第8話:歌姫の歌声と、消えた旋律
その日の夜、王都のグランド劇場では、世界的に有名な歌姫、セレナ・ブランシュの特別公演が開催されていた。公爵家も貴賓席に招かれ、エリスは生まれて初めて見るオペラの舞台に、目を輝かせていた。煌びやかな衣装を纏った歌手たちが歌い上げるアリアは、エリスには少し難しかったが、その圧倒的な声量と表現力に引き込まれていた。
休憩時間になり、人々がロビーへと向かう中、セレナの楽屋から、甲高い悲鳴が響き渡った。
「私の声が! 私の声が、出ない!?」
悲鳴の主は、セレナ自身だった。楽屋に駆けつけたセバスチャンたちが目にしたのは、喉を押さえて震えるセレナと、その隣で顔色を失っている彼女の付き人、エミールだ。
「どうなされたのですか、セレナ様!」
セバスチャンが尋ねると、セレナは涙を流しながら訴えた。
「わからないの! 休憩前に、いつものように喉を休めていたはずなのに……急に、声が、全く出なくなってしまったのよ! かすれ声すら出ないの!」
公爵夫人が、心配そうにセレナの傍に寄った。
「セレナ様、落ち着いて。何か、心当たりは?」
「心当たりなど……! 私は、誰にも会っていません! エミールも、ずっとそばにいたから、彼は無関係よ!」
セレナは、必死にエミールを庇うように言った。エミールもまた、青ざめた顔で首を振った。
「わ、私も、セレナ様のそばを離れておりません。誰も楽屋には……」
その時、エリスが、楽屋の隅に置かれた小さなテーブルを指差した。テーブルの上には、飲みかけのハーブティーと、食べかけのクッキーが置かれている。
「あのね、セバスチャン。私、さっき、この楽屋から、誰かが歌ってる歌声が聞こえたんだけど。セレナさん、休憩中に歌ってたの?」
エリスは、無邪気に尋ねた。
セレナとエミールの顔色が変わった。セレナが、震える声で反論する。
「何を言うのです、エリス様! わたくしは休憩中、喉を休めておりましたから、決して歌ったりなどしておりませんわ!」
**空間が、激しく波打ち、歪んだ。セレナの口から放たれた「決して歌ったりなどしておりませんわ」という言葉が、ガラスが砕けるように消え去った。**彼女の瞳が虚ろに揺らぎ、ハッと我に返った。
「……わたくし、何を……?」
セレナは困惑したように、宙を彷徨う手を見つめた。彼女の記憶からは、直前の否定の言葉が消え去っていた。
セバスチャンの背筋に、氷のような冷たさが走った。
(エリス様の能力が発動した……! つまり、セレナ様が「歌っていない」という発言は、論理的な矛盾を孕んでいた、ということになる。なぜ? そして、その矛盾が解消されたことで、何が真実として浮上したのだ?)
セバスチャンは、エリスの言葉と、消え去ったセレナの記憶を繋ぎ合わせた。
セレナは「歌っていなかった」と嘘をついたが、エリスには「歌声が聞こえた」。つまり、セレナは歌っていた。しかし、なぜその事実を隠す?
セバスチャンは、テーブルの上のハーブティーに目をやった。湯気は立っておらず、冷めきっている。そして、クッキーは半分ほど食べられている。
「エミール。セレナ様は、このハーブティーをいつから飲んでおられましたか?」
セバスチャンが尋ねると、エミールは怯えたように答えた。
「え、ええと、休憩が始まる直前に、私が淹れて差し上げました。セレナ様は、いつも休憩中は温かいハーブティーを召し上がりますので……」
セバスチャンは、ハーブティーのカップに指を滑らせた。冷たい。淹れたてならば、まだ温かさを保っているはずだ。
(休憩が始まった直後から飲んでいたのなら、これほど冷めるはずがない。それに、クッキーも半分しか減っていない。まるで、急いで食べるのを中断したかのようだ)
セバスチャンの脳裏に、パズルが完成する音が響く。
「セレナ様。失礼ながら、貴女様は、休憩中、このハーブティーを飲んでおられたのは、ごく短い時間だったのではありませんか? そして、その直後に、何か別の行動を取られたのでは?」
セバスチャンの言葉に、セレナがハッと目を見開いた。
「な、何を……」
**空間が、大きく歪んだ。セレナの否定の言葉が、「パリンッ」と音を立てて砕け散った。**彼女は顔を覆い、震え始めた。
セバスチャンは確信した。
(セレナ様は、**ハーブティーを一口しか飲んでいないか、あるいは全く飲んでいない。**そして、その直後に、別の行動をとった。その行動こそが、彼女の声を奪った原因なのだ!)
「セレナ様。貴女様は、休憩中、ハーブティーを飲んでおられなかった。そして、エリス様には貴女様の歌声が聞こえていた。にもかかわらず、貴女様は『歌っていない』と嘘をついた。これは、貴女様が公の場では決して歌わないはずの歌を、隠れて歌っていた、ということではございませんか?」
セバスチャンの言葉は、氷のように冷たく、正確だった。
セレナは、その場に膝から崩れ落ちた。
「その通りよ……! わたくしは……わたくしは、**ライバルであるアメリア様が、密かに練習していると噂されていた、あの幻の『嘆きの聖歌』**を……! 休憩中に、誰もいないと思って、つい……」
セレナの告白は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。
セバスチャンは、嘆息した。
「セレナ様。『嘆きの聖歌』は、確かに高難度の楽曲ですが、声帯を損傷するほどの危険な曲ではありません。問題は、貴女様がその歌を歌う前に、喉を温めていなかったこと、そして、その歌を**『音もなく、声帯に負担をかけずに』歌おうと無理をした**ことではございませんか?」
セレナは、目を見開いた。
「……っ! わたくしは、アメリア様よりも上手く歌えることを示すために、声を出さずに完璧に喉を動かす訓練をしていたのよ! そうすれば、いざ本番で披露した時に、皆を驚かせられると……!」
その言葉は、消えなかった。
セバスチャンは、倒れたセレナの口元に、微かな、透明な液体が付着しているのを見つけた。
(これは……もしや、声帯を一時的に麻痺させる秘薬か。あるいは、発声のための筋肉を弛緩させる薬か……! 誰かが、セレナ様にこの薬を飲ませた。そして、彼女はそれを認識せずに、あるいは認識していたが、自分が歌わない言い訳として利用しようとした……)
セバスチャンは、セレナのハーブティーのカップを再び確認した。カップの縁に、わずかな油膜のようなものが浮いている。
「セレナ様。このハーブティーを淹れたのはエミールでしたね。エミール、貴方はこのハーブティーに、何か特別なものを混ぜましたか?」
セバスチャンの問いに、エミールは顔面蒼白になり、ガタガタと震え始めた。
「な、何を言われるのですか! わたくしが、そんな……!」
空間が、五度、激しく揺らめいた。
エミールの否定の言葉が、**「パリンッ」と音を立てて消滅した。**彼はその場に崩れ落ち、震えながら呟いた。
「ごめんなさい……セレナ様が、いつもアメリア様にこだわるから……。少しだけ、喉を休ませるための薬だと思って……でも、あんなに効くとは……」
エミールの告白は、消えなかった。
セバスチャンは、冷静な声で公爵に命じた。
「公爵様。エミールを拘束し、この薬の成分を早急に鑑定させてください。セレナ様の声は、この薬の影響でしょう」
公爵は、驚愕に目を見開いたまま頷いた。
エリスは、まだ残っていたマカロンを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼していた。
(みんな、なんでそんなに焦ってるのかなぁ。セレナさんの歌、また聞けるようになるよねぇ?)
彼女には、舞台の幕が再び上がるのを、ひたすら楽しみにしているだけだった。
セバスチャンは、静かに広間を見渡した。
(公爵令嬢エリス様。貴方様の無自覚な一言が、真実を暴き、そして嘘を消し去る。その現象は、時に新たな謎を生み出すが、同時に、隠された真実への唯一の道標となる)
公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の道は、果てしなく続く。




