【ミリオンズ・ブルー】(2)
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差し出された一杯を見て、スイは言葉に迷った。
美味しそうだとか、綺麗だとか、とりとめもない感想がいくつも浮かんでくる。
ワイングラスの中で揺れる海。
透明なガラスに閉じ込めた空。
それを形容する美辞麗句も、少ない語彙ながらいくらでも出てくる。
少女がその迷いから解放される前に、目の前のバーテンダーが、一言だけ、告げた。
「スイ」
「……ん」
「言葉は、飲んでからで大丈夫だから」
その、優しくも丁寧ではない言葉。
バーテンダー然としているときには珍しい、距離の近い言葉。
スイはその言葉に従うように、グラスを手に取った。
良く冷えたグラスは足から冷気が伝わってくる。
その足は同時に、手の熱をグラスに伝えないという役割もあるそうだ。
手を楽しませ、カクテルを守る。考えられたものだと、いつもスイは思う。
液体をそっと口に近づければ、ふわりと香る甘い香り。
マスカットだ。マスカットは、その香りが特徴的な葡萄の一種である。
その爽やかな甘い香りが前面に、そこに混じるように仄かなリンゴも感じた。
香りだけで、随分と贅沢な気持ちになる。
冷たいグラスに唇を付け、スイはその液体を口に含ませる。
まず舌に刺激を与えたのは、酸味だ。
鋭く切り込んで切るようなライムの酸味が、まずするりと舌を走る。
その後ろに続くのは、さっぱりした酸味のあるマスカット。さらに、酸味よりも甘みを感じさせるリンゴと続く。
特にリンゴは、その後に広がる後味の大部分を占めていた。
ゴクリと呑み込んでも、いつもの『スピリッツ』をベースとした『カクテル』に比べて、喉の熱さは控えめだ。
その分、スイは後味のほうにより意識を割く事ができた。
ふわりと広がる、赤い果実の香味が、青い液体の中に溶け込んで豊かに実っていた。それが過ぎないように、ライムの酸味もまた感じられた。
ここまで飲んで、スイは『ブルー・キュラソー』はどこに居るのかと気になった。
香りはマスカット、味の始まりはライム、そして後味はリンゴだ。
疑問を持ちながら、スイは二口目を含み、呑み込み、そして理解する。
この青色と一緒だ。
このカクテルの色が『ブルー・キュラソー』によって青く染められているように。
『ブルー・キュラソー』はカクテルの至る所に広がって、味を繋いでいた。
ライムとその他を柑橘らしい甘さで繋ぎ、仄かな苦みでもって全体を引き締める。
どこかで突出したわけでもなく、さりとて無くてはならない存在として。
姿は見えなくとも、本当に大切な中心として、その青はそこにあった。
そこまで思ったとき、スイの口からは自然と感想が零れていた。
「……嬉しい」
「うん?」
「うん。私は今、とても、嬉しい」
総の戸惑うような笑みを見ても、スイはそれ以上解説することができなかった。
感想は数あれど、彼女の心情の中で、最も大きいもの。
味も、匂いも、見た目も、全てが嬉しくて。
それを作ってくれた、我がままを聞いてくれた総が嬉しくて。
もともと感情表現が苦手なスイであっても、その感情だけは間違いなくて。
だから、繰り返し、言った。
「嬉しい。総、ありがとう」
「それは、どういたしまして、かな?」
果たして総が、スイの感情をどこまで理解したのかは、スイには分からない。
だが、そう答えた総の表情は、どこにも曇りのない笑顔だった。
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俺には、実のところスイの言葉の意味は良く分からない。
だけど、一つだけ分かることがある。
俺の彼女への『カクテル』は、しっかりと心に響いてくれたってことだろう。
カクテルの作者として、これ以上に嬉しいことはない。
「しかし、そうなると──っ」
俺は心情をそこまで吐露しかけて、慌てて止めた。
「総?」
「いや、なんでもない」
スイの刺すような視線。恐らく、俺が言いかけた言葉の続きが分かってしまったのだ。
『そうなると──惜しいな』
どうしようもないことに、俺はうっかり思ってしまった。
そんなに喜んでもらえる『カクテル』を、他の人にはお出しできないことが惜しいなと。
「総の気持ちは分からなくもないけど、台無し」
「う、すまん」
「はぁ……まぁ、所詮は総だしね」
スイは大きなため息を吐く。
そんな彼女に、今更何を言っても逆効果にしかならないだろう。
俺はただ、苦笑いを浮かべて彼女の感情が、カクテルと一緒に呑み込まれるのを待つ。
「……でも、本当にありえない」
「……えっと、何がでしょうか?」
「総って、どうしてそんなに、乙女心に鈍感なの?」
スイが、鋭い視線で俺を見つめながら尋ねて来た。
俺は、冷や汗が流れ出てくるのを感じる。
それは俺が日本に居たとき、女性客を怒らせてしまった際に突きつけられた質問と同じだった。
俺はその時のことを思い出しながら、必死に言い訳を捲し立てる。
「いや、どうしてとか言われても。そもそもバーテンダーは、カウンターを挟んで人とお話するだろ? だから、そういうプライベートには踏み込まないし、踏み込まれないのが基本であって──」
「でも、プライベートでも何も変わらないよね」
「うっ」
だが残念。
スイはそのときの女性客とは違って、俺のプライベートを知っているのだった。
しかし困った。
以前は見るに見かねた先輩が助けてくれたのだが、今は居ない。
この返答を、俺自身がしなければ、いけない。
「……あのさ、俺、スイに過去のこととか、話したこと無かったよな?」
「うん。聞いてない」
「…………」
俺は、静かに、その答えを告げた。
「実はな。俺、今まで女性と付き合ったことが、一度も無いんだ」
「………………え?」
「ま、バーテンダーやってる時にも、そう言うとみんな驚いたけどさ」
スイが目を丸くしているところで、俺は苦笑せざるを得ない。
「だから、俺の知識とかは全部、人からの受け売りだったりしてさ。俺自身、そういう機微とか、理解できてないんだよ」
俺はこれまでの人生で、誰とも付き合ったことなどなかった。
幼い頃からゲームにのめり込んで、中学、高校とその方向しか見ていなくて。
それで大学に入っても……入っても?
あれ? 俺は確か、大学で、何か。
なんだったっけ。あれは、え? 何で、思い出せない……?
ズキン。
急に頭に鈍痛が走った。そのせいで思考が中断された。
何を考えていたんだっけ?
えっと、そうそう。大学に入っても『何もなかった』んだ。
「そういうのに多感な思春期とか、全部スルーしてきちゃってさ。人間性の欠陥ってやつなのかな。その方面の経験値だけ、全く何も無い状態なんだ」
「……そうやって、適当なこと言って誤魔化してるんじゃなくて?」
「違うって、バーテンダー嘘吐かないって」
たまにしか。
疑うような視線を向けてくるスイに、俺は慌てて手を振りながら答える。
しかし、スイは納得してくれているわけではなさそうだった。
「でも、バーテンダーをやってて、好意を向けてくる人とかは居たんじゃない?」
彼女の疑うような視線をどうにかしようと、俺は半ば投げやりに口走る。
「居ない居ない。俺って始めたときは本当に何もできない奴だったしさ。店に来る女性はみんな魅力的な大人の女性なんだから、俺なんて相手にしないって。せいぜい出来の悪い弟とか、そんな風にしか見られてなかったよ」
「……じゃあ、店以外で会う女性は?」
「スイも知ってるだろ? 俺が『カクテル馬鹿』だってこと。友達も少なかったし、女友達は尚更だ。休日は家に籠って練習とか、他の店に勉強に行くとかだぞ。女性と知り合う機会なんて欠片もなかったよ」
実際、俺があまりにも女性に興味を示さないものだから、オーナーには『もっと女性に興味を持て』と再三注意されたものだった。
言い方は悪いが、女体に興味がないわけではないのだ。
だけど、恋愛は良く分からなかった。
だから『人間としての成長』に必要だと諭されても、どうしても行動を起こす気になれなかった。
「そんなわけで、俺は乙女心を知る機会なんてなくてさ。こうなんだろうな、って推測するくらいしかできないんだ」
言いながら、俺は何故、スイにこんな説明をしてるんだと思う。
ああ、そうか。
スイのために作ったカクテルで喜んくれたところで、俺が無粋なことを考えたんだった。
「だからすまん。せっかく作った『カクテル』を邪な目で見てしまって」
「…………」
「自分のための『カクテル』を、不埒な目で見られたら嫌だよな」
そう思って、俺はしっかりと謝罪をした。
だが、スイはそんな俺の顔を、先程よりも数段冷めた目で見つめていた。
「……総。一つだけ、聞かせてくれない?」
「な、なんでしょうか?」
その据わった目で、されど僅かに紅潮した頬で、
スイは俺に、ナイフのような一言を投げかけた。
「もし、私が総のことを、好き、って言ったらどうするの?」
「……え?」
スイの言葉のナイフが、緩やかに俺の心臓に突き刺さった。
スイが、俺のことを好き? それは、彼女が俺に好意を向けているって意味で?
ズキン、ズキン。
頭の鈍痛が、思考を邪魔する。
だけど、俺の思考が止まらない。
そんな状況を、今まで想定したことがなかった。
え? でも、ここで言われたということは、つまりは、そういう……?
そこまで、思考が及んだ時だった。
『──────、──────?』
パキン。
破砕音に似た何かが、俺の心の内で、響いた。
「いっつ!?」
割れるような痛みに、俺は思わず呻きながら頭を押さえ、うずくまった。
「総っ!?」
突然苦しみ出した俺に、スイが慌ててカウンターに身を乗り出した。
だが俺は、大丈夫だと手で示して、ゆっくりと立ち上がる。
どういうわけだが、頭痛は波のように、どこかに消えていた。
「えっと、悪い、急に頭痛がしてさ」
「大丈夫?」
「大丈夫だ。それよりさっきの話だけど」
俺は言いながら、彼女とどんな話をしていたのかを思い出そうとする。
えっと、確か、
『もし、誰かが総のことを、好き、って言ったらどうするの?』
だったか。
「それはありえないって。まだまだ未熟な俺なんかを好きって言ってくれる人は、居るわけないよ」
「…………そうっ!」
俺は冗談混じりに答えたが、その返答に、スイは不機嫌そうにそっぽを向いた。
どうやら、また何か怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
だが、スイはグラスに目を向け直し、その中の液体を一口含む。
そして、幸せそうに頬を緩めて、言った。
「……でも、悔しいけど嬉しいから、今は、許す」
「……それは、ありがとうございます?」
彼女の言葉に対する正しい答えは未だに良く分からない。
だが、これ以上機嫌を損ねるのは嫌なので、ひとまず礼をすることにした。
その夜、スイがいつもの機嫌に戻るまでは、かなり時間がかかったのだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
少し長くなってしまいました。
不穏な感じに見えるかもしれませんね。
しかし、今は特に関係ないので、あまり気にしないで頂けると幸いです。
最後に、一応だけレシピをまとめておこうかと思います。
【ミリオンズ・ブルー】
・マスカットリキュール = 20ml
・ブルー・キュラソー = 15ml
・アップルリキュール = 10ml
・ライムジュース = 15ml
上記をシェイカーに注ぎ、シェイクすれば完成。
カクテルグラスが望ましいが、ワイングラスでも代用可能。




