67 騎士は目撃し挑戦する、巨大なる悪意へと
火よ。炎よ。焔よ。神よ。
力を。ワタシに魔を討つ力を。ワタシたちに邪を祓う熱を。
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喉がひりつく。鼓動が強く胸を打つ。震える手で、剣の柄頭を握りしめている。恐ろしい。衆目がなければ逃げ出しているほどに。
こんなものか、私は。アギアス・ウィロウは。
名にし負う武門の棟梁であるからといって、どうしようもない。人間の主席であらんと志したところで、ひとりの人間であることに変わりない。弱い。そう思い知らされてならない。
あれが、デーモン。
トロールに勝る再生力、バグベアを子供扱いする膂力、オーガも怯える凶暴性、サイクロプスを見下ろす身体風格……伝え聞くそれら形容は、なるほど正しいが。
あの在り様は、怪物だ。圧倒的にすぎる。
「す、素晴らしい! 素晴らしいいい!」
誰だ。気のふれたような大声。敵陣の中央。黒衣の男。
「見ろ! あの凄まじさ! ひはは! 人間なんてゴミだ! 貴族も奴隷もあったものか! 王都も王城も、何のことかある! 全部、全部、意味も価値もない!」
叫ぶ男の肩には星の腕章。取り巻く者たちにも。あれらが『星明かりの団』か。王権を批判し、ヴァンパイアへの服従を主張してきた政治結社。
「皆死ねばいい! 全て壊れればいい! どうせ下らない! 生まれで全てが決まる世界なぞ! 肥え太る大人の傍らで子供が飢え死ぬ世界なぞ! 人身が売り買いされる世界なぞ! 弱者が強者の喰い物にされることをもって摂理とする、まるで公平性を欠いた、こんなにも馬鹿馬鹿しい世界なぞは!」
お前は、嘆き嗤って、世を糾弾するのか。血の涙を流して。
「醜悪極まる! 生きるに値せん!!」
いかなる悲惨な来し方が、ひとりの男にそんなことを断言させたのだ。どれほどの悲嘆が、かくも賛同者を集わせ、かかる決起を遂げさせたのだ。
黒衣の男は、砦以南で煮詰められた絶望の、象徴のようではないか。
「今こそ! 我ら人間は! 魔神の偉大なる御力で滅ぶべし! なんとなれば! この益体もない生の終わりは! せめてせめて! 神の手によるべきだからだ! 大層なる最期であって初めて、我ら人間は、生まれ落ちた徒労を……」
潰れた。飛来した瓦礫が男を潰してしまった。デーモンが放ったものだ。
更に来る。幾つも幾つも来る。童遊びのようにして家屋の壁や柱が飛んでくる。人を呆気なく肉塊にするそれらにかかっては、轟音地に響き土埃空を覆うばかり。誰の死も、数えることすらできずに掻き消されてしまう。
避けようという気にならない。これはもはや災害であって、抗いようもない。
ゴミ……か。
なるほど。こんな死に方には意義も名誉もありはしない。確かに下らない。
「ひぎゃあああああんっばっ!? ぷぎゃわわわわわ!!」
何だ。悲鳴にしては滑稽すぎるそれ。
王妹か。神輿から落ちて、這いずるようにしてこちらへ来る。デーモンから少しでも遠ざかりたいのだな。手も足も動かず、肘と尻とで草汁に塗れながらの匍匐。
「ひいっ、ひいっ、怖いっ、助けてっ、怖いっ、死にたくないっ」
ああ……人間がいる。
涙と鼻水とで汚れて、それでも足掻く生き意地は……人間の在り様そのものだ。
我らは弱い。どれほどに力を合わせ、技を研ぎ澄ませたところで、ドラゴンやデーモンの暴威に晒されてしまえば風前の灯火。心身を熱し輝かせたところで、死の闇を打ち払うまでは至らない。それが現実。
だからこそ、手を差し伸べよう。
馬を降りよう。王妹の手を取ろう。布で顔を拭おう。助け起こそう。戦陣を向かい合わせた者たちへも眼差しを向けよう。迎え入れよう。同胞らしく振舞おう。
善悪も功罪も利害も……人間同士の諸々を、今この時は脇へ留め置く。
我らは同じだ。等しく弱い。ひとりでは胸を張って立つこともままならないが。
「……案ずるには及ばない」
思い出されるのは、今にして思えば拗ねていたのだろう昔。開拓地へ押し寄せた魔物津波を前にして、せめて綺麗に死にたいものだなどといじけたことを考えて。
「絶望が襲い来ようとも、剥き出しの心で怯える必要などない。見るがいい。我らはもう、ひとりではない。見捨てられた存在ではないのだ」
神院の物見台から、私は、彼女の初陣を目撃した。黒髪の少女の激闘を。
「真実、神が在らせられる。信じ、祈り、奉ろうではないか。人間を愛し、加護を下さりたもう神へ……彼女を通じて」
クロイ。
家名なく来歴も不明なお前という人間は。
総身から火の魔力を立ち昇らせて、馬上よりデーモンを見据えるのだな。いつものように駆け出しはしない。単騎でもない。周囲にウサギたちを集わせて、幾百幾千の剣角を掲げられて、双剣に炎を揺らめかせる騎影はまさに迎撃の構え。
背が、無言の内に問い掛けてくるようだ。
汝、己を誇り戦う者か。
汝、我と共に戦う者か。
汝、神を信じ戦う者か。
おお……恐怖の霧が晴れていく。答えるよりも早く手は剣を抜いていた。私よ、アギアス・ウィロウよ、お前は戦う者か。心よりも先に魂が応じていたか。
「全軍傾注!!」
震えは止まった。声も出る。後のことは、練り上げてきた戦法戦術のままに。
「我らはこれよりデーモンと戦う! これを討つことをもって、魔神に、世界に、人間の尊厳を知らしめるぞ!」
肩越しに、クロイの火色の瞳が私を認めた。ああ征くとも。私たちはお前ひとりを戦わせはしない。共に在るぞ。世界へ挑むぞ。
「司祭殿、義勇歩兵を率いて、戦えぬ者たちを後方へ護送せよ! そしてしかるべき場所に拠点を設営するのだ! 兵長、火防歩兵は迂回して王都へ突入、民を救い出して、その時には形を成しているであろう後方拠点へ!」
この戦いは人間の救済でなければならない。より多くを生き残らせなければ、何の意味もない。やれることは全てやらなければ。
「司魔殿、魔法部隊は切り札となる! あれなる丘の上へ布陣し、合図を待て! 軍官殿! 義勇騎兵をもって魔法部隊を護衛せよ!」
火魔法だ。デーモンに対しては刃よりも炎だ。ヴァンパイアの上位に位置するものならば、怪力頑健という長所を同じくする一方で、弱点もまた類似しよう。軍陣を焼く火炎をもって一個の巨怪を一撃してくれよう。
「マリウス! 王都に残るヴァンパイア一千骨を撃滅せよ! お前の獲物だ!」
乱暴な指示だ。しかしこれでいい。マリウスが不敵に笑む。
「オリジス! 連携してデーモンに当たるぞ! 私の一千騎が速度で攪乱する! お前の二千騎は打撃の担当だ! 我が軍随一の《爆炎》に期待する!」
応ずる声のひとつひとつが、無数の戦意の呼び水となる。消沈していた士気が熱く甦る。雄叫びがあちらこちらで上がる。兵気が昂る。
さあ、クロイ。我らはこの通りだぞ。
お前がどう動き、どう戦おうとも、必ず協力してみせる。隣で戦ってみせる。
「全軍、行動開始!」
デーモンが来る。巨大な暴力をもって人間の都を踏み潰し、我らを終わらせるべく迫り来る。その一歩一歩が大地を震わせる。しかしもはや怯むまい。馬が蹄でもって地を掻いた。こんなものに動ずるものかという、軍馬の心意気。
む、何だ。どうした。デーモンが屈み、すぐに再び立ち上がった。黄色く妖光を発する瞳が細められて……牙の並ぶ口腔が開いて……おお、奴め!
人間を喰らうのか! 我らの目の前で! 見せつけて!
何という悪意!
これが……この在り様こそが、残酷なる世界の象徴とでもいうのか!
誰かが叫んだ。
私か。それともオリジスか。いや、誰もが叫んだのだ。デーモンの手の内で既に握り潰された誰かたちに、己の大切な人々を重ね合わせて、絶叫していた。
それが、一撃となった。
我らの声を受けて飛翔した、一筋の火。流星のごときもの。
槍。クロイの投じた手槍だ。鋼鉄の鋭利に魔力の炎熱を輝かせ、世界を切り裂き飛んでいく。とてつもない飛距離。槍自体が突進する力を持っているかのようだ。
当たる。それは。
デーモンの手を貫き、犠牲者を燃やして、更にはそのまま突き刺さった。デーモンの右目にだ。おぞましい悲鳴。顔面を押さえて悶える様は、忌まわしいまでに感情が察せられる。驚愕と動揺。邪悪とは知性のある存在にのみ宿る。
零れ落ちていくもの、二つ。
ひとつは、煙を上げて融け落ちた、デーモンの眼球。
もうひとつは、せめてもの慰めか、火葬された犠牲者たち。
一撃に、クロイの意思が現れている。赫怒をもって理不尽なる世界に挑み、悲嘆をもって死者たちを送る……クロイのこれまでは、まさにそんな日々だった。
そして、また駆け行くか。クロイ。行動でのみ雄弁に語る使徒よ。
我らも行くぞ。これまで以上の働きを為すぞ。
そして、今ここに、世界を覆すのだ。




