52.大雨の行方
雨が本降りになる中、ずぶ濡れでディアナは宿屋へ到着した。
エントランスの執事が荷物を受け取り、イルザがメイドを伴ってやって来る。
「あらまぁ大変!ジェシカ、ディアナに新しい服を持って来て!」
メイドが慌てて引き返して行く。ディアナは執事からタオルを受け取ると、濡れそぼった全身をごしごしと拭いた。
「……貴族のお嬢様方は?」
「ああ、大雨で来られないみたいだわ。何でも、近くの川が氾濫して橋が流されたんですって」
ディアナは驚いた。そんなことになっているとは、初耳だったのだ。
「ここはそんなことないのに」
「そうなのよ。山沿いはこのところずーっと大雨だそうで、それが近くの川にも流れ込んで来ているらしいわ。この宿は少し高台にあるから変化を感じないけど、もっと低地の町は今朝、もう家の床上にまで川が浸水して来たんですって」
リップス村は小高い土地だが、パブスト村は低地だった。レオンの山小屋はそれこそ山にあるので浸水とは無縁だが、気になるのはバラ園の位置だった。
「大丈夫かしら。レオンは歩いて山小屋に帰ると言ってたけど」
「あら、ディアナがレギーナに乗って来ちゃったのね。使いの者を向かわせましょうか」
「そうしてくれると助かるけど、その使いの者だって大変じゃない?」
「……困ったわね。無事を祈るしかないのかしら」
ディアナは湯に浸からせてもらい、新しい服に着替えた。こういう時、姉と同じ体形で助かったとディアナは思う。
再び姉に会おうとエントランスへと下りて行った、その時だった。
「……ディアナ!」
聞き覚えのある声が飛んで来る。
前方を眺め、ディアナはハッと息を呑んだ。
ゲオルグがいる。
「!あなたがどうしてここに……」
「小麦を搬入して帰ろうとしたら、宿屋の主人に止められたんだ。パブスト村が浸水して来ているから、水が引くまで泊まって行けと」
ディアナは青ざめた。
「な、何ですって……?」
「毎日小雨だと思って油断していた。山の方では毎日休む間もなく大雨だったらしい」
「そんな」
「ディアナも、水が引いてから帰ったらどうだ」
「でも、バラ園が……」
「ああ。あそこは随分低地だからな……」
二人に、それぞれ大切な人への思いが去来した。
レオン。
ラウラ。
「多分、大丈夫だとは思うが……」
自身を落ち着かせるようにゲオルグが呟く。
その時だった。
扉がどんどんと複数人によって叩かれる。
執事が様子をうかがいながら開けると、そこにはバラ園の面々が揃って待っていた。
ディアナはたまらず駆け出した。
「レオン!」
ずぶ濡れになったレオンがふらりとエントランスに足を踏み入れ、そこへ飛んで来たディアナが抱きつく。
レオンは衆目の手前、苦笑いで妻を抱き締めた。
「し、心配してたんだから……!」
「ごめんディアナ。お互い無事でよかった」
ゲオルグの目が、ふわふわと所在なく動く。
はたとキートンの顔に視線を飛ばしてみたが、キートンはまるで子供のようにゲオルグから顔を背けるだけだった。
「……ラウラは……」
ゲオルグの声に、ディアナは顔を上げる。
「ラウラはいないのか?」
ディアナはレオンから体を離すと、キートンに尋ねた。
「キートンさん、今日もラウラさんはバラ園で配膳に出てらしたのよね?今、どこに……」
するとようやく、キートンは雨にかじかむ唇で答えた。
「それが……ラウラを、小雨の内に森の自宅へ先に帰してしまって」
ディアナは唖然とする。
「そ、そんな。だってあの森は川に近くて……」
その刹那。
ゲオルグは飛んで行って、ダニエルに詰め寄った。
「おい、お前」
ダニエルの方はゲオルグに面識がなかったらしく、急に詰め寄られて目を瞬いている。
「早くラウラを助けに行くんだ。お前、ラウラを愛しているんだろう」
ダニエルは驚きつつもゲオルグの胸を腕でぐいと押し、互いの間に距離を取ると答えた。
「ああ、それなら使いの者を行かせたから大丈夫だ」
あ、とディアナが声を出す。
ゲオルグの眉間に怒りのスイッチが入った。
「き、貴様……!自分の手でラウラを助けたいとは思わないのか!」
ダニエルはぽかんとゲオルグを見つめる。
「そりゃ、そうしたいのはやまやまだよ。しかし、私にはベルツ商会の長としての責務があるんだ」
ゲオルグは予想だにしなかった相手の答えに目を見開く。
「今、私が死ぬわけには行──」
「貴様あああ!ラウラの命と自分の命、どっちが大事だ!言え!!」
大雨の音にも負けないゲオルグの怒号が宿屋の壁を震わせた。
胸倉を掴まれたダニエルは、恐怖に目を白黒させている。
それ以上何も答えられない彼を、ゲオルグは苛立たし気に突き放した。
「くそっ……貴様なんぞに期待した俺が馬鹿だった」
ダニエルは腰が抜けたようになって、へたりと床に尻もちをつく。
「おい、ディアナ」
問われたディアナは「はい」と素直に答える。
「お前の馬は……水を怖がらないか?」
ディアナはごくりと喉を鳴らし、何度か頷いた。
「はい。私の馬、レギーナは……泳ぐ訓練を受けていますから」
ゆっくりとこちらを振り返ったゲオルグは、灰色の瞳に覚悟の色を乗せて頷く。
「そのレギーナとやらを貸してくれ。今からラウラを助けに行く」
雨音はより激しさを増している。
しかしその確固たる決意の表情に、誰も彼を止める者は出て来なかった。




