023
生きた物語を、読みたい——
そういえば、《這い探る女王蘭》は遠くの音を聞くことができる魔法だっけか。この人は、どこまで俺を見ているんだろう。もしかして、聞くだけじゃなく、見ることができる魔法もあったりするんだろうか。
「退屈な図書館で読み尽くされた物語だけに囲まれて三百年も過ごした私の苦痛が、想像できる? 私はね、長い長い退屈に終止符を打ってくれた人を、最初に読もうって決めてたの」
大人びた顔立ちのフィーナさんが無邪気な微笑みを浮かべていて、普段とのギャップに頭がくらくらする。随分と酷いことを言われているのは分かっていた。
この人は俺の人生を劇かなにかだと思ってるんじゃないのか。余興として、俺を、ドロシーを、シアラを、危険な目に合わせる。それは、ただの邪悪じゃあないのか。自分の欲望のために他人を踏みにじる邪悪。
まるで親父や母さんのようだ。
けど、不思議と、反感も憎悪も敵意も忌避感も抱かなかった。まるで穴に吸い込まれるように、そういった感情が失われていた。理性だけが、フィーナさんを放っておけば、きっと害になると告げる。
無邪気に笑うフィーナさんが、剣を向ける俺の理性を鈍らせる。剣を向けると、ぞわぞわと、快感が込み上げてきた。
「あら、私への感情や欲求は全部この子達の養分になっているはずなのだけれど」
周囲に無数の白い花が咲き乱れる。長く伸びた棒のような茎の先端に花が広がり、それが大きく、禍々しく成長している。いくつもいくつも、白い花が、急成長している。
「理性と本能だけで、私に剣を向けているのね」
「……そう、ですね。確かにその通りです」
この人を放っておくと、ドロシーもシアラも困ることになる。だから殺す。この人を放っておくと、いつまたトラブルを招き入れるか分からない。だから殺す。
すこしおかしいのが、頭が冷えているのに、今フィーナさんを殺せばきっととても気持ちがいいと、心臓がざわついていることだった。自分の顔が笑みを作るのが分かった。剣を振り上げる。植物たちは煩わしいが、フィーナさんに抵抗する気はないらしい。無防備に座ったまま、植物の結界を操ることなく、微笑みながら俺を見ている。
剣を振り下ろせば、フィーナさんを殺せる。首に斜めに刃を叩き降ろせば、それで致命傷だ。うまく刃の先端を落とさなければならない。少し距離が悪いか。数歩距離を整える。
そして、剣を振り下ろした。
フィーナさんの笑みが、妖艶に深まる。そして、感情が、唐突に戻ってきた。
フィーナさんを——旅の仲間を殺したくないという抵抗が、フィーナさんに今まで抱いていた尊敬と好意が、そして汚いものに対する敵意が、敵意に基づく殺意が、戻ってくる。
殺したい——殺したくない。
悪寒が走る。本能を押しのけて、理性を塗りつぶして、感情が体を強張らせる。
ダメだ、殺しちゃダメだッ! 殺したら絶対に後悔するッ! ——だってこの人は、ついさっき、俺を慰めてくれた人だ。俺の体の傷を癒してくれた人だ。理性も本能でもなく、感情が、後悔を予見する。
けれど、混乱した頭では刃を止められない。黒と銀の刃は、フィーナさんの首に吸い込まれる。目を閉じず、微笑んだまま真っ直ぐに俺を見返すフィーナさん。まるで、死の瞬間まで俺を見ていられれば、本望とでもいうように。
そして——
金属が、ぶつかり合う音がした。
「——え、あ」
「コースケ、状況が飲み込めない。これ、どういうこと?」
ドロシーが、俺の剣を小さなナイフで止めていた。訝しげな顔で、首を傾げている。比較すれば俺の剣の方がずっと重い筈なのに、伸ばした右腕の先に握られた小さなナイフ一本だけで、完全に止められてしまっていた。
「あら、ドロシー。早かったわね」
フィーナさんが笑う。それと同時に、ドロシーがフィーナさんの背後に回り込んで、左腕に新たなナイフを取り出し、フィーナさんの首に添えた。困惑の表情と恐ろしく素早い手際がアンバランスだ。
黒塗りのナイフ。闇に解ける色のそのナイフが二本がかりで、俺の剣を止めていた。一本が物理的に、一本が心理的に。
「ど、ドロシー。良かった、無事だったんだ」
思わず溜息を漏らす。混乱した頭で最初に感じたのは、ドロシーが無事だったことへの安堵だった。けど、すぐにフィーナさんへの激しい感情が吹き荒れる。頭に血が上った。
「フィーナさん! あ、あなた何考えてんだ!」
「え? どんな顔で私を殺すのか、見てみたくて」
「ふざけんじゃねえッ! 誰が殺すかクソがッ! 何が人を操れないだ! 俺の感情食いやがったその魔法はじゃあなんだよ!」
「これ? 《白食み百合》って言うのよ。綺麗でしょ」
綺麗っていうか、周囲の白い花はもう全部枯れていた。効果を打ち消した瞬間枯れてしまうのは、魔法の花らしいな……。剣を引いてフィーナさんから距離を取る。
本当にこの人は嘘ばっかりだ。
邪気たっぷりにからからと笑うフィーナさんを、ドロシーが嫌そうに横目で見る。首にナイフは当てたまま。
「ためらったりするからナイフ一本で止められちゃうのよ。どうして殺さなかったの? 私みたいな危険人物」
「うるさいッ! 殺したいよ! 殺したいさ! いろんな意味で、ぶっ殺してやりてえよ!」
フィーナさんに剣を突きつけて、叫ぶ。
「さんざん引っ掻き回しやがって! 誰のせいでシアラが怖がって、ドロシーが命張って、俺が人殺しまでして、知りたくもなかったことを知らされたと思ってんだよ! 何が生きた物語を読みたいだ! そのために周り全部引っ掻き回す必要なんてねえだろ!」
事情を察したのか、ドロシーが目を見開いた。
「その癖して俺が剣を向けたら抵抗しねえし! し、死んだら! 死んだらもう何もできないんだぞ——ッ! ついさっき、俺の旅に最後まで付き合うって言ったのは、嘘だったのかよ——!」
「嘘じゃないわ——」
歌うように言葉が続く。
「——私の旅が終わるまでか、あなたの旅が終わるまで、ただ私はあなたを見ていたいのよ」
旅が終わるまで。そうか、フィーナさんにとって、旅は——
「私はあなたに殺されるか、あなたが死ぬのを見届けたい。もちろん、あなたのいろんな顔を見てみたいとも思っているのよ。ねえ、だから、きっと、私の目の前で初めての人殺しをしてほしいと思っていたし、そしてもしあなたが私を看取るなら、そのときに見るものは最初で最後の、私だけの宝物にしたいと願っていたのよ」
「死んだら、そんなもん意味ないだろ——?」
「どうかしらね。死んだ後に魂がどうなるかなんて、知らないもの。うふふ、もしかしたら死後の世界は、生きていた間の記憶を好きに見られる宝物庫かもしれないわ。だとしたら、いつでもあなたの顔が見られるのよ」
ああ、くそ、ああ言えばこう言う。言葉が通じてないし、話を聞く気もないのかこいつ。狂ってる。
「とにかく、俺はあなたを殺したくない! 殺せない、絶対に——」
ランパルトを殺した時に感じた、あのぞわぞわとした快感が、怖い。
アレに慣れてしまえば、ためらいなく人を殺しそうで。
人殺しに嵌りそうで。
とても、怖い。
「よく、わからないんだけど——」
ドロシーがためらいつつも、フィーナさんの首に向けたナイフに力を込めた。
「——いままでのことが全部フィーナのせいで、コースケはフィーナを殺せないなら、私が殺そうか?」
ドロシーの顔を見る。緊張も、決心も、恐怖もない顔に見えた。表情を殺したように、何も見えない顔だ。青い瞳が俺を見つめたまま、フィーナさんの首のナイフが光る。右手に握られていたナイフの腹を、フィーナさんの顎に押し付けていた。
「どうする?」
ドロシーが首を傾げる。いつものように、可愛らしく。見なれたその仕草が、異質なものに見えてしまう。
「ど、ドロシーは、平気なのか……?」
「コースケよりは多分平気よ。それで、どうするの?」
俺の代わりにドロシーが、フィーナさんを殺す——? そんなこと、させられるのか?
ドロシーの持つナイフが微かに震えた。ドロシーがナイフを持つ手を握り込む。
——お互いを必要としない二人が、それでも一緒にいるのなら、それはその人を、ただ一人選んでいるということ。
怖くない筈がない。フィーナさんが、ついさっき言ったことだ。普通、人を殺すのは、怖い。ハインアークから三週間、そしてこの街で一週間。一緒に居た旅の仲間を殺すことが、怖くない筈がないんだ。
今ドロシーにフィーナさんを殺させたら、俺は自分が背負うべき罪悪感を、ドロシーに背負わせることになる。それは、俺がドロシーに、取り返しのつかないくらい頼ってしまうということじゃないのか。
「ダメだ、ドロシー」
深呼吸をして、ぐちゃぐちゃになった頭を冷ます。
「フィーナさんは殺さない。少なくとも、ドロシーが殺しちゃダメだ」




