に、値段さえ気にしなければ、いくらでもグイグイいってしまいそうな美味しさである。
「おっと、飲みすぎちゃダメだよ?」
「分かってるって」
「いや分かってない。私が言いたいことは別にあるの。白州と言ったら、せっかくだからあの飲み方も試さないとだめでしょう?」
言って俺に待ったをかけた伊吹は、やや勢いをつけてこたつから出ると、そのまま勝手知ったる様子で俺の家の冷蔵庫を開ける。
ついでに、勝手に冷蔵庫を開けるなというやり取りは、とっくのとうに通り越した。
俺が諦めた後は、彼女の勝手で食材だのなんだのが好き放題放り込まれている。
誰の家だよ、まったく。
「さてさて、これですよこれ」
思っていると、伊吹は目当てのものと一緒に、氷を入れた細長いグラスを一緒に持って来た。
「とくとご覧あれ」
言いながら、彼女がこたつ机の上に置いたのは、ペットボトルのソーダと、ミントのパックであった。
それを見ていると、ふと公式で推奨している飲み方があったなと思い出した。
「さて、やってみましょうか。白州で作る【森香るハイボール】を」
【ハイボール】とは、もの凄く簡単に言ってしまえば酒の炭酸割りのことだ。
広義では、酒どころか、ジュースだろうと元になるものは何でも良くて、それをソーダなりトニックなりで割ったものを指すらしい。
だが、基本的に【ハイボール】と言えば、ウィスキーのソーダ割りのことを指す。
そして『白州』に限っては、そこに一手間加えたものを【森香るハイボール】という名前を付けて売り出しているのだった。
「作り方はとっても簡単。まず普通に【ハイボール】を作ります」
言いながら、伊吹は慣れた手つきで作業を進めていた。
氷を入れた細長いグラスに、目分量で白州を注ぐ。注いだら、一度氷ごとグラスの中身をマドラーでかき混ぜる。
それにどんな意味があるのかと問えば、氷を濡らしてソーダと当たった時に炭酸が抜ける量を減らすのがひとつ。
もうひとつは、氷を使って液体とグラスを冷やし、これまた炭酸への刺激を抑えるのが目的であるらしい。
その作業が終わると、ペットボトルの蓋を開け、氷の隙間を縫うようにソーダを注いでいった。
みるみるうちにグラスの内側が満たされたところで、伊吹はマドラーで氷を一度持ち上げるようにして、中身を混ぜ合わせた。
「さて、これで普通の【ハイボール】なら完成でも良いわけですが、ここにもう一手間を加えます」
「レモンですね、分かります」
「しゃらっぷ。それもまぁ【ハイボール】の作り方ではありますが、今回は森香るのです」
俺のからかいにビシッと苦言を呈したあとに、彼女は持って来ていたもう一つの材料、ミントの葉を一つ取り出す。
「ここでミントを叩きます」
手のひらをお椀状にして、両手を素早く合わせる。
パンではなくポンという音が響く。
それでは、ミントの葉を叩いたとは言えないのではないだろうか。
「手で潰すんじゃなくて、風圧で潰すわけね」
「なるほど、説明ありがとう」
言った後に、伊吹はそっとそのミントを氷に乗せるように、中へと落とした。
先程よりも薄いハチミツ色の、いやむしろ薄い黄緑にすら見える液体の上に乗ったミントの、爽やかな緑が映える。
その出来に満足したかのようにうんうんと頷いたあと、
「お待たせ。こちらが【森香るハイボール】です」
伊吹はどこかの店員のように慇懃にグラスを俺に差し出した。
「俺が最初に飲むのか?」
「そうですともお客様」
「…………」
誰がお客様だ、と心で突っ込みつつ、俺は彼女が差し出したグラスを手に取った。
口元まで持ってくれば、鼻先にふわりと香るミント。
単純に考えれば、これではウィスキーの香りを殺してしまいそうだが、そうではない。
白州から香る爽やかな香味に混ざり合って、独特の、先程にも増して森の中にいるような爽やかな香りへと変貌を遂げている。
その香りを堪能しつつ、俺は液体を含む。
広がる。白州の個性が、炭酸で弾けて口一杯に広がって行く。
ライトな口当たりは、炭酸との相性も良く、そのまま刺激的に口の中で弾けては消え、弾けては広がる。
白州は風味の無差別テロを引き起こしながら、ゆっくりとその勢力を広げて行く。
ストレートやロック、トワイスアップなどにはない、絶妙な炭酸の刺激は、口中を蹂躙してそこをウィスキーの味わいに染め上げるのだ。
樽の熟成感や、ピートの味わいは感じ辛くはなる。
だがそれにも増して、爽やかな甘さや、爽快感がたまらない。
喉元を過ぎて行くころには、まろやかな後味が残る。
個人的な印象で言えば、ロックで飲んだ時の白州は、静かな光が差す深い緑の森の中。
対して【森香るハイボール】の白州は、木漏れ日が所々漏れ、穏やかな風が通り抜けて行く暖かな森の中といった感じだ。
それらを見事に演出しているのは、白州とソーダの相性の良さと、一手間として加えられたミントの爽やかな香りなのだろう。
「どうですかお客様?」
俺は無意識に顔を綻ばせていたようで、いかにも感想が気になりますと言いたげな伊吹が、キラキラとした目で俺を見ていた。
「例えるなら、特に狩猟対象の居ない採取系のクエストで、のんびりと森でキノコを──」
「やめて。ゲームで例えるのやめて」
俺が精一杯の賛辞を贈ろうとしたのに、普通に止められた。
俺は少し悩んだ後、ぴったりの表現を見つけたつもりになって言った。
「俺はマイナスイオンうんたらとかは信じる気がないけど。この一杯のリラックス効果なら信じても良い」
「すんごい分かり難いけど、森林浴みたいな感じで癒されるってことかな?」
「……そんな感じ」
伊吹は俺の例えに難色を示すが、ふむふむと満足げに頷いていた。
「んじゃ、私も一口貰いっと」
そして、俺が口を付けたグラスであろうと、なんの遠慮もせずに飲んだ。
直後に、んー、と目を閉じて唸ったあと、幸せそうな顔で感想を漏らす。
「これがデトックス効果……」
「お前も俺と似た様なこと言ってるじゃないか」
仮にその効果があるのだとしても、体内に液体を取り込んだだけで排出していないので、効果があるわけがない。
「良いねぇ。一粒で何度でも美味しいです、白州」
「まったくだ。これで値段が今の半分だったら、毎日飲むな」
「毎日は止めなよ。体に悪いし」
俺がやや大袈裟なことを言うと、伊吹は少しだけ真剣な声音で諌めた。
その顔が、少し怖いくらいに見えたので、俺はおどけて返す。
「冗談だって。流石に俺も、明日に一限がある日は控えてるから」
「それって、一限なかったら毎日飲むってこと? 感心しないよ」
伊吹の鋭い声に、俺は少しびくりとした。
正直言って、ここ最近春休みに入ってから、毎日飲んでいた俺である。
そういうのは体に悪いとは思いつつも、ついつい飲んでしまうのだ。
そんな俺の答弁に、伊吹は心配そうに俺を睨み、呆れるような声音で言った。
「はぁ、これはあれかな? 私が毎日ここに来て、総の休肝日も作ってあげないといけないのかな? 世話が焼けるなぁ」
「……やめろよ。そもそもお前が美味い酒をいちいち持ってくるせいでもあるんだぞ」
「お酒と、総の意志力の低さに関係はありません」
さりげなく責任転嫁しようとしても、伊吹はやんわりと否定した。
「とにかく! こうしよう。総は私が居る時以外はお酒を飲まない。その代わり私はちょいちょい来て上げる。分かった?」
「……ぶっちゃけ迷惑──」
「分かった!?」
ぐいっと顔を近づけてくる伊吹。
正直言えば、そんな無茶苦茶な言い分に従う理由はこれっぽっちもない。
これっぽっちも無いのだが、頷かないと彼女は納得しなさそうに見えた。
「分かったって。飲み過ぎるのはお前の前だけにするから」
「なんかそれ分かってない気がするなぁ。お姉さん心配ですよ」
「これでも一応成人してるんだから、そんなに心配するなって」
「成人と、精神が子供かどうかに関連性はありません」
伊吹はこんなときだけ、少し年上ぶって言うのだ。
俺はハイハイと降参の構えを示し、彼女に言った。
「分かったよ。飲みたいときは、呼べば良いんだろ?」
「……め、珍しく分かってるじゃないですか」
結局そういうことなのだった。
こんなに入り浸っているくせに、彼女は少し心配だったのだろう。
自分が俺に会いにくることはあっても、俺に呼ばれてくるというのがほとんど無いのが。
「……俺だって、イヤだったら、入れないっての」
俺がぼそりと言うと、伊吹は驚いたように少し固まる。
そのあと、頬をにんまりと緩ませて、催促してくる。
「……総くん。さっきのもう一回言って」
「……やだ」
「えー。お姉さん、ちょっとだけきゅんと来たんだけどなぁ。へたれの総くんのがんばりに」
「へたれ言うな」
俺は、もう一度言うのがどうしても嫌で、そっぽを向いた。
伊吹は、そんな俺の様子に、ふふふと声を漏らしていた。
「楽しみだね。来週の旅行」
「……そうだな」
別になんの変化があったわけでもないのに、伊吹はとても楽しそうだった。
【森香るハイボール】が、風に煽られでもしたかのように、カランと音を立てる。
それ以外に、何も変化のない、そんな時間だった。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
一話に二杯分の感想を入れるのは欲張りすぎました。
ちょっと、今日はこのあとに感想返しができなさそうなので、明日か明後日に感想返しさせていただきます。すみません。
誤字は訂正させていただきました。
※0212 誤字修正しました。
※0213 ざっくりとだけ、ジャパニーズの来歴について修正しました。
※1123 表現を少し修正しました。




