魔法の言葉
「氷を詰めすぎた弊害は、大きく三つだな」
俺は、作業が終わってから冷蔵庫にしまっておいた、トニックウォーターを取り出してから言った。
「まず一つ目、というかこれがある意味全てにも繋がることだ」
「……それはなんですか?」
「炭酸の抜け、だな」
言われたフィルは、俺と自分のグラスの、泡の違いに理解が言った様子だ。
ベルガモ達が口にした『弱い』という感想。
その一つの要因を担っていたのは『炭酸の弱さ』であったはずだ。
【ジン・トニック】は、炭酸を使ったカクテルだ。
単純に炭酸が強い方が美味い、などと言うつもりはまったくない。
だが、疲れて水分を欲している喉に、爽やかな爽快感を与える炭酸だ。
今の審査員たちにしてみれば、その強弱は味の感想に直結しておかしくない。
「氷が多いと、その分だけ液体が氷と接する面積が増えてしまう。加えてこの炭酸飲料ってやつは、かなり強引に炭酸を液体に溶け込ませているんだ。それらはちょっとした刺激ですぐに抜けていってしまうんだが、その刺激の一つに『氷と直に接する』というものがある」
「……つまり?」
「氷が多ければ多いほど、炭酸は抜けやすくなるってことだな」
もっとも、この決めつけた発言には少しだけ語弊がある。
炭酸が抜ける直接の原因は氷ではなく、氷の表面のでこぼこにあるらしいのだ。
一度氷を濡らすとか、液体を丁寧に入れることでも、刺激が弱くなる。
また、技術があれば、炭酸が抜ける量を減らすことも出来る。
とはいえ、氷が多いほど炭酸が抜けやすい、は的外れという程ではない。
「そして二つ目は、単純だな。氷が多いと、隙間がなくなるから、作業がし辛くなる。バースプーンが入りにくくなるって言ったら分りやすいかな?」
「……はい」
「ぎっちり氷が詰まってると、液体が入るスペースもなくなるし、道具を入れる範囲も狭くなる。で、作業がし辛くなると、当然無駄な動作が入るし、作業自体にも時間がかかる。そういった無駄も積み重なると大きな影響を与えるんだ」
少し考えてみれば分かることだ。
氷が詰まっているなら、それだけ隙間が少なくなる。
それは、作業で使うバースプーンの入る隙間にも関わってくる話だ。
フィルはその作業に四苦八苦していた。
ぎっしりと詰めた氷の層は、バースプーンの侵入を拒む。そうなると、多少強引な力を加えたり、何度も挑戦しなければ、道具はグラスの底に辿り着けない。
それがどういった弊害を生むのか。
余計な動きが増えるほど、液体への刺激は増える。それによって、炭酸は抜けるし、時間は掛かるし、繊細さをどんどんと壊していくことになるのだ。
「この辺は技術である程度はカバーできるにせよ、入らないものはどうしようもない。臨機応変にスプーン側でなくフォーク側を使うとかもあるけど、この場合は仕方ない」
「……はい」
「とはいえ、それだけだとまだ全ては説明できてない。最後にもう一つ、氷を入れすぎた弊害があるんだ」
俺は、もう一度、フィルと俺のグラスを差した。
「さっき自分でも言ったよな? この二つのグラスでは氷の量が『同じくらい』だって」
「え、そうですね」
「でも、おかしいだろ? そっちの方がたくさん氷を入れたのに『同じくらい』だなんてな」
「あっ」
フィルの表情がその事実に気付いたあと、俺は穏やかに言った。
「これは二つ目にも関わってくるところだが、三つ目だ。氷が多ければ多いほど、氷が溶ける量が増える。これがどういう意味か分かるか?」
「……カクテルに、材料以外のものが混じる?」
「そうだ。氷が溶けた分だけ、カクテルには『水』という要素が混じる。それが、全体の味を少しずつぼやけさせるんだ」
それが、最後にして最大の要素だ。
フィルのカクテルが『弱い』のは、材料に大量の水が混じっているからだ。
そもそも、カクテルになぜ氷を入れるのか。
その最大の理由は『液体の冷たさを保つ』ことにある。
今回の材料で言えば、
まず、基酒となる『ジン』──『ジーニ』はマイナス二十℃前後。そして『トニック』は四℃前後だ。
そして、それは時間経過とともに、どんどんと室温に近づいていく。
それを緩めるのが、氷の役割だ。
個人差はあるが、人間の舌は、だいたい六℃から十二℃くらいの温度の飲み物を美味しいと感じると言われている。
氷は、時間経過とともに温度がその範囲から外れてしまうのを防ぐ役割を持つのだ。
だが、氷は存在しているだけで温度を下げるわけではない。
零℃を越える飲み物の中にあっては、少しずつ溶け出して水に変わってしまうのだ。
「カクテルを作る際に時間をかけない、というのは、その氷をいかに溶かさないか、という意味でもあってな。フィルは作業が丁寧だったから、時間がかかったし、少し作業も余分だった。その結果多くの氷が溶けて、より水っぽくなってしまったわけだ」
その点は、二つ目の理由で述べたことも関わっている。
作業がやりにくいと、どうしても時間がかかってしまうし、その分、氷が溶ける量は増える。
だが、さらに単純な点として、氷は表面積が広いほど、溶けるのが早いのだ。
バーで供される『丸氷』というものがある。
ロックで飲むときに良く使う氷だが、これがどんな意味を持つか。
それは、氷が液体に接する面を小さくして、できるだけ溶ける量を減らすというものだ。
もちろん、液体に接する面を極限まで小さくしようと思えば他にも色々な形はある。だが、見た目の面からでも『丸氷』というのは美しい。
バーでロックグラスに咲く、花のような存在だ。
普通の氷で飲むのを否定するつもりはないが、丸氷を使うのはそういう意味もある。
話が逸れたが、氷の表面積の話だ。
フィルは今回、小さな氷から大きな氷まで使って、几帳面に空間を詰めていった。
その分、液体に触れる氷の面積は増し、結果として氷が溶ける機会を多く作ってしまった。
加えて、作業にも時間がかかり、几帳面にきっちりと混ぜようとしたおかげで、刺激も与えすぎた。
それらは、炭酸と氷、双方に大きな影響を与えることになる。
「氷そのものの量、作業の効率、そして作業の量の過分。この辺が積み重なって、フィルのカクテルは『炭酸の抜けた水っぽいカクテル』になってしまったわけだ。だから、少しだけ『弱い』って印象を受けたんだな」
俺がまとめるように、フィルのカクテルを結論づけた。
ここまで言うと、フィルも少し傷ついた様子で、ちょっと涙目になっていた。
いかん。仕方なく指摘している筈だったのに、少し熱くなりすぎたか。
「ああ、フィル。別に怒ってるわけじゃない。むしろ良くやったもんだと思う」
「……本当ですか?」
「もちろんだ。さっき指摘したあたりなんて、ほとんどは経験──技術の話だ。初めての人間に期待するところじゃないし、いくらでも改善できるところだ」
ましてや、フィルは間違った技術を身につけているわけではないのだ。
できないのが当たり前の中で、それなりに出来てしまっている。
そこを褒めこそすれ、怒る理由など見当たらない。
だと言うのに、フィルは上手くできなかった自分を──失敗してしまった自分を責めているように見えた。
俺は少しだけ悩み、行動する。
「だから凹むなぁー」
「わっわっわ」
俺はサリーにもやったように、今度はフィルの頭をがしがしと撫でた。
「フィルもサリーに負けない才能がある。俺が保証する」
「……あ、ありがとうございます」
フィルもまた、戸惑いこそすれ俺の手を拒むことはなかった。
しかし、素直に言葉を受け止めつつも、その表情はやはり暗いままだ。
俺は、フィルを撫でるのをやめて、はぁ、と少しだけため息を吐いた。
まったくこの兄妹は、変なところだけ似ているんだから。
「とにかく。二人とも気にするな。今日の失敗は当たり前。出来るのがおかしい。それにも関わらず、二人とも出来すぎたくらいだ。ここから先に行きたかったら練習あるのみ、分かったか!」
俺は二人に意図して大きな声をかける。
だが、二人は曖昧に返事をし、しょんぼりした態度を崩さない。
そのうじうじした兄妹に、俺はほんの少しだけ、苛ついた。
あー。なんだか、この光景はデジャブだなぁ。
俺が昔、先輩にカクテルを飲んでもらって不味いと言われたときを思い出す。
……先輩、あの時はこんな気持ちだったのか。
「あー、ちょっと二人とも、そこに並べ」
「え?」
「は、はい」
俺は二人に声をかけ、カウンターに沿うように縦に並べた。
そしてその顔を、カウンターに座って俺たちのやり取りを見ていた三人に向けさせる。
ベルガモもイベリスも、そしてコルシカも、これから何が始まるのか分からずきょとんとした表情を浮かべている。
対する兄妹は、まだ先程の指摘を引きずって、沈んだ顔をしているのだ。
「さて、ここには今、身内とはいえ、お前等のカクテルを飲んだお客様がいるわけだ。そんなお客様の前で、お前等はいつまで沈んだ顔をしてるんだ?」
俺は二人を諭すように、尋ねた。
瞬間、フィルは俺の言いたいことを察したように、表情を改めて、笑顔を見せた。
「……なるほど。それもバーテンダーの作る『カクテル』の一部なんですね?」
「そういうこと」
この辺り、フィルが察するのは早い。
だが、自分に正直な面の大きいサリーは、俺に疑問の目を投げていた。
その意味が、分からないと。
「どういうことですの?」
「カクテルの味を最後に左右するのは『バーテンダー自身』だってことだ」
俺はここで、昔先輩に言われた言葉を、思い出す。
そのまま流用するわけではないが、その意志をそのまま告げた。
「バーテンダーをやってれば、何回も何十回も、何百回も何千回もカクテルを作ってお客さんに出すことになる。そのとき、お客さんが最初に見るのは、カクテルの味でも色でも香りでもない」
「……? じゃあなんですの?」
「バーテンダーの顔だ」
そこまで言われて、サリーもなんとなく俺の言いたいことを察した様子だった。
だが俺は構わずにその先を言う。
「出した本人が自信満々でなくてどうするんだ。『これ、美味しいかどうか分からないですけど』って出されたカクテルより『これ、美味しいですよ』って出されたカクテルのが、美味しく飲めるに決まってるだろ」
「そんなの、精神論では?」
「もちろんそうだ。だけどな、気分ってのは味を左右するんだよ」
カクテルの味を決めるのは、技術だったり材料だったりと、色々だ。
だが、それを飲むお客さんの心を決めるのは、その場の雰囲気と、バーテンダー自身だ。
「緊張してても良い。不安でも良い。迷いがあっても、物足りなくても良い。それでも、カクテルを出したバーテンダーは自信を持て。俺が昔教わった魔法の言葉を教えてやる」
俺がへこたれていたとき、先輩に教わった言葉。
その言葉を胸に、どんな時でも俺は自信を持って来れた。
そう言い聞かせて、前に進んで来たのだ。
「出来立てのカクテルは、世界で一番美味しいカクテルだ。今、その瞬間だけは最高のカクテルだ。だから、自信を持て」
それが、カクテルを少しでも美味しくする、魔法の言葉だった。
不味いと言われることなんて、たくさんある。
これは【マティーニ】じゃないとか、こんな【ギムレット】は認めないとか、散々言われたことだ。
それでも、俺は精一杯の胸を張り続けた。
今はそれが、一番美味しいカクテルだと。
そして次は、もっと美味しいカクテルを作ってみせると。
「だから手始めに、笑顔を見せろ。バーテンダーがそんな顔してたら、カクテルが不味くなるだろ」
「…………はい!」
言われて、サリーもようやく笑顔を見せた。
強張っていて、少しだけ悔しそうで、不格好だけど。
それでも、精一杯に笑ってみせた。
俺はその意地っ張りな笑顔に、作らない笑みでうんと頷いた。
「というわけで、フィルもサリーも、技術は俺がきっちりと教えてやる。だから、お客さんの前で変な顔するなよ」
「はい」
「分かりましたわ」
その二人の言葉に、俺は少しだけ満足する。
そして、師匠として最後の責任を果たすことにした。
「じゃ、これ、貰うな」
声をかけて、俺はまずフィルの作った【ジン・トニック】に手を伸ばす。
そして、それを一気に呷った。
なるほど、確かに弱いし氷も溶けているが、バランスの良い出来映えだ。
「うん、美味い」
「……は、はい!」
「じゃ、これもな」
続けて、サリーの作った【ジン・トニック】も、同様にした。
少しだけ、エグい印象は拭えないが、勢いで飲めばトニックの炭酸はそれを流してくれる。決して飲めないことはないのだ。
「おう、美味いぞ」
「……べ、別にお世辞なんていりませんわ!」
言いつつ、サリーは少しだけ嬉しそうに表情を歪めて、必死にそっぽを向いていた。
さて、一気に飲んだ影響で少し腹がたぷっているが、それを押しても最後に言う事がある。
俺はカウンターに向き直り、審査員を努めてくれた三人に改めて礼を言った。
「ありがとな、付き合ってくれて」
「気にしてないっての!」
「そうだよー、頼ってくれてむしろ嬉しいかも!」
俺の言葉にベルガモとイベリスは柔らかく答え、コルシカも薄く微笑んでいた。
「じゃ、お詫びと言っちゃなんだが、新しくなんか作るぞ」
「おっ良いのか?」
ベルガモは俺の言葉にすっと嬉しそうに目を細める。
俺はニヤリと返したあとに、少しだけあくどい声で言った。
「ああ、これから先も二人の修行を手伝って貰うんだからな」
「お、おおい! 聞いてないぞ!」
瞬間、ベルガモが表情を強張らせて言う。
直後に、サリーが少しかっとなった表情で返していた。
「な、何よ! 嫌だって言うの!?」
「敬語。減点五」
「増えてますわ!」
俺の無慈悲な宣言にサリーが嘆き、その場の全員が笑った。
そしてこの日から、二人の『カクテル』は本格的に始まることになったのだった。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
色々と書きたいことを書いていたら、とても遅くなりました。
すみません。
ここから時間は少し飛ぶ予定です。
明日は諸事情で、もしかしたら更新が出来ないかもしれません。
もし更新が無かったとしたら、作者のもう一つの作品でカクテル成分を以下略。
露骨な宣伝も久しぶりですが、そうならないように頑張ります。
※1007 誤字修正しました。




