32 騎士は疾走する、速く鋭く/末弟は差配する、敏く賢く
神よ、そこにいるのですか。
神よ、どうして、ワタシは動けないのですか。
◆◆◆
頭痛を伴う耳鳴りと、鼻をつく異臭。四肢がしびれ、鈍く痛む。
視界に焼き付いた紫色を瞬き払えば……惨状だ。何百人と兵が倒れ伏し、地には破壊の爪痕がひび割れのように広がっている。誰も彼もが朦朧としている。
これがヴァンパイアの使徒の力か。これが彼奴らの奉ずる破壊の力か。
凄まじい威力だが……甚だしく、幼稚でもある。
慢心が透けて見える。いい加減さが見て取れる。
あの日、暮れなずむ開拓地の空に見上げた、エルフの大魔法……精緻を極めつつも気宇壮大な音曲詩想……比べるべくもない。身体こそ痺れ痛むものの、心を打ちのめされるような衝撃は何ひとつとして、ない。
ただの力任せだ、これは。
かかる暴力を制するためにこそ、私は軍学を修め武芸を磨いてきた。粗野なばかりの大魔法など、このアギアス・ウィロウの心胆を寒からしめるものではないぞ。
「全軍、方円の陣! 負傷者を内側に!」
見る限り、軍は半壊だ。
新地義勇軍と開拓地歩兵の被害が大きい。落雷の性質を鑑みれば、長槍を立てていた者の多寡が影響したのかもしれない。旗持ちも軒並み倒れているし、フェリポ司祭も足腰が立たないといった様子。
残存戦力は……一千数百といったところか。
その内の最大はマリウス隊の四百騎余りだな。オリジス隊の援護にと、隊を細かく展開していたことが幸いした。
次いでオリジス隊と魔法部隊のそれぞれ二百数十だが……あれは下げた方がいいだろう。まともに立てない者が多い。魔力の消耗が影響しているのかもしれない。ありうる話だ。自然現象としての雷ではなく、魔法の攻撃であったのだから。
我が隊は……ふ……点呼をとるまでもなく全騎揃っているな。いかなる攻撃であれ、当たらなければいいだけのこと。そう、クロイ様より直々に指導されている。
そのクロイ様は……馬上にあって身じろぎもしない、か。
血と汗に塗れて、黒髪もまたそよとも揺れない。心の動きが見えない。傷だらけの軍用外套を見れば、激闘であったことは知れるが。
何かが虚ろだ。まるで闘志が感じられない。
垂れ提げた手から、剣が離れて、地へ落ちるよりも早く消えていく。
ここが……決断の時か。
「全軍、後退する! オリジス、その指揮を執れ! マリウス隊は遊撃として敵を牽制しろ! 後退始め!」
弟たちよ、同志たちよ、クロイ様のことを頼むぞ。
その少女は希望だ。まだ確固たる現実とは成りえていない、遠く遥かに望む輝きなのだ。我らはそれを希求し、それに祈願し、それへ献身する。そうせずにはいられないから、ここにいる。あるいはここで死んでいく。
そして、戦いは今日のこれきりではない。
勝ち戦も、負け戦も、我らは何度となく繰り返すだろう。
当然だ。この絶望に満ちた世界で回天を企てるのだ。勝ち続けることも、一度きりの勝利で決着することも、あろうはずがない。
世界はそれほどに単純でなくていい。しぶとく挑み続けたその果てに、回天を。
その覚悟をもってして……我らはこれより鬼となるのだ。
「全騎、抜剣」
雷火に洗われた荒野を、新手が迫り来る。ヴァンパイアと黒狼。どちらも人間を喰らう怨敵だ。多くの同胞を牙にかけ、今、我らの希望を害さんと口腔を晒す。
その、憎き在り様に、用があるぞ。
駆ける。隊形も戦術も命ずるまでもない。この二百騎は古参の中の古参だ。歴戦の中の歴戦だ。特別な訓練も、共に、他より何倍と積んできた。
人馬一体の我ら二百騎は、もはや、強力な一騎のごとくであるぞ。
血に飢えた黒狼の群れなど、造作もない。ひと塊の馬列のまま、ただ斬り払う。実際に斬ったのは、私の他の誰かだ。しかし手に斬った感触がある。斬る意思がつながっている。駆ける心が同調している。
四方から投石。横合いからのものは意に介する必要なし。速度で避けえる。正面からのものは最小の迂回で避ける。単純な直線の攻撃。間に合わぬ一騎とてなし。
そして、鈍器に持ち替える間も与えずに、斬る。数騎による連斬となる。
おう、正面にヴァンパイア百骨。手強げな佇まい。騎馬の勢いを止めようてか、隊伍を密にして低く構えているが。
真っ直ぐにぶつかる必要はない。二つに分かれれば事足りる。
私は左方の先頭を駆けて、槍も振るわず、思うのだ。ここは火瘤弾の一つ二つでいいと。放るのは、まだ……まだ……今。
爆発。左右後尾から一発ずつ放られての、二発分。
そしてもう馬首を返している。右方の百騎も同様だ。《爆炎》によって混乱した敵集団を挟み、すれ違うようにして、縦列で突っ込む。易々と突破して、百騎をまた二つに割る。五十騎による殲滅編隊。それが四つ。素早く敵を切り裂いて。
躍り出てきた一骨、命令を口にする隊長格が、手に魔力を生じさせたところへ。
直伝《焼薙》。隣の一骨も巻き込んで、一撃にして必殺を為す。
野は騎馬の領域なれば、ヴァンパイア、恐るるに足らず。
また二百騎、ひとつの馬群となる。次の敵はあれか。あの集団。散り散りの敵はマリウスの対処に任せていい。我らはまとまりを崩す。脅威を潰す。
兵装のあるうちに。馬が駆けられるうちに。
征くぞ、怨敵。
◆◆◆
まるで流星のようだな、アギアス兄上は。研ぎ澄まされた機動は光の軌跡だ。
「各小隊、それぞれに迎撃! 一骨一匹、確実に!」
ぼくはまだ、あんな風には駆けられない。オリジス兄上も。軍の主力は騎馬なのだから、つまりあれこそが最精鋭なんだ。ここぞという場面で出撃し、必ず勝ち、そして帰還しなければならない部隊。傷ついてもいけない部隊。
「負傷した者は本陣の護衛へ! 無理は禁物だよ!」
一方で、ヴァンパイアとの戦いを経験した兵たちが方円を組んで退いている。彼らもまた大切だ。これからの戦いを左右する者たちだ。
「弾と筒、使い惜しみなく! 補給は本陣で!」
ぼくの役割は、どちらもが上手く退けるよう、戦場を調整することだね。被害を肩代わりすることも視野に入れて……おっとあの敵はよくないな。
「十騎、続け! 回り込もうとするあの一骨を討つ!」
一瞥だけ、クロイ様を。
うん。切ないね。
瞳の奥に赤々と苛烈な炎が、今は乱れて、いかなる動きにも結びつかないでいるけれど……言うなればそれは感傷なんだ。
「左へ斬り抜ける! 集中!」
人は、心を持って生きている。心には色があって、それはとても多彩だ。鮮やかであればあるほどに、人を動かす。楽しければ楽しげに。悲しければ悲しげに。
「疾っ!」
クロイ様の心は、激しい怒りの一色きり。きっとそういう風に思い定めてきたのだろうけれど……それは違うと、ぼくは思うよ。今の様子がその証左さ。
だって、人は心の移ろう時にこそ、感傷的になるんだから。
「よし! 次! あの三匹!」
感傷を色に例えるのなら、それは透明。静かな虚ろ。
心がどの色にも染まらないがゆえに、人は、動けなくなるんだ。
「あれは……あの小隊へ加勢する! 焼炎筒用意!」
クロイ様は神じゃない。人だ。人間の使徒だ。心の移り変わりがあって当たり前なんだ。そうでなければ、本当の意味で、怒ることもできない。人間でなければ。
いや……もしかすると……神だって同じかもしれない。
人間のために降臨し赫怒する……心を伴っていなければ、それは真実じゃない。
「ヒトめ! ヒトどもめ! 愛い弟の仇じゃ! 滅べ!」
ああ、難敵だ。ただ強いだけじゃなく、殺意に報復の決意が乗っているもの。怒れるヴァンパイア。怪力をより強大にしている。もう四騎も討たれている。
ぼくは、彼ら四名の仇を口にして、仕返しを遂げてもいい。
でも、しない。ぼくが焼炎筒へ込める魔力には、哀の色も混じるから。
燃焼魔法、《青燐》。
「な、青い火!? 青い火の玉が、二つ三つ、揺ら揺らと……我を追って……!」
その火は執拗だよ。こういう怒りもあると知るといい。叩きつけるような、壊れてしまいそうな激情だけでなく、しっとりと浸透していく怒りもまたあるのだと。
「おおお! 毒か! 毒の火か、これは! う、動けぬとは……!」
明察だ。そう、オリジス兄上に言わせれば、ぼくは陰険らしくてね。燃やして終わりなんて嫌なんだ。きみたちはもっと惨めでいい。
「小癪な……ヒトめ!」
そして、ぼくは狡猾でもあるそうだ。ぼくを威嚇するきみの首は、そら、部下の一騎が背後から刎ねてお終い。残念だったね。
「小隊は負傷した者を本陣へ! その後は……その後はぼくを追え!」
クロイ様。ねえ、クロイ様。
すぐにまた駆け出すに違いないあなたのために、ひとつだけ、祈るよ。
心のままに。
神宿すその心のままに、激しく美しく、在れかし。
「各小隊、そのまま適切に行動せよ! ぼくらは、あれを、牽制する!」
ヴァンパイア軍の本陣。『黄金』の潜む一千骨。動き出したその矛先は、エルフではなく、人間だ。あの『万鐘』の防御を嫌ってのことだろうね。
いくらアギアス兄上でも、あれとぶつかってはひとたまりもない。
だから、誰かが犠牲となって注意を引かなければ。
「待て! しばし待て、ニンゲン!」
空から声。この雷雲うごめく空を飛ぶとは、随分と酔狂なエルフだ。
「あれには我が軍が当たる! 貴官は、後退する仲間を援けるがよかろう! 既に救護の者も向かわせてある!」
竜侍官。幾葉もの飛行者を連れて、何とも今更な申し出だけれど。
「了解! 任せます!」
「うむ! 任された!」
笑顔の頷きひとつで、こちらの被害が少なく済むのなら、安いものだね。
憤懣なんて、腹の底に留めておいて、いつか晴らせばいいのだから。




