92 童女は離脱する、病み落涙して/侍祭は突進する、勇み力闘して
どうして。どうしたら。どうすれば。
怖い、怖い怖い……ああ……かみさま。ワタシこわいよ。こわいけど。でも。
◆◆◆
嫌。シラ嫌だよ。不思議な服の大人たちがつかんでくるよ。痛い。やめて。助けてお父さん。ガチャッて、硬い輪っかを手につけられたよ。床に押し付けられて。
え? 変な窓の外に……クロイ様? 戦場にいるの?
ヴァンパイアが……ああ、ダメ! クロイ様、馬から落とされて……!
「ダメえええええっ!!」
あ、手。さっきのと違う、シラの手。
天井へ伸ばしてた……影屋城のお部屋……寝てて、夢を見たの?
違う。夢だけど夢じゃない。だって胸が苦しいよ。なんか寒いよ。あと、怖い。お父さんが抱きしめてくれてるけど……そうわかるのに、手が見えないよ。
「シラちゃん、大丈夫……じゃなさそうだな?」
「あ、う」
パインだ。いつものお仕事部屋までシラの声が聞こえたの? それとも違う? 軍の服だけじゃなく、鎧も着てる……なにかあったの?
「ひどい顔色じゃないか。髪も汗でびっしょりだ。熱は……多少は下がったかな。とりあえず、ほら、水を飲むといい」
「うん……ありがと」
あ、おいしい。ひと口飲んだら、ゴクゴク全部飲んじゃったよ。少し楽になったけど、でも、胸はずっとドキドキしてる。
「落ち着いたかい? んじゃ、ちょっと聞いてくれ……ここへ敵が迫ってきてる」
「敵……敵って?」
「エルフだ。あいつら裏切りやがった。嘘じゃないぞ? 開拓地との連絡兵が襲われて、馬だけ駆け込んできたんだ。鞍に血文字の書付けを挟み込んでさ」
やれやれだよねって、パイン、笑うけど。
「……サチケル、敵なの?」
「いや、どうも『絶界』の従僕が率いた軍勢みたいだな。私たちの整えた行軍路を来ているようだし、ざっと計算して、襲来は今晩から明朝にかけてってとこだ」
どうして荷造りするんだろう。シラの服を詰めたり、毛布を巻いたりして。
「そんな訳で、シラちゃんには避難してもらうぞ。起き抜けで悪いけど、傷病者はそろって南西へと出発だ。ウィロウ家のマリウス君が怪我人大将として指揮を執るから、言うことを聞いたり馬に相乗りさせてもらったりしてくれ」
シラに外套を渡してきて、薬の瓶もくれるけど。
「パインは、残るの? エルフと戦うの?」
「ああそうさ。ヴァンパイアの都市でエルフ相手に籠城戦とか、なかなか愉快な話だけどさ。まさか、クロイ様たちの背中を襲わせるわけにもいかないだろ?」
どうして炭杖を渡してくれないんだろう。シラ、上手になったのに。
「……シラは、残っちゃダメなの?」
「ダメさ。瘴気患いってのは、死ぬまであるんだぜ?」
「でも!」
パインの手をつかんだよ。色んなことを頑張ってる、温かい手……生きてる手。離したくない。こういう手をした皆と、シラ、たくさんお別れしてきたから。
「任せとけって。言っちゃ悪いが、街がどうなろうと構いやしないんだ。無理無茶自由で一千からの兵力があれば……ま、何とかしてみせるさ」
やさしく手を離されて。頭を撫でられて。マリウスのところへ連れていかれて。
神様。ねえ、神様。
今、大変なんだよね? シラわかるんだよ。さっき見た夢は、きっと、神様の見る世界なんだ。だって、不思議な窓の中の窓に、シラもいたもの。
でも、祈るよ。
なにをどうしてとか、こうしてほしいとか、そういうことじゃなくて……あってほしい明日のために祈るよ。もう会えない人や、これから会えなくなっちゃう人がいても……悲しくても苦しくても……それでも、明日は来るんだから。
「ヤシャンソンパイン・ネロ殿……ご武運を」
「マリウス・ウィロウ、君もな」
大好きな人たちに見送られて、大好きな人たちと一緒に、進むよ。皆、なにもしゃべらないで、振り向くこともしないで、進んでいくよ。
デ・アレカシ。
歯を食いしばってるから、心で祈りを捧げながら。
◆◆◆
神様。神様。火と刃を司られたもう鬼神様。従僕ヒクリナ・ズビズバンの願いを聞き届けたまえ。この身この命の尽くを捧げますから、どうか……どうか。
わたしたちにクロイ様を救わせたまえ。
「デ、アレカシ! 神意は拳に宿るもの! 槍突け! 突き崩せ! 前進せよ!」
命じて、前へ。応じる皆と共に、前へ。もっと前へ。軍靴で地を震わせて。
早く、クロイ様のもとへ。
黒雲のように押し寄せひしめく敵陣の先で、クロイ様が戦っているんです。見えなくとも苦境が察せられるんです。その比類なき強さが、今、揺らいでいると。
だって神気が、神様の気配が、陰ってしまったんですから。
まるで嵐の夜に灯火を失ったかのような、この寂しさと心細さ……わたしたちがどれほどに手厚く加護されていたのかを思い知らされます。特に戦場においてそれは顕著だったのですね。火に炙られて痛みを覚えるなんて、いつぶりでしょうか。
それでも……いいえ、それだからこそ。
わたしたちは死力を尽くさなければならないのです。この身果てようとも。
「せいや! とう! えいさ!」
む、穂先に当たったこの硬さ。鋼鉄の鎧。手首を返して肩の隙間へ刺突。さらに返して口腔を貫通。古今、神官戦士は押し通るものです。
「いやさ! おうさ! ちぇい!」
むむ、穂先に重さ。つかみ取ろうとする手。手の内の巧妙で槍を捩じります。削り穿って弾き飛ばすこの繰り方。相伝のハハト流槍法です。
「前進せよ! 今や死はわたしたちを分かたず! 怯むことなく、進めえ!!」
さあ、前へ奥へ先へ。全てを費やして、クロイ様のもとへ。
あ、頭上を飛び越えていく炎。魔法部隊の《火線》。突撃戦術の密集と移動にも動じない斉射、お見事です。オデッセン司魔さんの指揮あればこそのものですが。
「突け突け! 突けええええっ!!」
その火力にも目減りが感じられますから、さあ、突きませい。足らないならば足せばいいというだけのことなのですから。
「散開準備……今! 傘、開けえ!」
隊の中央を開けるや、擲弾騎兵が駆け抜けて……わ、今の、先頭はアギアス将軍じゃないですか。後方の防御をオリジスくんに任せたということは、つまり。
「全隊《耐火》! 命費やすはここぞ! 火油用意……《発火》っ!!」
敵の緩み怯みへ。騎兵の衝撃と火魔法の爆風とが動揺させたそこのところへ。
「突き進めええっ!! おりゃあああああっ!!」
いざ、歩兵突撃です。敵も味方も焼きながらの突進です。これこそが火防歩兵。敵を突いて突いて、慄かせて、燃え広がる炎のように進むのです。
熱く。痛くても苦しくても、熱く。命を燃やして。
だってこれしか。いいえ、これならば。行けます。敵を押し退けられるんです。前へ進めるんです。吠えて、突いて、前へ。崩しても崩しても分厚い黒雲を突き破って、クロイ様のもとへ。
いた。見えた。何てこと。渦巻く敵勢の中心に、密集した防御円陣。
灰塗れの炭火のようなそれへ叩きつけられる、打撃と電撃。
吼えました。誰かかわたしが。そして奔走。
まずは擲弾騎兵の高速。《爆炎》の連続。さらに《焼薙》。それでも敵は多く、崩れず、部隊単位での応戦をしてきましたから……それを引きつけ別の敵と混雑させる攪乱機動。アギアス将軍の騎兵戦術。
あ、光。これは。これがヴァンパイアの使徒の雷魔法。エルフの使徒が掛かりきりになっていたほどの威力が、わたしたちへ……来ません。炎による相殺。
オデッセン司魔さんですね。《火線》を集中させる技巧。よくぞ咄嗟に。
まだ来ます。あれは光る鳥? いいえ、きっと精霊の類。それが二羽。狙いは魔術部隊。次の《火線》にはまだ時間が。
ならば二羽には二羽です。行ってください、わたしの召喚獣たち。火の妖精の『赤兎』。必要なだけわたしの力を持っていっていいですから、負けないで。
よし、この状況。この間合い。採りうるべき戦術は肉薄肉弾あるのみ。
「全隊! 鉄頭牛の陣を!」
隊伍を密にして、盾を隙間なく配して、一頭の猛牛のように構えて。
「全員一丸、クロイ様のもとまで進む! いざやいざ! 押し立てえええっ!!」
前へ。敵の攻撃を一顧だにせず、敵の渦動を妨害すべく、前へ。石が雷が盾を撃つ音を喊声で打ち消して。槌が棒が盾を叩く音を咆哮で打ち払って。
さあ、分け入りますよ。絶対に力負けなんてしません。外には騎兵と魔法部隊による支援。内には集め高めた闘魂。個々で崩せるほど、この結束は温くも緩くもないんです。
「ああ、クロイ様!」
赤黒き不死の皆さん……満身創痍となっても消えないで、無言で抗うその堅陣の中心に……剣もなくうずくまる黒髪のあなた様。
燃える瞳で、必死の形相で……手首を押さえているのですか?
「ヒクリナ、手を……!」
「全隊、絶対防御! クロイ様、怪我をされたのですね? 今、手当を……」
「違う! 手を! アナタの手を、ワタシの手に重ねて! 早く!」
「は、はい!」
すごい剣幕です。それに、すごい魔力。灼熱の炎を目の前にしているかのよう。それなのに、クロイ様の手首だけが冷たい? これは……これは!?
火……燃え盛る火と……不思議な部屋が見えます。見たこともない品々が転がっていて……あれは服? あれは食べ物? 壁も床も天井も奇妙で、その全てが炎に包まれていて……手が自由にならないと暴れている誰か……あれは……神、様?
神様の手を、金属の光沢をした手枷が、拘束しているのですか!?
「ヒクリナ、力を! アナタの火も加えて!」
クロイ様の声。断固とした意志。
「これを……この縛鎖を! ワタシたちで焼き切る!」




