54 神官は予見し手配する、人間が終わらないための決戦を
神の気配が強まる。火が、赤々と燃え盛る。
戦いだ。大きな戦いが、すぐそこにまで迫っている。
◆◆◆
「おい! やべえ話を聞いたぞ! 今の兵士もどっかからの早馬だろ!?」
「はい。説明しますから、まずはこちらをどうぞ」
祭務室に駆け込んできたオデッセン殿へ、水を一杯。僕も飲みましょう。噛むようにして、ゆっくりと干す。胸の奥にたぎる心火をそれで鎮めて。
「西の方より、万余のヴァンパイアが砦以南に侵入しました」
口にすることすら呪わしい、この事実。
「どうやら指揮者は使徒の『崩山』のようですね。流星のごとき速度でもって西地を縦断、避難民の集まっていた大村を襲って補給を済ませ、聖盾山脈を削るなり穿つなりして行軍路を切り開いた模様です」
オデッセン殿の持つ杯が震え、水の散らかる様は、無言ながらも雄弁に心境を教えていますね。すなわち驚愕と戦慄。むべなるかな。
「お……大村の連中は……」
「……ごく少数の民は、危難を免れたようです」
「山を、削るって……」
「かつてない規模の土魔法が用いられた、ということかと」
ああ、喉が渇きますね。組んだ手の指が強張って強張って、今にも圧し折れてしまいそうですよ。水差しへ手を伸ばすこともできません。
「……平野に出た後、ヴァンパイアは軍を二つに分けました」
唇に鋭く痛み。舐めても舐めても、どうにも乾きますね。吐く息はこうも熱く湿るというのに。
「どちらを『崩山』が率いているかについてはまだ情報が届いていませんが、片方は東進して砦を目指しているものと思われます。その進軍速度はゆるやかですが、それは周辺村落の被害が拡大することを意味します」
兵糧の現地調達。軍学的に表現するのならば、それだけのことだというのに……なんという凄惨さ。いわんやそのおぞましさ。
オデッセン殿の顔色はもう青色を通り越して真っ白ですね。さもあらん。
しかし、残念ながら、僕は更なる絶望をも示さなければなりません。
「もう片方の軍についてですが、強行軍でもって南東方向へと進んでいます」
ビクリと肩が跳ねました。さすがはオデッセン殿。その意味するところを即座に理解しましたか。
「おい、そりゃあ……もしかして……」
「はい。王都を目指していると思われます」
声にならない叫びが僕には聞こえましたよ。大げさな、などと嗤いはしません。そうと推察した時には、僕もまた無言で叫んだものですから。
国が……人間の築き上げた現存唯一の国家、トライアス王国が滅びます。
これはもう動かしがたく確定的で、為す術もなく厳然とした、現実の出来事。中央を捨てた、あるいは捨てられた僕たちだからこそ殊更にはっきりとわかること。
ひとつの歴史が終わろうとしています。
大きな大きな、人間の敗北として。
「き、騎士団は……王都の軍団なら……」
「お忘れですか? 一千骨単位のヴァンパイアと能く戦いえるのは、神のご加護を授かった僕たちだけです」
「だ、大神院がある。それでも……?」
「有り体に言って、従来の信仰は誤っていました。神無き時代の長さが、人の祈る術を歪めたのでしょう。そしてその歪みの総本山こそが大神院。期待など」
非難はしません。神を知った今は、もうできません。
宗教とは神と向き合う概念。宗教団体とは人と向き合う組織。両者は分けて考えなければならないということなのでしょう。誤らないことは必ずしも正しいことではありません。子を喰われた親に神無き絶望を告げたとて何が救われるでしょう。
しかし、実際の問題として、ヴァンパイアに対抗するためには真の信仰が必須。
言うまでもなく、回天には必要不可欠なのですよ。
言うなれば、宗教改革が。
そのために必要な時間は、砦以北において戦うことでもって十分に確保できるつもりでいましたが……なんという浅慮であったことでしょうか。
外より激しい馬蹄の音。
神院前にまで駆けつけるということは急報にして凶報。
近づく靴音と剣帯の音。許可を求めずに扉を開け放ったのは、おや、オリジス殿でしたか。なんという眼光。戦場の気配を身にまとっていますね。
「周辺巡回中、ヴァンパイアに襲われている一騎を救援した」
「ヴァ、ヴァンパイアって、お前」
「噂通りだったってことだろ。北から侵入されたのか、西から流れてきたのか……どっちにしたって状況変わらない。北地に敵が浸透しつつあるってことだ」
「戦局はその段階にまで至りましたか……それで、援けた一騎というのは?」
「黄土新地からの早馬だ。越権だとは思ったけど俺が話を聞いておいたよ。書簡が血塗れになるくらい傷が深かったから……さ」
「我々の間で地位肩書など手段でしかありませんよ」
国家滅亡の未来を予見した今、言葉に万感の思いが乗りますね。絶望に病んだ王侯貴族にとっては、地位肩書こそが生きる目的。かかる危急においても魔薬の妖夢にも似た滑稽を踊っていることでしょう。
「で、オリジスよ。軍尉は何て言ってきてるんだ?」
アギアス殿の選択……黄土新地に駐屯することの意味は、遊撃の都合ばかりにあらず。さて、捕虜尋問の成果でしょうか。それともあるいは神の託宣でしょうか。
「例によって兄者は色々と言葉が足りないけどな……ひとつ、捕虜の証言によると、大陸中央のヴァンパイア本隊から三万骨ほどが南下してくるそうだ」
ひとつ目から、こちらの言葉を失わせてきますか。
三万骨。眷属獣を伴うとなれば六万兵力ということもありうる数字。そんなものになだれ込まれては、我々の戦力を総動員したとしても圧倒されかねません。
そして、それはそのままに、人間の終わりを意味しかねません。現状では。
「……おい、司祭さんよ。こいつはまさか」
「はい。まず間違いなく砦以南への侵入と連動していますね。砦以北にとってみれば大規模な挟撃を受ける形です」
「兄者もそう見た。だが、パインは更にもう一歩踏み込んだ推察をしたみたいだ」
「ほう、我が友は何と?」
「標的はクロイ様、だそうだ」
なるほど、ありえる話です。現地で敵と駆け引きをしたヤシャンソンパイン君にしか察せられない何かがあるのでしょうし、これまでの報告とも符号します。
そう……ヴァンパイアの狙いがクロイ様であるのならば。
ひとつの狡猾な軍略が浮かび上がってきますよ。
初手。広く西地を戦場としたことは地ならしと瀬踏み。クロイ様が出張ってきてもこなくても問題なし。しかし姿を見せたのならば、多少の戦力分析などをして、引き上げます。もとより使徒を討てるほどの戦力ではないのですから当然のこと。
次手。軍勢を黄土新地へ。街を襲うでもなく脅威をだけ示して、確実にクロイ様をその場に招き寄せます。釘付けにします。労少なくして結果を望める差配。
三手目は初手と次手とを活かした妙手。地ならし済みの平野であれば、一万からの兵力を一気に走破させたとて人間に気取られることはなし。クロイ様もいないのだから、まず問題はなし。『崩山』の力で山を削り、砦以南へと侵入。
そして四手目。南から砦へと攻め上がってクロイ様の退路を断ち、北からの主力でクロイ様を討つ、と。
なるほど……なるほどですねえ。
魔神を感じますね。人間国家の滅亡を途中過程とする辺りに、大変な悪意がありますから。絶望の底にまで落としてから殺してやる、ということでしょうから。
「二つ目、そろそろ報告していいか?」
おや、気を遣わせてしまいましたね。僕としたことが。水差しから一杯注いで、勧めましょう。ほら、オデッセン殿もしっかりしてください。
「捕虜が、北からの三万を『艶雷』が率いている可能性を示唆した」
「……疑わしい話ですね、それは」
「疑わしいなんてもんじゃねえだろ。黄目の使徒が全部こっちへ来るなんざ、あってたまるか。仮に事実なら耳長が黙っちゃいねえって」
「まあ、普通に考えればそうなる。だが、少なくとも途中までは『艶雷』が率いていたと……クロイ様が断言したって」
なんと。それは。
それは、つまり。
「あと、最後の三つ目だけど、『崩山』は南へ向かっているってさ。これもクロイ様の判断な」
「おい……おいおいおい……それって」
「ええ。疑う余地なしということですね」
神託ですよ。神託ではないですか。
それを授かった感動に打ち震えるべきか、それが授けられるほどの状況に慄くべきか……とてもとても悩ましいところですね。
しかし、明確に悟りましたよ。
人間の存亡は、まさに、今この局面における判断で左右されるのですね。
「ふう、水がうまいや……オデッセンさんも飲めばいい。そんなに杯を握りしめていないでさ」
「お、おう……しっかしお前さんは落ち着いてるな。武門の育ちだからか?」
「将校だからだよ。大きなところの話はわからなくていい。戦場を示してもらいさえすればそれでいい。いつも通り、命を懸けて戦うだけだ」
「いや、まあ、それにしたって」
「奉る神が在る。戴く使徒がいる。服する上官を信頼している。語らう戦友が頼もしい。率いる部下と共に死んでも悔いがない。武人の本懐って、これさ」
うふ、その口振り。僕を見るその眼差し。さすがはウィロウ卿の弟といったところでしょうか。ええ、ええ、わかっていますよ。
戦場を手配しましょうとも。回天を成すための、決戦の舞台を。
「神託の情報を用いて、エルフと交渉します」
そう、巻き込まないわけがありません。『万鐘』は当然のこと、『水底』も『絶界』も引き込んでみせます。デーモンもドラゴンも現れればいい。そして滅べ。それくらいでなければいけません。むしろ最低条件ですよ。
「共闘条件を諸々整えた上で、我々は砦以南へ打って出ます」
魔神の策を逆手に取るためには、それしかありません。
「『崩山』の軍勢を打倒し、即、北へ転進……魔神の城を攻めるのですよ」
絶妙手で、あれ。
人間が存続していくためには、もう全力の攻勢しかありえないのですから。




