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第6話:『仮面の毒と、消えた証拠品』

その夜、公爵邸の広間では、月に一度開催される恒例の仮面舞踏会が盛大に行われていた。煌びやかなシャンデリアの光が、色とりどりのドレスと仮面を照らし、優雅なワルツの旋律が響き渡る。


 エリスは、真っ白なドレスに銀の仮面をつけ、ひときわ目を引く存在だった。しかし、彼女の関心は舞踏よりも、テーブルに並べられた焼き菓子へと向かっていた。


「わぁ、このマカロン、ピスタチオ味だ! 美味しそう!」


 エリスが手を伸ばそうとしたその時、広間の隅から、ざわめきが起こった。


「誰か! 誰か助けてくれ!」


 悲鳴にも似た声が聞こえ、人々が円を描くように退いていく。広間の中心には、鮮やかな赤と黒の仮面をつけた男が、苦悶の表情で胸を押さえ、その場に倒れ込んでいた。彼の口元からは、泡がわずかに漏れている。


「毒だ! 毒を盛られた!」


 誰かが叫んだ。広間は瞬く間にパニックに陥った。音楽は止み、照明が不穏に揺らめく。


 セバスチャンが素早く駆け寄った。彼の顔色は、普段の冷静さを保ちながらも、一瞬だけ青ざめたように見えた。

「皆様、ご安心ください! すぐに医師を手配いたします! 皆様はどうか、その場から動かず、落ち着いてください!」


 倒れた男は、伯爵家の嫡男、オスカー・ド・ラ・ヴァリエだった。最近、社交界で派手な女性関係で何かと噂されていた人物だ。


「セバスチャン! 容態は!?」


 公爵が、オスカーに駆け寄りながら叫んだ。


「脈拍が急速に弱まっています。間違いなく毒かと。……彼は、どの飲み物を口にされましたか?」


 セバスチャンが周囲に問うた。近くにいた貴婦人が、震える声で答えた。

「た、たしか、先ほど、あちらのテーブルにあった琥珀色の酒を……」


 貴婦人が指差したのは、広間の端にある小さなサイドテーブルだった。そこには、使いかけの酒瓶と、いくつか空のグラスが置かれている。


 セバスチャンは、そのテーブルへと向かった。その時、エリスが、オスカーを心配そうに見つめながら、ぽつりと呟いた。


「あれ? オスカー様って、お酒苦手じゃなかったっけ? こないだ、お父様が『オスカーは酒癖が悪いから、強い酒は飲ませるな』って言ってたのに、なんで琥珀色のお酒なんて飲んだんだろう?」


 エリスの言葉に、公爵の顔色が変わった。

「エリス! 何を言い出す!」


 空間が、微かに、そして激しく揺らめいた。

 公爵の記憶の中で、エリスが発した**「オスカーは酒癖が悪いから、強い酒は飲ませるな」という言葉にまつわる会話の記憶が、ガラスが砕けるように消え去った。**公爵の瞳が虚ろに揺らぎ、ハッと我に返った。


「……わしは、何を……?」


 公爵は困惑したように周囲を見回した。


 セバスチャンの背筋に、冷たいものが走った。

(エリス様の能力が発動した……! つまり、公爵様の発言は、論理的な矛盾を含んでいた。「オスカー様が酒癖が悪い」という情報が、何らかの嘘を隠していたのだ!)


 セバスチャンは、サイドテーブルの琥珀色の酒瓶を手に取った。コルク栓が抜かれており、中身は半分ほど減っている。匂いを嗅ぐと、確かに強い酒の匂いがした。


「セバスチャン、その酒瓶は?」


 公爵が、混乱しながらも尋ねた。


「はい、公爵様。これが、毒の証拠品となるかと。しかし……」


 セバスチャンは、酒瓶の表面に付着した、微かな指紋のような痕跡に目を凝らした。それは、何かを擦りつけたような、不自然な跡だった。


 その時、広間の入口から、顔色を青ざめさせた公爵夫人が駆け込んできた。彼女の仮面は、慌てて着けたのか、少しずれていた。


「あなた! オスカー様が、毒に!? 一体、どうして……。私は、まさか、そんなことになるなんて……。ついさっきまで、彼と談笑していたのに……」


 夫人が言いかけた途端、空間が大きく歪んだ。

 夫人の口から放たれた**「彼と談笑していたのに」という言葉が、音もなく消え去った。夫人の顔に、一瞬、深い絶望が浮かび、そしてハッと我に返る。**


「……私、何を……?」


 夫人は、困惑したように自らの口元を押さえた。


 セバスチャンは、その光景を全て見届けた。

(夫人もまた、「嘘」をついた。「オスカー様と談笑していた」という言葉が、論理的に矛盾していた。なぜ? 夫人はオスカー様を憎む理由などないはずだ。……まさか、夫人が毒を盛ったとでも?)


 セバスチャンの脳内では、複数の情報が高速で組み合わされ、そして破棄されていく。

 オスカーは酒が苦手。公爵の記憶が消えた。夫人がオスカーと談笑したという記憶が消えた。


(オスカー様は酒が苦手なのに、なぜ強い酒を飲んだ? 夫人も、オスカー様を庇うような嘘をついた……いや、夫人自身も毒を盛ったわけではない。では、何が矛盾している?)


 セバスチャンは、再び酒瓶に目をやった。不自然な指紋のような痕跡。そして、琥珀色の酒。


(待て。もし、オスカー様が酒を飲まされたのだとすれば? そして、夫人が**「談笑していた」と嘘をついた理由**は……)


 セバスチャンは、ハッと顔を上げた。

「夫人! オスカー様に、何か飲み物以外のものを渡しましたか!?」


 夫人が、びくりと肩を震わせた。その瞳に、動揺の色が浮かび上がる。


「な、何を言いますの、セバスチャン! わたくしが、そんな……!」


 空間が、四度、激しく揺らめいた。

 夫人の否定の言葉が、**「パリンッ」という乾いた音と共に消滅した。**彼女は顔を覆い、ガタガタと震え始めた。


 セバスチャンは確信した。

(夫人はオスカー様に**何かを渡した。**そして、その「何か」が、今回の事件の真の毒物であり、酒瓶は、毒を飲ませるための「道具」として利用されたのだ!)


 彼の脳内で、全てのピースが完璧に嵌まる音が響いた。


「公爵様、夫人。この酒瓶に付着した不自然な痕跡は、何らかの固形物を擦りつけた跡です。そして、エリス様の言葉が消した公爵様の記憶。それは、公爵様がオスカー様の酒癖について**「実は酒が苦手である」という真実を隠していた**ことを示しております。つまり、オスカー様は自ら進んで酒を飲んだのではない。そして、夫人が『談笑していた』と嘘をついたのは、オスカー様に別の毒物を渡したことを隠すためだった!」


 セバスチャンは、公爵夫人を真っ直ぐに見つめた。

「夫人。貴女がオスカー様に渡されたものとは、一体何でございますか? それが、毒物であるとすれば、なぜ、そのようなことを……」


 夫人は、その場に膝から崩れ落ちた。仮面が床に転がり、彼女の涙で濡れた顔が露わになった。

「わたくしは……わたくしはただ、オスカーが、私の大切な仮面舞踏会の**『特別な飾り』**を、いたずらで壊してしまったから……ほんの少し、罰を与えようと、痺れ薬を仕込んだマカロンを……」


 夫人の告白は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。


 公爵は、絶句した。広間は、静まり返っていた。


 その一部始終を、エリスは、既に半分以上食べたピスタチオマカロンを口いっぱいに頬張りながら見ていた。

(お母様、マカロンを誰かにあげたのかなぁ? えー、私にも分けてくれたらよかったのに!)


 彼女には、倒れたオスカーの口元から漏れる泡が、マカロンのクリームのように見えていた。


 セバスチャンは、倒れたオスカーの口元に、微かに緑色の残留物があるのを確認した。ピスタチオの色だ。酒瓶の不自然な痕跡は、毒マカロンを酒瓶の口に押し当て、無理やり飲ませた際に付着したものだろう。


 セバスチャンは、深々とため息をついた。

(公爵令嬢エリス様。貴方様は、その無邪気な一言で、最も巧妙な嘘を暴く。そして、わたくしは、その残された真実の断片から、論理を再構築する。……この仮面舞踏会の夜は、まだ終わらない)


 公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の道は、果てしなく続く。

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