022
何事もうまい対処法を覚えてしまえばなんとでもなるものだ。大抵の場合、問題が起こるのは欲のせいだ。欲張らなければ生きるのに問題なんて発生しない。人間以外の生物には《問題》なんて考え方はないのだから。
だから、人間には欲があるし、欲張るから《問題》が起こる。
決闘の最中、ランパルトの鎧の隙間を切り裂いた初撃、十分に踏み込んでさえいれば、あれで致命傷を与えられた。もちろん腕なので、失血死を狙うしかないわけだが、それでも、あの一撃は相手の命を脅かすものだった。
踏み込めなかったのは、どうしてだ。
目が見えたからだ。いや、ランパルトの目に映った俺の顔が。
笑いながら目をぎらつかせて、彼に迫る俺の顔が。
信じられないものを見た気がした。思えば、笑いながら他人を攻撃する人間を見たのは、初めてかも知れない。それも、相手を殺しかねない手段を用いて他人を攻撃するわけだ。
親父でさえ、俺を殴る時に笑っていたことはない。
「コースケ」
肩が震えた。いつの間にか落ちていた視線を恐る恐る上げると、フィーナさんが俺を見ていた。先ほどまでの観察するような目ではなく、こちらを気遣う、困ったような、優しいまなざしに感じられた。
少しだけ、恐怖が薄らいだ。
さわさわと、周囲の植物たちがうごめき、俺をフィーナさんの前まで引き寄せる。されるがままに、フィーナさんの膝の上に正面から抱かれるようにして、動きが止まった。
紫の瞳が俺を見上げ、頭を撫でる。ずっとずっと昔、まだ親父がまともだった頃に、母さんにこうされていた。例えば、転んでも自分で立ち上がれた時や、言われたことをちゃんとできた時だ。小学校に上がるよりも前の頃だったと思う。
「それで、どうしてあなたは笑っていたの?」
思わずフィーナさんから目を逸らすが、けれど、顔さえ覆い始めた植物によって、無理矢理視線を戻される。
「目を逸らしたらダメよ」
酷く優しい声だった。嘘つきに嘘はつけない。直感的に、そう思う。思わされる。真っ直ぐに俺と対話しようとする、真摯さが瞳には満ちていた。それは、嘘つきの目には思えない。
懺悔を受け入れる聖職者は、こんな目をしているのではないかと想像させられた。
「彼の命乞いもそうよね。あなたは降り掛かる火の粉を払うために決闘に応じたのではなかったかしら? だったら、応じても良かったんじゃない?」
「こ、殺さないと、ドロシーが危ないじゃないですか。ドロシーが、まだ雷獣と戦ってた。足止めだけど、でも、ランパルトの言葉を真に受けて、ここから連れ出して、それで危険がなくなったわけじゃない。ランパルトが雷獣を止めなくて、何かの表紙に状況が入れ替わったりしたらどうするんですか」
「もちろんそうね」
フィーナさんが目を逸らさずに同意する。あっさりと。俺の反論を分かっていたみたいに。
「けれど、この剣を振り下ろすとき、あなたは必死で彼を殺す理由を探していたように見えたわ。ドロシーが危ないから、シアラを殺そうとしたから、だから殺さなければならないって。何度も何度も確認しているように、自分に嘘をついているように見えたのよ」
——自分に嘘をついている。
「そんなこと、ないです。俺は、人を殺したくなんかない」
「それは……嘘ではないのね。つまり、人を殺したくはないのに、殺してみたら思いのほか気持ち良かった、ということかしら?」
息が止まった。
意味が分からない。俺の中にそんなものがあったことも、それをフィーナさんに言い当てられたことも、分からない。
人を殺せるだけの技術を身につけて、そして実際に人を殺したのは、初めてのことだったし、前の世界では人殺しなんて想像もしなかった。自分がいざ人を殺せる立場になって、そして実際に殺してみるなんて、想像の中でもまともにやってみたことがない。
いつだって状況に順応してきた。適当に対処してきた。人を殺さなければならない程の困難にぶつかったことはなかった。
だから気付けなかったってことかよ。
「ひ、人殺しは、普通、やっぱり、気持ちよくはない、ものですよね」
「そうね。あなたの世界がどうだったかは知らないけれど、この世界で人殺しはありふれているわ……。罪に問われる場合も、問われない場合もね。自分の奴隷なら殺しても良いし、命や財産を襲われたら反撃して殺しても良い。街の外では無法地帯も多いし、戦争では沢山人が人を殺す。
けど、ほとんどの人は、人殺しを嫌うわ。生理的に受け付けないよ。特に同族だと、忌避感が強い。相手との距離が近い程、相手が自分に似ている程、心が不安定になる」
そんな感覚、俺には分からない。
「戦争だと、麻薬を使ったり、責任転嫁したり、いろいろと精神を安定させる手段があるのよ。処刑人だって心情に配慮されるべき立場だと、この国の法律で定められているわ。……コースケ、あなた、気分は悪くない? 吐き気は? 手足の震えはある? 動悸は? 心の不調は体に出るものよ」
「……ないです。平気です。ちょっと、ショックなだけで」
「そう……」
フィーナさんはそれだけ呟いて、植物の拘束を解いた。白い花は相変わらず周囲に咲き乱れている。俺は混乱したまま、地面に落としてしまっていた剣を手に取った。とにかく、今は、ドロシーの元に戻らないと。無事を確認しなければ。俺のことは、後回しだ。
そう思って剣を鞘に納めようとした時に、フィーナさんが言う。
「コースケ、あなた、どうしてランパルトがあなたを狙ったのか、どうして騎士団がランパルトを助けたのか、なぜ今コーデックがガレスを討とうとしたのか、今コーデック派の騎士団の動向を誰が把握しているのか、わかってる?」
「——いえ、わかりま、せん」
ランパルトが俺を狙ったのは、街であいつと会ったから、その報復のためだろう。……そういえば、騎士団に話を通したのは、ランパルトの筈だ。ガレスさんが、ランパルトの話だけで動くものだろうか。少なくとも、相手の素性くらいきちんと分かっていなければ、食堂に現れたりしなかったんじゃないか?
騎士団がランパルトを助けたのは、コーデックがガレスさんを殺して権力を奪おうとしたから、という話だった。闘技場は人の目が少ない場所になる。それを利用した手だ、と聞いている。
けど、タイミングが良すぎる、のか? ランパルトはコーデックのお陰で逃げられて、コーデックはランパルトの作った混乱に乗じる予定だった。結局、ザインによって阻止されたけれど、もし彼がいなければ、俺たちは闘技場から出ることもできなかったかもしれない。
あるいは出られても、ルドルフさんは置き去りにしていた可能性もある。ガレスさんも無事でいられたかどうかは分からない。ザインがいなければ、コーデック派だという騎士団もすぐに闘技場に駆け込んでいただろう。そうなれば、大規模な殺し合いだ。ザインの打った一手が神がかっていただけ。
「ランパルトとコーデックは繋がっていた。さて、それはいつからでしょう?」
……俺は、フィーナさんに剣を向ける。冷や汗が出る。気持ち悪い感触。親しい相手に、仲間に剣を向けているという状況が、俺を緊張させる。人殺しは嫌だと思考が警鐘を鳴らす。ランパルトを斬った瞬間の快楽が、逆に俺を苛む。
花が、白い花が周囲に溢れている。細い茎の先に、星のような形に花びらを付けた、小さな白い花。甘い匂いがして、肺から、体が暖かくなる。何か魔法をかけられているのだと分かったが、その正体までは分からない。
「ランパルトが行なったあなたの身辺調査に協力したのは誰でしょう。シアラを出しにすればきっとコースケは決闘に応じると教えたのは誰でしょう。騎士団の館で聞き耳を立ててコーデック派とガレス派の対立を調べたのは誰でしょう。ランパルトとコーデックを引き合わせたのは誰でしょう。ねえ、コースケ、誰だと思う?」
先ほどまでの、労るような表情は、俺を安心させた表情は、そこにはもうない。悪魔か魔女のような薄気味悪い、けれどどこか爽やかさを感じる微笑みで、フィーナさんが俺を見ていた。
「あなたに武器を与えるようドロシーを誘導したのは誰? ザインとロゼがあなたに協力するよう誘導したのは誰? あなたが万全の体勢で戦えるよう治療を施したのは誰? うふふ、他にもあるのよ。あなたが決闘に負けても逃げられるように準備していたわ。あなたがランパルトの挑発に応じなかった時のために、他の文句も教えておいたのよ。雷獣もしばらく抑えてあげたし、騎士団が未だに闘技場に踏み入っていないのは私が手を打ったからよ」
な、何を言ってるんだこの人は。
意味が分からない、全く持って。仮に言っていることが全て本当だとしたら、この人は一体誰の味方なんだ? 俺か? ランパルトか? コーデックか?
この状況に対する恐怖が、体を強張らせる。ただの暴力よりずっと恐ろしいものを、俺は目の前にしているんじゃないのか?
「ぜ、全部、フィーナさんが仕組んだって言うんです、か?」
「まさかぁ」
楽しそうに弾んだ声で、フィーナさんは俺の言葉を否定する。
「そんなことできないし、する意味もないでしょう。私がやったのは、ちょっとずつ、私が見たいものを見れるように働きかけただけよ。ちょっとずつね。実際にやったことといえば、あなたのことを調べてたランパルトに接触して、ランパルトとコーデックを引き合わせて、それからあなたがなるべくキチンと戦えるようにした、くらいかしらね」
それは、ほとんど全部仕組んだと言っていいんじゃないのか?
「ランパルトがあなたを陥れようとしたのも、あなたが決闘を受けたのも、ザインやロゼがあなたに協力したのも、ドロシーがあなたの剣を用意したのも、騎士達の裏切りも、ぜーんぶ、皆がそれぞれの意思で行動した結果じゃないの。仕組んだなんて、そんな人の心を操ること、私にはできないわ」
人の心を操る、っていうのは、魔法でとか、呪文でとか、そういう意味だろうか。言葉で人を誘導するのは、人の心を操るうちにはいらないなんて、そんなことを言い出しそうな気さえした。
「どうして、そんなこと?」
俺はともかく、シアラを不安にさせて、ドロシーを危険に晒して、なんでこんな徒労に近い茶番に付き合わなくちゃならなかったんだ。
どうしてだか、害意や敵意は湧いてこなかった。喪失感と、裏切られたような気持ちだけが心を満たしている。剣をフィーナさんに向けているが、ここままでは振り上げることは、できそうにない。
フィーナさんが微笑んだ。
「あなたが頑張ってるのを見たかったからよ」
「——は?」
「もう一度言ってあげる。コースケが困難に立ち向かう姿を、見たかったからよ」
「……そんなことのために、こんなめんどくさいことを?」
「あら、そんなことじゃないわよ」
フィーナさんは、面倒なこと、という点には反応しなかった。
「私にとってはとてもとても大事なこと。私は私を救ってくれた人の旅に同行したいと、本当に願っていたのよ。そして旅が終わるまで、隣に寄り添ってずっとずっと見ていたいと願っていたの」
フィーナさんが、少女のような無邪気な笑みを浮かべて、すこし気恥ずかしそうに言った。
「生きた物語を読むのが、私の夢だったの」




