63 ペンタゴンにおける困惑/侍祭は出発する、希望を担って
王都が近づくにつれて、神の気配が強まっていく。
これは人々の祈りのため? それとも、敵が強大だから?
◆◆◆
埃とシリコンオイルの臭い。鼻の奥を刺すオゾンによる蝕み。
どうして電脳対策室の空気はこうも人を追いつめるようなのか。色味のない静謐の中では、プリントアウトした国旗だけが鮮やかだ。エルフ、エウロゴンド共和国の旗。風の白色と水の青色。空を思わせて。
ウォーターサーバーから水をひとカップ。クリアであるがゆえの味気なさ。水分の摂取でしかないこのひと口が、乾いた喉には痛い……わっ!?
しまった! こぼした!
おお。奇跡だ。遠心力か表面張力か、こぼさずに済んだ。危うく機材を濡らすところだったぞ。こんなことが原因で任務を失敗したら、悔んでも悔やみきれない。
ふぅ……集中しなければ。
モニターには、時の流れもあやふやな、異世界の風景。大陸の中央平原。『コマンダー』を中心として見下ろすエルフ軍の様子は、高層から眺めやる道路の喧騒にも似ていて、わずかな臭気も感じさせない。遠く、模様のようですらある。
空軍の電脳将校め、ここからどんな情報を見出せというのか。サブモニターに示された数値の方が余程に多くを教えてくれているぞ。スーパーAIは有能なり。
戦況は悪くない。戦線は安定している。
このまま、ヴァンパイアの攻勢限界を待つというのも悪くないな。
一時は昼夜問わずの連戦を余儀なくされるほど苛烈であったというのに、このところの動きは実に消極的だ。それは、兵力はあれども士気が低いということ。
雨風を伴う嵐でも来れば、一気に……いや、偶然を待つ心理は危ういな。
最悪を想定しよう。最強の敵を相手に、最適を選び続ける覚悟で。
そう……あるいはこの現状も、第二攻勢に備えて満を持する構えかもしれない。そうだ、油断は大敵だ。不自然さを疑うことで万全を期さねば。
そもそも持久戦はありえないのだ。ヴァンパイアの戦闘教義は極度に攻撃的なのだから。しかし『ゴールド』を失ったことにより挽回の奇策に走る可能性はある。攻略会議でも最も警戒すべきとされた点だ。
つまり、戦線南端からの迂回攻撃が第二攻勢の鍵だろうか。未確認情報だが『サンダー』の率いる三万からの兵力であるというところの。
もしも事実だとして、『シールド』の防御性能に加えて『ウォーター』の制圧能力をもってすれば、相当の確率でもって『サンダー』の撃破が叶うだろう。そうなれば彼我の戦力比は大きく優勢に傾く。ヴァンパイア領への侵攻を決断できる。
問題は……この、亜人領域にまつわる情報だな。
戦争の片端の出来事とはいえ、奇異にすぎる。
西南の端より『ブレイク』が侵出、亜人国家の首都へ迫る……か。いかにヴァンパイアの踏破能力が高いとはいえ、さすがに無理のある話だ。エルフの飛行をもってしても、かの山脈を越えることは至難なのだから。
そして……亜人の中にユニークユニットが生じたかもしれないとは。
しかも、よりにもよって、それが『火の力』であるなどとは。
あってはならないことだ。
魔神を称する何者かが、異世界に干渉するという荒唐無稽な手段をもってして獲得しようとしている『力』……まさに悪魔の所業……入手を阻止しなければならないものの内の筆頭こそが、『火の力』。
火。多くの神話において、文明の起源とされるもの。神聖にして大いなる力。
我らの文明とて、根幹のところには火がある。多種多様な火が。
忌まわしくも『雷の力』は押さえられた。何とか『水の力』だけはこちらで押さえたものの、既にして前例なき大犯罪は動き出している。世界は危機にあるのに。
亜人が『火の力』を持つなど……アジア人国家が核を保有するがごとき暴挙。
真実ならば、いっそ奪取しようか。ヴァンパイアに先んじて。
そう。そうだ。それがいい。亜人を滅ぼすことなど容易いし、『火の力』を得たエルフならばヴァンパイアの攻略もスムーズなものとなるだろう。うん、名案だ。迂遠に見えて極めて効率的だ。次の会議で真っ先に提案しよう。
端末にメモを……うん? メッセージを受信していたとは、いったい何事だ。異世界への接続中だぞ。些細な刺激が取り返しのつかないことをも招くというのに。
差出人は空軍中尉か。電脳将校というのは、どこか非常識な……な、に?
亜人の神は日本人の疑いあり、だと?
何だそれは……どういうことだ、それは!
◆◆◆
「準備はよろしいかな、ヒクリナ侍祭」
「はい……」
「おや、顔色が悪い。しかし無理をしてもらうより他に術もなし」
何の準備かを思えば、返事はできても、顔を見ることなんてできませんよ。
目の前には四頭立ての荷馬車。補強という補強を加えてあって、まるで動くお城のよう。車輪も特別製。替えの車輪を運ぶためだけに別の馬車も用意されていて。
「護衛には騎兵と歩兵の混合中隊をつける。この任務の重大性を思えばいかにも小勢だが、これでやってもらうよりない」
領民の避難に兵を割き過ぎてな、なんて吐息されても困ります。
甲冑の上から白装束を羽織って、剣帯には辞世句を結って、首には潔白の白粉、唇には薄紅……生きて戻らずの恰好じゃないですか。
名門ウィロウ家の嫡男、ナザリス様。
その怜悧な面相に、冷たく戦意を研ぎ澄ませて。
「ここより北は悪路続きだが、十日もすれば難所を越える。それでもう追手の心配はないだろう。あとは精々、荷を損なわないよう注意を払うことだ。馬が潰れたならば人で運ぶという手もある……祭神輿を地で行くようではないか」
どういう微笑み。ううん、どうして微笑めるの。そうも愉快げに。
わたしたちをここまで護衛して、砦へと向かわせたなら、あなたたちはすぐにも領都へと引き返すんですよね。あなたのお父様の、ウィロウ家棟梁の率いる軍に合流して……ヴァンパイアを迎え撃つのですよね。
でも、それ、初めから相討ち狙いの作戦じゃないですか。
お年寄りの兵隊や、復讐を本懐とする戦士、汚名を雪ぎたい騎士、死に狂いの傭兵、長旅に耐えない傷病兵、果ては犯罪者や食い詰めの冒険者まで寄せ集めて。
領都そのものを餌に、ヴァンパイアの追手を撃滅する気なんでしょう?
きっと……全てを炎で包んでしまうつもりなんでしょう?
だって、ほら、あなたの供回りの五十騎は皆してあなたと同じ格好。死に臨む戦装束。澄んだ瞳に、世界の在り様を音もなく映し取っています。
「ふ……そう悲愴な顔をするものではない。美人の涙は外聞が悪い」
「わ、わたしは……!」
「俺は、もう十分、醜聞に塗れている。武門にあるまじき所業に明け暮れて、人間の欲得にべっとりと汚れている。それでも、婦女子への振る舞いだけは徹底して清くあったのだ。母上に恥をかかせるわけにはいかなかったのでね」
だから泣き止んでもらいたい、なんて。
何て勝手な物言い。この人も、この人を慕って最期を共にする人たちも、もう未来を見ていません。過去をじっくりと振り返って、満足してしまっています。自分の死を納得してしまっているんです。
カッコつけ、ですよ。カッコいいまま、笑って死んじゃおうなんて。
そんなの、どういう顔をして、見過ごせっていうんですか。
「使徒様たちの軍へ、援軍は求めましょう! 今からでも急使を出せば……使徒様ご本人でなくても、彼らの、火魔法を用いた新戦術を駆使すれば!」
「笑止。陽動のために主戦力を割くなど兵法の愚。ましてや荷のこともある。決戦地点をずらす、もしくは分けるがごとき行動はまさに愚の骨頂であろう」
「それでも! 愚かでも! それで助かる命があるのなら!」
「多くを生かすためにこそだ。これから生まれ来る命も数えて、大を採るのだよ」
「そんな……きっと、方法が!」
「割り切りたまえ。この陽動には、旧世代のしがらみと腐敗とを焼却する役割もあるのだ。王妹の愚挙妄言を思えば……どうあっても断行しなければなるまいよ」
「どうして! どうしてそんなに……えっ!?」
わたし、今……頭を撫でられているの?
「神官戦士とは難儀なものだな。優しいままに強くなっては……笑うことよりもむしろ泣くことの方が多かろうに」
ひどい。また微笑むんですね。死んじゃう気のくせに、静かに穏やかに。
「あなたも……優しいじゃないですか」
「優しくはないな。死ねば終わる方の難儀を引き受けて、生き続けねばならぬ難儀を弟たちへ押し付けた。何と無体な兄かと恨まれるだろう」
「弟さんたちが……ウィロウ卿や三男四男殿が納得するとは、思えません」
「アギアスは、納得する。天賦の将才が納得させずにはおくまい。オリジスはうるさく騒ぐだろうが、マリウスがうまくなだめるだろう。あれは母上に似ている」
ダメです。わたしが何をどれだけ言い募ったところで、この人の心には少しも届きません。この人たちの戦いを止めることは、できそうもありませんよ。
涙が、後から後から零れていきます。でも、嗚咽だけは堪えて。
「ヒクリナ侍祭、勘違いをするな。苦難に苛まれるのはむしろ君たちの方だぞ」
苦難。生きることも死ぬことも、この世界は苦難に満ち満ちています。必死に歯を食いしばるそばから大事な誰かが死んでいく……そんな世界です。
「確かに、領都は燃え滅ぶだろう。俺も父上も、大司教猊下も、国王陛下すらも、皆等しく炭となるだろう。しかし、それはある種の救いでもあるのだ。国家の終焉に枕して眠るのだからな……」
細めた目で遠くを見やって、大きく息を吐きながら、こぼしてくる言葉。
「……疲れ果てた者が生き終えるのに、これ以上の区切りもなかろう」
嘘です。それ、理屈でしかないです。
だって、あなたは今、誰かへと思いを馳せました。大神院のお勤めでいつもいつも見てきましたから、わかります。人が大切な誰かを想う横顔は、特別なんです。真摯で、真剣で、真心を表わしていて。
あなたは涙を見せられない立場にいるから。たくさんの覚悟を重ねてきたから。汚いと感じるものを、汚いと感じるままに、今日まで来てしまったから。
そうやって、粛々と、自らの役目に殉じるしかないんですね。
「さあ、行きたまえ。ヒクリナ侍祭。神、在らせられたもう新しき世のために……人間が真っ当に生きられる明日のために……その荷、必ず運び届けるのだ」
頷くしか、ないです。だってそれがわたしの役目ですから。
荷馬車。特別に堅牢なそれ。
荷台に乗っているのは、大きな大きな鉄の釜。その中身はこの世界に唯一無二のもの……『始原灰』。火の奇跡の源とされている秘宝。事実、火魔法を司るもの。
絶対に届けなければなりません。
砦へ。今や人間世界で最も安全な場所となったそこへ。この命に代えてでも。




