76 侍祭は祈願し推参する、世界を燃やす聖戦へ
静かに、息を潜めるようにして、神が戦に備えている。
ワタシの背中越しに、これまで以上に、世界をつぶさに知ろうとしている。
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世界はとても意地悪です。
だって、綺麗なものは遠くにばかりあります。素敵だなって近づいて、頑張って手を伸ばしても、指先すら届いた試しがありません。それどころか、しっかりと腕に抱いていたはずの大切なものまでどうしようもなくこぼれてしまいます。
得られずに、失って失って……いつだってわたしは力が足りなくて。
幸せになってほしい誰かとの別れを、重ねてばかり。
「ヒクリナよ。そう落ち込むでない。若者の未熟とはまぶしいものじゃからして」
白髭をさすりさすり、大司教猊下はおっしゃったものです。
「省みるに、童が飢えて死ぬ世に老骨を晒すことの卑しさよな。ワシの立場なんちゅうもんは、つまるところが詐欺師の親玉。手を変え品を変え民をだまくらかすんじゃわ。どうか愚かにも幸せに死んでくれろとな。だまされて笑ってくれろとな」
清貧を極めて私財を持たず、信仰に身を捧げて妻帯せず、決して自らを誇ることのない方でした。港町生まれのわたしに海の話を聞きたがって。水平線に憧れて。
「さあ行け。孫娘のようでもあったお前よ。勇ましき神官戦士よ。行って大いにその力を振るえ。強く、自分らしく誇らしく……アレカシ」
そして、潮風に吹かれることもなく、領都で炎に包まれてしまいました。
大恩を受けておきながら……側でお守りすることも叶わなかったなんて。
「ヒクリナさん。近く砦へ赴かれるとか」
困ったように微笑む、王太子殿下側仕えのユニカントリポトフ・メロ様も。
「あの、よろしければ、兄の様子を見てきてくださいませんか? 軍官としてキチンと務めているかどうか……才に富んだ人ではあるのですが、人より多くができる分だけ余計なこともするというか。父に似て騒動屋というか。とにかく心配で」
親切で誠実な方でした。大神院の主催する慈善活動に何くれとなく協力してくれましたし、わたしの家族についての話を好んで聞いてくれて。笑ってくれて。
「父もいい歳です。母が亡くなってからはめっきり食も細くなりました。兄に会いたいのじゃないかな……顔を合わせれば皮肉の応酬に終始するんですけどね」
そして、家族の再会もなせないまま、王城で凶刃に倒れてしまいました。
駆けつけても間に合わず、看取っても弔えず……逃げるよりなかったなんて。
ああ、神様。
人間に火と刃の加護をお授けたもう、鬼神様。
魔龍二柱が相争い、あらゆるものが失われていくこの末期の時勢に、あなた様はご降臨なされました。聖典に記された予言の通りに。
人間の秘宝『始原灰』と、王族の尊貴の血潮と、絶望に喘ぐ人々の祈念。
それらをもってする大秘術……神々の世界へと願いを届けるもの。
何百年も繰り返し行われてきた儀式が、ついに成し遂げられたんですね。人間が滅んでしまう前に、間に合ったんですね。こればかりは……他の何をおいてもこのことばかりは、失われたりしないんですよね。そうですよね。
怖い……怖いです。
無慈悲な世界です。人間として在ることは、ひどく、心細いんです。
だから、祈りの形に組んだ手が、震えますよ。結んだ唇がわななきますよ。未来に期待しないと生きられないのに、希望を抱くことが恐ろしくもあるんです。
「ヒクリナ殿、お座りになられては……」
「お気遣いありがとうございます。でも、どうかこのままに」
「しかし、食べず休まずでは」
「祈りたいんです。ここで、もう少しだけでも」
「……せめて水差しをお持ちしましょう」
兵士の方にはご迷惑でしょうね。この展望塔は砦の南側を警戒するもの。かつてならばいざ知らず、前線も後方もない今となっては重要度が増しています。
陣構えのように設置されている無数の幕舎は、身を寄せ合う民の在り様。砦以南の方々から避難してきて、ここより北へ行くこともできずに、数も薪も足らない篝火に白くため息を吹きかけています。
追い詰められています、わたしたちは。日常を失って、不安と疲労に押し潰されそうになっているんです。
それでも、立ち向かわなくてはならないから。
人間が人間である限り、戦わないわけにはいかないから。
アンゼさん。あなたもここに立ったんですよね。この展望塔の窓際に。
迫り来るヴァンパイアの軍勢は、かの者たちの残虐さをよく知るあなたですから、殊更に恐ろしいものであったでしょう。シラ様も戦われたと聞きます。ご息女を亡くされたあなたですから、さぞや胸の潰される思いだったでしょう。
それでも、あなたは真っ直ぐに見届けたんでしょうね。強い強い心根で。
早くお会いしたいです。見習いたいんです。
今、どの辺りにまで来ているんでしょうか。
世界は暗くて。寒くて。夜は明けているはずなのに、空を覆う雲が厚くて。草原には影が濃くて。うなるような風がこの身を削いでいくようで。
それでも、膝を抱えたくないから。
前を向いて生きたいから。誇らしく在りたいから。
大司教猊下の望まれたものに似た、遥かな地平に臨んでいるんです。遺品を手に、メロ様が会いたがっていた方を待っているんです。それに、アンゼさん。わたしはあなたとシラ様と一緒に、温かなものを食べたいんです。
わたしが知り得たナザリス・ウィロウ様の真情を、アギアス・ウィロウ様へお伝えする義務もあります。大神院の生き残りとして果たすべき責務もまたあります。
何より、使徒様に……クロイ様に拝したいです。
クロイ様がおられることの幸福を……畏くも神在らせらるることの奇跡を……感じたいんです。これは甘えで、弱さかもしれないけれど。
南の彼方に、もや。
ううん、あれは砂煙。低く広がるから徒歩。一部の高さは騎馬。広がり方からして万を超える集団。兵気の散らばりようは、非戦闘員を抱えているがゆえのもの。歩みはしっかりとしていて、一片の迷いも見られません。
来てくれました。到着してくれました。
あれこそは最後の軍団……人間が世界へと掲げる、決戦の刃。
「神様。人間を護り導きたもう神様」
左の手に聖印を握り、右の手を伸ばして。
「戦い続ける者の念願に加護を。抗い続ける者の宿望に祝福を。人間が連綿と積んできた思いが、怒りと哀しみが、どうか実を結び浮かばれますように。わたしたちの誰もが、生まれたことを恨まずに在り終われますように……デ、アレカシ」
祈りを済ませて。
鉄兜を拾い上げて。立てかけておいた斧槍を握って。
いざや聖戦へ。神官戦士ヒクリナ・ズビズバン、推して参ります。




