89 兵長は火炎を呼吸する、戦友と共に凶風へ抗って
胸が熱い。耳には咆哮が木霊する。
誰もが戦っている。ワタシたちは、そうせずには在れないから。
◆◆◆
灌木を斬り払う鉈が、勢い余って膝をかすめた。弾いた枝が頬を切った。頭上で枝葉がざわめいた。ただの風か。唾を吐く。
エルフは味方じゃない。そんなことは、わかっていたことだが。
「ザッカウさん! 罠の設置、終わりました!」
「ついでだ、腐っちまった食料をぶちまけろ! 『鳥爪』も忘れるな!」
鳥爪。鉄クズを鳥の足首の形に成形した代物を方々へ撒く。草に紛れたこいつは踏めば刺さる。厚底の靴を履いていればどうということもないが、エルフは草鞋や編み靴ばかりだからな。
「よおし、撤収だ! 各小隊で点呼しろ! 相棒を抱えろ!」
言って足元へ手を伸ばす。ごま塩柄の毛皮のウサギ。神の眷属獣であるソードラビット。不敵な面構えのこいつは、重い。肩に背負った方がまだしも運びやすい。
申し訳なさそうな鳴き声と、もたげられた角の鋭さ。
「ああ、頼りにしているさ。エルフは速いからな」
小走りに南へ。この雑木林を抜ければ、あとは砦まで草原が続くばかりだ。暗いうちにどれだけ距離を稼げるか、だな。
敵はエルフ軍一万五千……その奇襲……北方開拓地は既に占領されただろうよ。危ないところだった。『万鐘』の残していった楽隊に救われた。彼女らからの密告がなければ、住民の避難も覚束なかった。
このことあるを予想していたとはいえ……まさか決戦兵力を割ってくるとはな。
木立を抜けた。隠れるところのないこの見晴らしが、俺たちの世界だ。東西の開拓地へ逃れた民は無事だろうか。砦へ向かった民は、司祭は、到着したろうか。
「兵長! 東の空が!」
「……ちいっ」
白む地平に黒煙が上がっている。もう野焼きをしたということは、とうとう追い付かれたということだ。この早さ。飛行者だろうな。
「全隊止まれ! ここに布陣するぞ! 陣盾を並べ立てろ! 矢避けの板は分隊ごとにだ! 篝火は四方へ! 油も撒いておけ! 誰か一騎、西の中隊へ伝令だ! 全作業を中断して砦へ急ぐよう、伝えろ!」
陽動のために動いている部隊は中隊三つ。東は擲弾騎兵二百騎の担当だ。あいつらも速い。為す術もなく討たれたりはしない。
「斥候小隊! 林の要所に分散して伏せろ! 敵は素通しにしていい! 味方の先導が役割だ! 罠の位置、特に放火の仕掛けを確認しておけよ!」
開拓地で見聞きし、知っている。エルフの能力も人間同様まちまちだ。誰もが飛べるわけではなく、飛行者であったとて長距離を飛べるとも限らない。先行して追いついてきたのは少数部隊のはずだ。だが、擲弾騎兵が退くほどの数ではある。
「狼煙を上げろ!」
だから、ここだ。ここで当たる。少しでも数を減らして追い払う。最悪の場合、林に火を放ってでも注意を引いてやる。
「いいか! 林側から来たなら、ここを固守して迎え撃つ! 回り込んで来たなら一撃して林へ退く! どちらにせよ初っ端が勝負所だ! 装備を検めておけ!」
腕を組んで立つ。こうやって震えを隠すことにも慣れた。堂々と、待つ。
夜が明けていく……何葉だ。何葉が来る。擲弾騎兵は何騎が合流できる。俺は何名を……ひとりをでも、生き残らせることができるのか。湯気の立つ食事を、家族との再会を、叶えてやれるのか。
奥歯が軋んだ。顎の震えが抑えがたい。唾を呑み、長く唸るように息を吐く。
覚悟しての、陽動だ。志願者による、必要な、作戦だ。
何としてでも、真っ直ぐに砦へ向かわせてなるものか!
「兵長! 騎兵が林へ入ったようです! 追手も、そのままに!」
「敵の数は! だいたいでいい!」
「さ、三百葉とのこと!」
多い。どういうことだ。いや、何であれ迎撃だ。ここを通すわけにはいかん。
「聞け! 敵は裏切り者のクソエルフどもだ! 遠慮はいらん! そして思え! 己の背に庇う民を! 老父母を、女子供を! 想え! 遠く、死地へ赴き戦っている戦友のことを! クロイ様たちが帰ってくる場所は、俺たちが護るんだ!!」
来た。枝葉の作る影濃き中を騎兵が駆けてくる。木々の合間を縫うようにして、速い。戦袍に受けた矢をぶら下げた者が多いが、冷静なものだ。さすがの練度。
その背後、災いの風のようにエルフの飛行者。一矢が、今、一騎を射落とした。
「駆け抜けろ! あいつらは俺たちが殺る!」
兵士たちが板を構えた。陣盾の裏にウサギたちが潜んだ。張り詰める空気。
俺も板を被る。手の内には釘を握りしめている。特別な釘だ。尖端を剃刀のように砥いだ、戦えない者たちの祈りの篭る『釘刀』。刃に油を塗ってある。
「盾、構ええっ!」
嫌な音だ。弓弦の鳴る音。矢が風と共に距離を裂く音。盾に鋭く突き刺さる音。誰かの肉を穿つ音。俺たち人間を鞭打つような、胸糞の悪くなる音、音、音。
こんな音どもが偉そうにするから、叫びたくもなる。吠えたくもなる。
「今だ! 撃ち落とせや!」
手の内で《発火》。矢の勢いが弱まった隙をついて、釘刀を投げる。そうだ、皆して三本四本と投げまくるんだ。出し惜しみするな。
さあ、どうだ。驚いたか、エルフ。
届かないものもあれば、風に阻まれたものも多いが、それでも十葉二十葉と落下させたぞ。クロイ様のもどきにも至らない技だが、魔力の篭った火は他の魔法へ影響する。少しでも動揺させられればいい。驚き、心乱れれば、宙にはいられまい。
「槍持てえ! 行くぞおらあっ!!」
吠えて走る。落ちたエルフを狙い、それを助けようと降りてきたエルフも狙う。
音。頬を矢がかすめた。誰かが悲鳴を上げて転げた。走る。突き刺す。二本三本と追撃の穂先。浮くあのエルフには届くか。槍を伸ばす。届かなかった。そんな竿を足場に相棒が跳ぶ。うお、空中で仕留めた。やるな。回転斬りというやつか。
おう、擲弾騎兵も戻って来た。焼炎筒が振られる。《猛火》がまばゆく燃えて、エルフがまた十数葉と落ちてくる。さすがの威力だ。よし。
「うおおおお! 突けえ! ひっ跳べえ! 叩き落せえ!」
乱戦だ。ヴァンパイア相手では危険なこれがエルフには効く。エルフは非力だ。それに、空も飛べてしまうような軽装で、俺たちの刃を防げるものかよ。
「ぐおっ!?」
右腕に矢。弓射じゃない。倒れたエルフが手で投げた短矢だ。風魔法にはそういうものもあるのか。駆け寄るまでもなく、そのエルフは相棒が討ったが。
眩暈がする。何だ。矢を抜いて矢じりを舐める。舌を刺す味。ああ、これは。
「怯むなあ! 吠えろ! 吠え狂って、押し切ってしまえ!」
目一杯に槍を繰る。そんな自分を、何か暗い暗い内側から、他人事のように見ている。汗が冷たい。右の手の先が、乾いた棒きれにでもなったようで、ひきつる。
「よおし! 退けた! 連中は逃げたぞ! 俺たちも後退だ! 動けないやつらを運べ! 陣の中へ引っ張り込め! 傷口を水で洗え! あいつらは毒を使う!」
息がしづらいが、しなければそれでお終いだ。くそう。そうだ、酒だ。とっておきの芋酒を口に含む。傷口にもかける。これでなかったことにはならないか。なるわけがないか。だが、少しは気がまぎれる。誤魔化しが利く。
「ザ、ザッカウさん! あれを! あれを!」
おう、お前とも長い付き合いだな。黄土新地からここまで、変わらずの落ち着きのなさ。いつまで新兵気取りでいるんだか。
で、何だって? あっちはまだ空が暗いから、西か……随分と暗いな……ひとちぎりの黒雲が、禍々しい何かが、こっちへ飛んで来る。西からエルフの飛行者たちが来る。あれも多いじゃないか。一千近くはいる。あっちの中隊はどうなった。
見える。飛行者の中心に仮面のエルフ。開拓地の会談で見た、総大将の名代。
「……デ、アレカシ……!」
吐き気を噛み殺す。寒気を無視する。槍をつかんで立ち上がる。いつ、俺はしゃがみ込んでいた。それでも戦士か。男かよ。
「やるぞお! 負傷者は林へ! 陣盾を点検! 盾板を配り直せ! 薪と油を確認しろ! 擲弾騎兵は思う様、好きに戦え! 精鋭中の精鋭ってところを見せろ! 斥候小隊は……行け! 行ってくれ! 砦へ辿り着けよ!」
叫ぶように指示を出して、後はもう、勢いだ。
嵐のように吹きつける矢。命の貫かれる音を、吠えてかき消して、槍を。空で爆発が起こって、エルフが墜落してきたら、喊声を上げて槍を。誰かが誰かの名をつぶやく声を聞くたび、その絶息を察するたび、祈りを絶叫して獰猛に槍を。
相棒はどこだ? 俺の頭と似た色の毛皮の、勇ましくもモフモフしたあいつは。
ああ、そこか。先に休んだか……そうか……またな。
不思議な気分だ。血と汗に塗れて、息も絶え絶えなのに、全てが遠い。静かだ。そして背が熱い。山小屋で冬籠りをした、いつかの夜のように。
震動。大地が揺れている……うん? 俺は倒れているのか?
朝焼けの空を綺麗なものが横切った。あれは《火線》。火役の内で軍旅に耐えられる連中は、クロイ様と共に征った。開拓地に残っていたのは足腰の弱いのや女子供で……優先的に退却させて……それが、砦から引き返してきたのか?
「―――殿! ザッカウ殿! おお、神よ、火の奇跡とは死を否定しない……それを恨みはしませんが……しかし! しかし!」
フェリポ司祭じゃないか。なぜここにいる。砦はどうした。敵はどうなった。
「司祭、ここにいたか。追撃は取りやめたぞ。いやはや敵ながら見事な退き際」
「ズビズバン卿……!」
「ふむ、一目でそれとわかる強者、いまだ手は槍を握る……か。見事な最期を迎えたようだ」
でかい男がいるな。ヴァンパイアのような重甲冑だが、大剣を持っているからには人間だ。白い髭と強い眼光……ああ、東部諸侯を取りまとめる、あの辺境伯か。
間に合ったんだな。強力な援軍を得て、砦の防御が整った。
「強者よ。よくぞ戦い抜いた。後のことは全て、このダイモス・ズビズバンが引き受けたぞ。砦の護りも、我が闘魂騎士団に任せておけい」
おお、そうか……そうしてくれるのか。それなら、いい。
ゆっくりと空が遠ざかっていく。背を熱する何かの方へ沈んでいく……いや、導かれているのか……相棒の鳴き声がするからな。
そうだな、任せてしまって、今は休もう。
再び呼ばれるその時まで……この炎の中で。




