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84/108

84 騎士は対処する、砂の鮫に/童女は対話する、影の女と

 眠れる神の息遣いを聞く。特別な気配に敏くなる。

 わかる。この世界には三柱の神がいて、互いに相争っているのだと。



◆◆◆



 切り立った断崖から峡谷を見下ろし、馬上、手綱を握りしめている。この身を闘争へと駆り立てる血潮をも御するようにして。


 眼下、狭隘な砂地を騎馬の小隊が駆ける。マリウスの隊だ。追われている。


 追いすがるのは、砂地に刺さった凧盾のようなもの……砂に潜み砂を泳ぐ魔物『砂鮫』。その群れ。獰猛を極め、ヴァンパイアとて餌食にするという。


 低く、長く、息を吐いた。


 一陣の風。それだけで乾ける大地が削れて、外套を細かに打ってくる。面覆いでそれらを吸わずに済まそうとも、喉は荒み肺は病む。暑くもなしに人を焦らし、寒くもなしに人を脅かす大気……瘴気が濃いからだ。


 重い、な。


 甲冑が重い。人間最後の軍勢を率いる責任が、鋼を鋼以上のものにしている。剣槍もやはり重い。託された無数の想いが、刃金を刃金以上のものにしている。


 ああ、望ましい。絶え間なく覚悟を強いるこの重さこそ、望むところのものだ。


 私を、アギアス・ウィロウを、それ以上の何者かへとせよ。剽悍たらしめよ。


「用意……今」


 命ずるや炸裂する十数発の爆音。オリジス隊の《爆炎》だ。崖の両岸は大きく崩されて、巨岩が次々と降り注いでいく。馬蹄から伝わる地響き。立ち昇る砂煙。


 そして、周囲の岩場から俄かに生じた物音。蠢くものどもの気配。


「オリジス、マリウスたちの退避を掩護せよ。砂鮫を牽制するのだ」

「承知! 兄者は?」

「誘われ出でた有象無象を、蹴散らす」


 槍を掲げて馬を駆る。確かめずとも百騎が続く。敵は岩陰より現れ出でた中小の魔物どもだ。もとは甲虫や地虫の類であろうが、瘴気に毒されて犬豚並みの大きさともなれば人を襲い人を喰らう。


 生息地へ分け入ったのは我らなれど、寄らば斬る。牙剥かば貫く。容赦せん。


 死ね。我らが在るために。


 手信号をひとつ打って散開、各々の武勇に任せておいて……足元の芋虫じみた魔物を二匹三匹と槍で刺し貫く。串刺しだ。そのまま左手で保持し、右手で剣を抜き打つ。跳びかかって来た甲虫を両断。五匹六匹と立て続けに。


 崖へ寄る。いまだ粉塵が深さを覆い隠すそこへ、芋虫の死骸を放った。紫色の粘液が散る。よし。あれらは餌となって砂鮫を寄せるだろう。

 

 爆発がひとつ。オリジスか。この先の、険しいものの登れなくもない崖の辺り。砂鮫は砂中にあっては無類の打たれ強さだと聞く。火魔法とて早々通じまい。


 されど、このようなところで一騎一名とて失うわけにはいかない。


「各騎、魔物を谷へ落とせ! 砂鮫に馳走しろ!」


 無理に倒す必要はないのだ。砂鮫は砂を泳ぎ岩を避ける。谷へ誘引しこれを封鎖したからには、もうこちらには現れない。行軍の障りにならなければそれでいい。


「兄上、マリウス以下五十騎、無事に戻りました!」

「見事な囮駆けだった。崖登りも問題なかったようだな」

「うん。砂地では思うように速度が出ないから肝が冷えたけれど……崖はよかった。山地での調練は随分とやってきたからね」

「うむ。オリジスもよく援けたな」

「一匹しつこいのがいた。《爆炎》を直撃させてもダメでさ。あんな奴らが歩兵を襲ってきたらと思うと……ゾッとする」


 頷く。まさにそれを阻止するための作戦だった。


 ヴァンパイア領は長く人間未踏の地であり、未知の魔物も多い。地形の詳細のみならず魔物の生態を事前に知り得なければ、死の行軍となっていた恐れもある。


 あるいは、エルフの目論見はそこら辺りにあるのかもしれないが。


「後で彼女にお礼を言わないとね」

「ああ。今のところ情報は正確だし、策も当たってるし」

「でも、ぼくだけ嫌われているんだよね……怖がられているのかも」

「そりゃ仕方ないだろ。一度は本気で殺そうとしたんだから」

「今はそんな気ないんだけれど」

「どうだかな。お前、たまに首級を値踏みするような笑顔するしさ」

「あ、ひどい。心外もいいところだよ」


 我らは対処できている。弟たちの談笑も、またひとつ行軍の安全を得られた喜びゆえのもの。決戦のその時まで、いかなる障害にも士気を挫かれまいぞ。


「よし、全隊撤収準備! 本隊に合流する!」


 駒をそろえて敵地を駆ける。軍人の本懐が砂煙を上げている。



◆◆◆



 シラ知ってるよ。日が高い時は、ターミカ、いつも日陰にいるって。


 ほらやっぱり。大きな骨が組み合わさってできた、小屋のなりかけみたいなところで、ひっそり静かに影みたく座ってる。


「また来たのかい、ちびっ子従僕。君も暇だね」


 頭巾の奥で白く光ったのは、とがった歯。ヴァンパイアの証。でもターミカは半分人間だから、普通のよりも小さいんだよね。血を吸うのも好きじゃなくて。


「ああ、水を持ってきてくれたんだ。ありがとう」

「他に欲しいものある?」

「大丈夫さ。必要なものは貰っている。私は捕虜じゃなく、協力者だからね」


 ターミカはそう言うけど、ずっとひとりぼっちでいるから、心配。皆も寝返りだとか裏切りだとか噂してるし、きっと色々我慢してるんだと思う。


 となりに座って、シラも水を飲むよ。


 お父さんの剣はしっかりと布で包んであって、ウサギの白黒は膝の上。そうしてほしいってお願いされたから、ちゃんとそうするんだ。だって、すごく怖がりだもの。ターミカって。


「君たちときたらこんな荒地に馬なんて連れてきちゃって、枯れ死なすつもりかと思ったものだけれど……私も知らないような水場を知っているんだからなあ」

「神様が教えてくれたんだよ」

「神……鬼神……空から見下ろしたというだけじゃ、こうはいかないのに」


 お尻の下がザワザワってする。ターミカの魔力で影が動いてるからだ。でも大丈夫だよ、お父さん。白黒も大人しくしてて。


 怖がったり怒ったりするのは、悪いことじゃない。大事なものがあるなら、誰でもそういう気持ちになるんだ。壊されたくないから怖いんだし、壊されてしまったから怒る……ターミカも悲しいんだよ。きっと。


「シラは、神様のこと好き。やさしいもん」

「……君みたいなちびっ子をわざわざ選んで、戦わせる神だよ?」

「選ばれなくても戦うよ?」

「そう……そうか……人間の置かれてきた状況を思えば、戦えること自体がもう救いなのか。ずっと、世界の端に放っておかれたのだし……」


 ターミカは、神様が嫌い。シラたちを護ってくれる神様だけじゃなくて、ヴァンパイアの魔神もエルフの竜神も、全部が嫌い。


 だから、シラたちと一緒にいる。


 神には神をだって、魔神を倒すために鬼神と竜神をぶつけるんだって、はっきりそう言った。そのための手伝いならなんでもしてやるって、大笑いして。


 黄土新地の牢屋で、そんなターミカと向かい合って、クロイ様は頷いたね。


 皆は、魔神を倒すまでの味方なんだって話してたけど、シラは少し違うと思う。だってクロイ様はやさしい目をしてたもの。シラを見つめてくるときみたいだったんだもの。


「……君はさ、この世界が好きかい?」

「ん……わかんない。でも、好きな人はたくさんいるよ?」

「なら、生まれてきてよかったって、思えるかい?」

「うん……うん? だって、生まれないとなんにもできないよ?」

「そうさ。生きるも死ぬも、生まれてこそのもの……それなのに」


 ターミカは手を伸ばして、古い柱みたいな骨に触った。すごく大きな骨だよね。たぶん肋骨だと思う。家みたいに大きな動物の。


「これは大岩犀おおいわさいという動物が、かつてこの世界に存在していたという証さ。土の力が弱まるにつれて数を減らし、絶滅してしまった。もう一匹だって生まれてくることはない」


 茶色い指が骨を撫でていって、根元の砂を少しほじって、つまみ上げたのはボロボロの紐みたいなもの。よく見ると骨のあちこちに結んである。


「大岩犀だけじゃない。わずかに生き延びていたコボルトの亜種も、次々に死んでいった……代わりに数を増やしたのは、瘴気に毒された魔物たち。ゴブリンやバグベアなんかだ。砂鮫だって、もとはあんなにも凶暴じゃなかった」


 砂鮫。襲われたら大変だってターミカが教えてくれたから、そうならないようにって工夫できたんだよね。


「この世界は壊され狂わされているんだ。この世界の外側からやってきた、神と呼ばれる何者かによって……好き勝手に弄ばれている。許せることじゃない」


 ずっと影がザワザワしてる。でも痛くはない。砂や骨をさするような動き。


「ちびっ子。君だって本当は、もっと穏やかな日々を送るべきなんだよ」


 頭を撫でられた。やっぱりやさしい手だよ。


「……土漠砂漠を越えれば、森へ至る。酸の雨で腐り果てた森へね。当面の目的地はその先だ。雷の力で夜にも妖しく彩られた町……あぶれ忌まれの流れ着く所……退廃と倦怠の巣窟『影屋城』。腐乱を包む外壁は堅牢を極めるけれど―――」


 琥珀の色の瞳が、ギラリって、影の中で光ったよ。


「―――汚わいの申し子、この私がいるからね。易々と落としてしまうのさ」


 ターミカが牙を剥く。怖くても、怒って怒って、魔神へ噛みつこうとしてる。


 一緒だね。クロイ様とも、シラとも、皆とも……神様とも。


 だから一緒に戦おう。大丈夫。どんなに苦しくても、ひとりきりじゃないなら、最後まで頑張れるんだよ。シラ知ってるんだよ。


 そうだよね、もう会えない皆。そうなんだよね、絶対に。

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