表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/15

第8話:歌姫の歌声と、消えた旋律

その日の夜、王都のグランド劇場では、世界的に有名な歌姫、セレナ・ブランシュの特別公演が開催されていた。公爵家も貴賓席に招かれ、エリスは生まれて初めて見るオペラの舞台に、目を輝かせていた。煌びやかな衣装を纏った歌手たちが歌い上げるアリアは、エリスには少し難しかったが、その圧倒的な声量と表現力に引き込まれていた。


 休憩時間になり、人々がロビーへと向かう中、セレナの楽屋から、甲高い悲鳴が響き渡った。


「私の声が! 私の声が、出ない!?」


 悲鳴の主は、セレナ自身だった。楽屋に駆けつけたセバスチャンたちが目にしたのは、喉を押さえて震えるセレナと、その隣で顔色を失っている彼女の付き人、エミールだ。


「どうなされたのですか、セレナ様!」


 セバスチャンが尋ねると、セレナは涙を流しながら訴えた。

「わからないの! 休憩前に、いつものように喉を休めていたはずなのに……急に、声が、全く出なくなってしまったのよ! かすれ声すら出ないの!」


 公爵夫人が、心配そうにセレナの傍に寄った。

「セレナ様、落ち着いて。何か、心当たりは?」


「心当たりなど……! 私は、誰にも会っていません! エミールも、ずっとそばにいたから、彼は無関係よ!」


 セレナは、必死にエミールを庇うように言った。エミールもまた、青ざめた顔で首を振った。

「わ、私も、セレナ様のそばを離れておりません。誰も楽屋には……」


 その時、エリスが、楽屋の隅に置かれた小さなテーブルを指差した。テーブルの上には、飲みかけのハーブティーと、食べかけのクッキーが置かれている。


「あのね、セバスチャン。私、さっき、この楽屋から、誰かが歌ってる歌声が聞こえたんだけど。セレナさん、休憩中に歌ってたの?」


 エリスは、無邪気に尋ねた。


 セレナとエミールの顔色が変わった。セレナが、震える声で反論する。

「何を言うのです、エリス様! わたくしは休憩中、喉を休めておりましたから、決して歌ったりなどしておりませんわ!」


 **空間が、激しく波打ち、歪んだ。セレナの口から放たれた「決して歌ったりなどしておりませんわ」という言葉が、ガラスが砕けるように消え去った。**彼女の瞳が虚ろに揺らぎ、ハッと我に返った。


「……わたくし、何を……?」


 セレナは困惑したように、宙を彷徨う手を見つめた。彼女の記憶からは、直前の否定の言葉が消え去っていた。


 セバスチャンの背筋に、氷のような冷たさが走った。

(エリス様の能力が発動した……! つまり、セレナ様が「歌っていない」という発言は、論理的な矛盾を孕んでいた、ということになる。なぜ? そして、その矛盾が解消されたことで、何が真実として浮上したのだ?)


 セバスチャンは、エリスの言葉と、消え去ったセレナの記憶を繋ぎ合わせた。

 セレナは「歌っていなかった」と嘘をついたが、エリスには「歌声が聞こえた」。つまり、セレナは歌っていた。しかし、なぜその事実を隠す?


 セバスチャンは、テーブルの上のハーブティーに目をやった。湯気は立っておらず、冷めきっている。そして、クッキーは半分ほど食べられている。


「エミール。セレナ様は、このハーブティーをいつから飲んでおられましたか?」


 セバスチャンが尋ねると、エミールは怯えたように答えた。

「え、ええと、休憩が始まる直前に、私が淹れて差し上げました。セレナ様は、いつも休憩中は温かいハーブティーを召し上がりますので……」


 セバスチャンは、ハーブティーのカップに指を滑らせた。冷たい。淹れたてならば、まだ温かさを保っているはずだ。

(休憩が始まった直後から飲んでいたのなら、これほど冷めるはずがない。それに、クッキーも半分しか減っていない。まるで、急いで食べるのを中断したかのようだ)


 セバスチャンの脳裏に、パズルが完成する音が響く。


「セレナ様。失礼ながら、貴女様は、休憩中、このハーブティーを飲んでおられたのは、ごく短い時間だったのではありませんか? そして、その直後に、何か別の行動を取られたのでは?」


 セバスチャンの言葉に、セレナがハッと目を見開いた。


「な、何を……」


 **空間が、大きく歪んだ。セレナの否定の言葉が、「パリンッ」と音を立てて砕け散った。**彼女は顔を覆い、震え始めた。


 セバスチャンは確信した。

(セレナ様は、**ハーブティーを一口しか飲んでいないか、あるいは全く飲んでいない。**そして、その直後に、別の行動をとった。その行動こそが、彼女の声を奪った原因なのだ!)


「セレナ様。貴女様は、休憩中、ハーブティーを飲んでおられなかった。そして、エリス様には貴女様の歌声が聞こえていた。にもかかわらず、貴女様は『歌っていない』と嘘をついた。これは、貴女様が公の場では決して歌わないはずの歌を、隠れて歌っていた、ということではございませんか?」


 セバスチャンの言葉は、氷のように冷たく、正確だった。

 セレナは、その場に膝から崩れ落ちた。

「その通りよ……! わたくしは……わたくしは、**ライバルであるアメリア様が、密かに練習していると噂されていた、あの幻の『嘆きの聖歌』**を……! 休憩中に、誰もいないと思って、つい……」


 セレナの告白は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。


 セバスチャンは、嘆息した。

「セレナ様。『嘆きの聖歌』は、確かに高難度の楽曲ですが、声帯を損傷するほどの危険な曲ではありません。問題は、貴女様がその歌を歌う前に、喉を温めていなかったこと、そして、その歌を**『音もなく、声帯に負担をかけずに』歌おうと無理をした**ことではございませんか?」


 セレナは、目を見開いた。

「……っ! わたくしは、アメリア様よりも上手く歌えることを示すために、声を出さずに完璧に喉を動かす訓練をしていたのよ! そうすれば、いざ本番で披露した時に、皆を驚かせられると……!」


 その言葉は、消えなかった。


 セバスチャンは、倒れたセレナの口元に、微かな、透明な液体が付着しているのを見つけた。

(これは……もしや、声帯を一時的に麻痺させる秘薬か。あるいは、発声のための筋肉を弛緩させる薬か……! 誰かが、セレナ様にこの薬を飲ませた。そして、彼女はそれを認識せずに、あるいは認識していたが、自分が歌わない言い訳として利用しようとした……)


 セバスチャンは、セレナのハーブティーのカップを再び確認した。カップの縁に、わずかな油膜のようなものが浮いている。


「セレナ様。このハーブティーを淹れたのはエミールでしたね。エミール、貴方はこのハーブティーに、何か特別なものを混ぜましたか?」


 セバスチャンの問いに、エミールは顔面蒼白になり、ガタガタと震え始めた。

「な、何を言われるのですか! わたくしが、そんな……!」


 空間が、五度、激しく揺らめいた。

 エミールの否定の言葉が、**「パリンッ」と音を立てて消滅した。**彼はその場に崩れ落ち、震えながら呟いた。

「ごめんなさい……セレナ様が、いつもアメリア様にこだわるから……。少しだけ、喉を休ませるための薬だと思って……でも、あんなに効くとは……」


 エミールの告白は、消えなかった。


 セバスチャンは、冷静な声で公爵に命じた。

「公爵様。エミールを拘束し、この薬の成分を早急に鑑定させてください。セレナ様の声は、この薬の影響でしょう」


 公爵は、驚愕に目を見開いたまま頷いた。


 エリスは、まだ残っていたマカロンを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼していた。

(みんな、なんでそんなに焦ってるのかなぁ。セレナさんの歌、また聞けるようになるよねぇ?)


 彼女には、舞台の幕が再び上がるのを、ひたすら楽しみにしているだけだった。


 セバスチャンは、静かに広間を見渡した。

(公爵令嬢エリス様。貴方様の無自覚な一言が、真実を暴き、そして嘘を消し去る。その現象は、時に新たな謎を生み出すが、同時に、隠された真実への唯一の道標となる)


 公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の道は、果てしなく続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ