60 騎士は画策し志望する、人間の英雄であることを
神の力は圧倒的だ。熱く、強く、激しい。
だから、翻弄もされる。酔いもしたのかもしれない。
◆◆◆
灯火に照らされた地下区画は火の色が強い。常夜ならぬ常夕といったところか。
足元がざらつく。木炭の粉混じりの灰を撒いてあるからだ。淀む空気に混じる、油と獣の臭い。いざとなればここを炎上させるための仕掛けと……そうせずに済んだ結果の、捕虜から漂うもの。
地を這うような唸り声を跳ね除けて、コツコツリ、コツコツリと響く音。ゆっくりと近づいて来るそれを待つ。
「おお、ウィロウ卿ではありませんか。このようなところへ」
「夜分に邪魔をする」
行灯を手に現れた男の剣帯には、家紋。地下牢の警備を上級将校が監督するなど異例だが、捕虜の異常さを慮ればむしろ当然の備えだろう。
降伏したヴァンパイアは、四百二十六骨。
地下牢を埋め尽くしているその兵力は、この砦を一夜で陥落させかねないほどのものなのだから。
「捕虜たちの様子はどうだろうか」
「大人しいものです。例の黒縄が実に効果的なようで」
「そうか。あれには焼炎筒用の油を染み込ませてあるから……」
「承知しております。どうかお任せを」
扱いに気を付けるよう言うつもりだったが、そう返されては何も言えん。事実、彼には判断を任せている。すなわち―――。
手に負えない抵抗を見せたならば、捕虜を焼殺せよ。
必要とあらば地上へ続く鉄扉を閉ざし、地下牢ごと焼却せよ。
重大かつ至難の役目だ。ヴァンパイアとはいえ捕虜を焼く決断など非情のものであるし、ヴァンパイアであればこそ実行には大変な危険を伴う。彼は既に遺書をしたためたと聞く。いざとなれば鉄扉を地下牢側から封鎖する覚悟もあるのだろう。
「……卿には苦労をかける」
「なんの、志願してのことです。砦の仕掛けについては、バンドカン軍将閣下より諸々命じられておりましたし……これは生き残った者の務めでありましょう」
歴戦の騎士だ、彼は。ヴァンパイア五千骨との戦いでも騎兵を率いて活躍した。本来であれば、バンドカン軍将の後を引き継ぎ砦駐屯軍を統率すべきであるが。
「ははは、ご安心召され。《発火》についてはシラ殿よりお褒めの言葉を頂戴しております。いっそ、この杖も炭杖と替えていただきましょうか」
彼は実に多くのものを失った。上官、戦友、愛馬……そして右足。もう騎兵として戦場を駆けることはできない。それを理由に砦駐屯軍の兵権を私へ委ねて。
憤懣があろう。忸怩たる思いもあろう。戦争とはどこまでも残酷なものだ。
「……明日にも我が軍の本隊が到着する。フェリポ司祭率いる四千五百卒と眷属獣たちが」
「おお、遂にですか。この地は人間のための最後の砦となりますな」
まさにその通りだな。砦以北の防衛はエルフ軍に委任するより他に術なく、砦以北の情勢は絶望の色が濃い。各都市や農村の被害もさることながら。
王都が、既にして陥落したとは。
しかも、僅かな抵抗もなく、内側から崩れたというのだから。
急使も自害したくなるというものだ。ヴァンパイアの使徒『崩山』率いる五千骨が迫るより早く、民が武装蜂起したなどと……血を吐くような伝達だったな。
扇動したのは『星明かりの団』。ヴァンパイアへの恭順を主張する者たち。その構成員には騎士や貴族も多く交じると聞く。国家上層部がややエルフ寄りであることを思えば、かかる事態を最後の好機とでも捉えたものか。
国王の生死は不明。騎士団が動いたのかどうかも定かでない。民の置かれた状況も窺い知れない。しかし大神院が焼け落ちたことだけは確かだという。
状況は最悪に近い。我ら人間は、滅亡の瀬戸際にまで追い詰められている。
さればこそ、必要なものがあろう。
「卿のことを、司魔殿に紹介しようと思っているのだ」
「北方の開拓司魔となれば、かの、火魔法を甦らせた御仁のことですか」
「そうだ。オデッセン殿は魔法部隊を率いているが、魔法はともかく軍学の方は専門ではない。補佐できる人間がいれば心強い」
「……また、戦場へ立てますか。私は」
その眼差し。双眸の奥に閃くもの。炎のようなそれ。
闘志だ。それが必要なのだ。
危急存亡の秋には、不屈の闘志を糾合しなければならない。人間らしく誇らしく在らんとする気概が、我らの最後にして最大の武器となるだろう。
「頼む。そのためにも、様々に自重してくれ」
「はは……ははは、そうですか。私はまだ戦えるのですか……!」
これでいい。これで、自らを罰するような行いを控えてくれるはずだ。そして、困難へ立ち向かう強さを取り戻してくれるだろう。そんな彼の在り様は、バンドカン軍将を失った駐屯兵たちを勇気づけるに違いない。
ああ……悪辣なことをしているな、私は。
心挫けた者を励まして、死地へ。身体損ねた者を諭して、死地へ。数多の必死を束ねて戦力にしようと画策している。将の真実だ。自らは死なず、兵を死なせることで敵を殺す。今の私は一線を越えていよう。いつか裁かれ、死なねばなるまい。
地上へ出る。夜を仰ぐ。泥濘のような空。雨の気配を嗅ぐ。
人は清廉であるだけでは大事を成せない……か。
ナザリス兄上の選んだ悪辣を、私は認めなかった。王侯貴族への媚び諂いを、他軍閥との馴れ合いを、大商家への強請り集りを、武門にあるまじき堕落と決めつけた。高潔であろうとして、道を違えた。
その矜持をそのままに、半ば脅しつけるような手紙を送って……オリジスとマリウスを迎えることとなったが。
父上と兄上が手配したのだ、あれは。
さもなくば、二人が精鋭一千騎を引き連れてやって来れようはずもない。勝手に兵を割けるほどウィロウ家軍の軍紀は甘くない。
その後も開拓地へと送られ続けた補充兵、武具、軍馬、兵糧……いったいどれだけの資金と人脈をもって実施されていたのか。何が、それを可能としていたのか。今も兵たちの家族を養っているのは誰か。答えは明らかだ。
この亡国の今を、いかに動いておいでか。父上。兄上。
砦にまで戻ってなお、ウィロウ家軍の動向は聞こえてこない。封土がヴァンパイアの進軍路から外れていたとはいえ、座して滅びを待つはずもなし、いずこで軍行動を起こしているのか。
「お、兄者が来た」
「本当だ。ちょうど良かったね」
オリジスとマリウスか。枝で地面に何事か描き合っていたようだが……ほう、布陣図か。中央突出の横陣が、敵の攻勢を受け止めて、完全包囲へと推移していく。行灯の明かりの中に浮かび上がるそれは、先にこの砦で行われた戦模様。
「ああ、これ? 俺がヴァンパイア軍側、マリウスが駐屯軍側で動かしてみたんだけどさ……降参だよ。この戦術は破りようがない」
「凄いよね。ヴァンパイア側がより少数でもより多数でも対応できるんだもの」
「それどころじゃない。擲弾騎兵と火防歩兵でやれば、完璧な包囲殲滅になるぞ」
「敵の中央でオリジス兄上が火車をやってもいいね」
「おい。俺ごと殲滅するつもりか。下手すりゃ圧死だぞ、圧死」
相変わらず仲がいい。そしてどちらも敏いな。図中、最も枝で印がつけられているところは、歩兵中央部隊。その中心。つまりは指揮官。
ため息は漏らすまい。しかし、嘆きの色は隠せまい。
「バンドカン軍将在ってこその戦術だ、これは」
言って、つくづくと思う。雄大な在り様の軍人だった。王都の腐敗に染まらず、さりとて潔癖な孤高に陥らず、砦に在って開拓地全域を支援していた。砦以北と砦以南とをつなぐ国家の支柱であった。
背筋にわだかまる寒気……私は師父を失ったのだ。最も恃みにしたいこの時に。
「兄者にも、できるだろ?」
「……簡単に言うな」
癇に障る物言いだ。不勉強でも不謹慎でもある。オリジスらしくもない。
「いいや、できる。できなきゃならん」
声音に込められたものに、目を向けさせられた。オリジスが私を見据えている。燃えるような闘志……それだけではないな。この熱は私へと放射されている。
「俺たちは王都へ向けて進軍するんだぞ。王権が崩壊し、ヴァンパイアの支配するところの王都へだ。勝たなきゃならん。当然。でもそれだけじゃ駄目じゃないか。恐怖と絶望に喘ぐ民衆に、俺たちが示さなきゃなんないものがあるだろ」
火を吐くような言葉。握りしめられた拳。
「強さだよ。人間の強さだよ。俺たちは弱くて弱くて、魔物だの他種族だのの食い物にされてて、情けなくって悲しくって……怖くて怖くて……それでも誇りを持ちたかったから、歯を食いしばって、剣を手に取ったんだろ? それが軍人だろ?」
まばゆいまでの、オリジスの意志。頬を焼かれるようだ。
「ましてや、俺たちはウィロウ家の男だ。名にし負う武門の出自だ。他よりも強くなきゃダメだろ。しかも、兄者には立場まであるんだ。俺たちの軍の長っていう立場が。誰よりも強く……人間の英雄にならなきゃ。アギアス兄者は」
マリウスも頷くのか。それが、お前たちの結論なのか。
英雄。人間の英雄。
戦うことしか能のないこの私に、己の至らなさ不甲斐なさを知りながらも、人間の主席のようにして振る舞えというのか。
「クロイ様は、強いね。誰にも届かない領域にいる」
マリウスの微笑み。母上に似た、儚くも鮮やかな花のような。
「けれど、クロイ様の本質は強さじゃないと思う。だって、ぼくたちは彼女のようになりたいとは思わない。彼女へは祈るんだ。彼女を通じて神へ願うんだ。加護を賜りたいって。奇跡を、この世界へ振るいたまえって」
手を胸に当てて、それこそ祈るように、言う。
「クロイ様は、人の形をした希望そのもの……ぼくたち人間の賜った、最初で最大の奇跡なんだ。きっと」
そうか。二人の言いたいことが、今はっきりとわかった。
核になれ、と言っているのだな。人間の闘志を集中させる核に……希望を胸に戦う者の第一人者になれと。クロイという御旗を掲げ持つ者になれと。
「そのクロイ様だけどな、だいぶいいみたいだ。さっき汁物を五杯も平らげた」
「っ! 真っ先に報告すべきことではないか」
「え、そう? だって寝込んでても元気そうだったじゃん」
「面白かったよね。寝言が意味不明で。『ぴざがー』とか『どらでもめー』とか」
「いや、しかしだな」
「アギアス兄者さ、クロイ様の身の回りのことになると若干気持ち悪いんだよな」
「えっ」
「なんか娘の世話を焼いてるみたいっつーか……老父の深情けっぽくてさ」
「あはは、わかる」
「えっ」
解せぬ。英雄たれと叱咤された直後の老父呼ばわり。妻帯もしていないのに。
しかし、胸に清涼なものが吹き抜けたのは確かだ。言い知れぬ悪寒も払われて、胸の内の決意も改まった。熱く、己が闘志を感じてもいる。
南方を一望する。戦場と化した砦以南の地平を。
進撃の矛先は……王都。希望の軍団を率いて。




