021
群れる狼を見下ろして、獣は人が羨望や嫉妬と呼ぶべき感情を抱いたことがある。もうずいぶんと昔の話だ。血の繋がりを持つ彼らは生まれてから死ぬまで、その血のために生きているのだろう。親を持ち、子を為し、群を守る。
彼らには生きる意味があるのだろう。獣は薄れゆく意識の中でそう考える。人に襲われ重傷を負い、けれどそれらを焼き殺した雷霆そのものの獣には、親も子も群もなかった。
信仰によって生じ、生きる災害として草原を荒らし、そして人に狩られる。人々の畏れによって生まれ、人々の恐れによって死を迎える。それが抗いがたい大きな流れだと理解していたとしても、けれどただ産み落とされたに過ぎぬ獣に、理に抗う術はなかった。
『おい、どうした、大丈夫か!?』
薄れゆく意識の中に現れたのは、人だった。彼らの言葉も分からず、個体も見分けられない獣には、けれど彼が気遣わしげに己を抱き上げたことだけは分かった。
『い、今助けてやる! 本物かどうか分からねえが……この魔法具なら……ッ!』
人が取り出したのは、針だった。装飾の施された針。人がそれをまず自分の腕に刺すと、そこから漏れだした血が糸のように伸びた。赤い煌めきを帯びたその血は針に繋がっている。そして次に人は、その針を獣の首に突き刺した。
獣は火を感じた。体の芯から失われつつあった火が、針から流れ込み、傷が癒え、朦朧としていた意識は覚醒し、体の隅々まで力が漲った。針から伸びていた血の糸は既にないが、けれど首の内側に針が残っていることは分かっていた。
獣は、己が人に救われたのだと理解した。
『よ、よかった。よかった。危険な災害種だからって、殺すなんて許せねえ……生きててくれてよかった……』
獣には人の言葉は分からない。獣には人の社会は分からない。けれど獣にも、害意を持つものとそうでないものは分かった。彼は己に害意を抱いていない。何故人が獣を助けるのか、それは分からずとも構わなかった。
親も子も群も持たない、生きる意味すらないただの災害だった獣は、この日に主を得た。
◇ ◆ ◇
左腕が焼けた。
「っ——ふっ——あっぐうぅぅ——」
変な声が出た。激痛が走る。二の腕の肉が蒸発して、焼けただれて黒ずんでいた。その上、網膜に残る強烈な光の残像が邪魔だ。ふらつく脚で雷獣を振り返るが、ふらついて尻餅をついた。脚が震える。
「こ、コースケ!? くそ、《千の火剣》!」
俺と違って体当たりを完全に回避したドロシーが、ガラス片をぶちまけて再び《千の火剣》を打ち込む。
ロゼとドロシーは無事だった。雷獣が再生してすぐに狙ったのがたまたま俺だったからだろう。ただ、まともに回避できる速度じゃない。雷獣の姿が見えていて、その上で筋肉の微妙な動きを察知して回避する必要がある。
雷そのものになる体当たり。まさか剣で雷を受け止めることもできない。アレだけ巨大なエネルギーを生み出すのならば、呪文で天と雷の騎士の力を弱めても焼け石に水だ。特定の精霊の影響をゼロにすることはできない。そして、精霊の影響を弱めようとすればする程、大掛かりな呪文が必要になる。その準備をする時間はない。
再び雷獣の魂が消失する。蘇生まで僅かな時間があるが、恐らくまだ死なないだろう。直感がそう告げていた。
「不死となると、厄介じゃの。何か手はないのか、黒いの」
自然と雷獣から離れた位置に移動するロゼが、俺にそう呼びかける。こんな状況に対して打てる手なんて、あるのか……? いや、ある筈だ。不死なんて自然じゃない。この世界には不死者が溢れていますなんて話は、これまでに聞かなかった。なにより雷獣が不死でないらしいことは、ドロシーの言葉から推測できる。だったら、この雷獣が特殊なんだ。
恐怖と肉体の喪失感が思考を焦がす。焦燥感が全身に纏わり付く。殺せるのか——? いや、殺すことはできる。雷獣は攻撃力と攻撃速度がずば抜けているだけだ。回避に専念して、的確に遠隔攻撃を叩き込めば、殺すことはできる。既に二度、ドロシーが殺している。
問題は不死性だ。《呪文の王》が雷獣に施された欠損のある呪文を解析する。既に発動している呪文は読むことができないが、その痕跡は雷獣の体に残っている。この呪文は恐らく、別の部分と繋がっていた。問題はそれが何か、ってことだ。
「——ドロシー、多分、この先の地下に何かある」
「通路で追われると逃げられないってことね。だったら、私がここで足止めをする」
僅かな言葉で俺の意図を汲み取るドロシー。しゃがみ込んで、右腕に握った短剣を地面に突き立てる。
「私は千の眼、私は領域、私は久遠の吐息——はッ!」
かけ声と共に、ずぷりとナイフが地面に沈んだ。無数の破壊音と共に、壁や床を破って岩が突き出してくる。黒っぽく鋭い岩石がぶつかり合い、入り組んで視界を遮る。雷獣のなるほど、巨大な岩ならば、雷獣の体当たりにも多少は耐えられる。その上、視界が悪ければ正確に狙いをつけることもできないだろう。
即座に植物が岩の表面を這い回り、森なのか岩場なのか分からない混沌とした様相になる。
「ふむ。今度は《支配域》のバリエーションか。赤マフラーは存外器用じゃの。……おい黒いの、わしは残るぞ。主の女はわしがきちんと守ってやる」
「お、おう。頼む」
胸をはるロゼに応じて、俺は岩陰を縫うように走って部屋を出る。ドロシーがロゼを守るんじゃねえのかと思ったけど、実際ロゼなら大丈夫そうな気もしてくるんだよな……。自信満々過ぎて……。
そういえば、雷獣の最初の一撃ってどうやって回避したんだ……? ロゼが攻撃を見てから俺たちを突き飛ばしたとして、間に合うのか? ……いや、結果だけ見れば、間に合ったってことなんだろうけど。
地下通路に入る直前、右目が見ていた魂だけの世界に細い筋が走った。恐らくは小さな生き物のものであろう魂の光の中、地下に続く階段のさらに先に、二つの強い灯が見える。雷獣に向って伸びた魂の光は、そのどちらから飛び出したものだろうと推測できた。
体を動かすと左腕が痛む。消耗が蓄積していた。決闘でもうちょっと進退窮まる状態になっていたら、ヤバかった。全速力では走れない。俺が雷獣を止めれるなら、ドロシーにこっちに向ってもらった方が良かったかもしれない。でも、俺には雷獣を止めれないし、俺がこっちに来たかった。
階段を駆け下りた先は薄暗い通路になっていたが、魔煌灯の光があるので見えないことはない。周囲を覆う植物がうごめき、魔煌灯による複雑な影が蠢く。まるで大きな生き物の体内にいるような錯覚に陥る。
二度ほど角を曲がると、開けた空間に出た。無数の檻のある空間だった。
《呪文の王》が、檻に施された印に気付かせる。ランパルトが使ったあの札は、ここから獣を呼び寄せるためのものだったらしい。雷獣は檻に入れても簡単に出てくるだろうから、別の方法で隔離していたんだろう。だから、札では呼び出せなかった。
檻に施された印の上にいるものを、札を起動させた場所まで呼び寄せる呪文。それが、より正確なあの札の効果だ。
その空間の真ん中に吊るされた男がいた。驚愕に目を見開くその人物は、ランパルトだ。植物に体をつり上げられ、体を覆われている。まるで殺してくれと言わんばかりに、首だけがむき出しにされていた。部屋の壁に吊るされたいくつかの魔煌灯が、ランパルトの顔を照らす。
「は、話が違う! おかしいだろ! なんでこいつがここまで来れた! フィーナ! どういうことだ!」
吊るされたランパルトから離れた場所にある檻の上、そこに腰掛けて優雅に脚を組んでいるのは、フィーナさんだった。ローブの袖から無数の植物が這い出していて、それがこの館を覆う植物たちの大本らしい。
やっぱり、フィーナさんだったのか。どうしてここにいるのか、なんでランパルトがフィーナさんの名前を呼んだのか、聞きたいことはあるが、けどそれは後回しだ。
俺が剣をランパルトに向けると、フィーナさんは楽しそうに微笑んだ。
「あらコースケ、思ったより早かったのね。私の結界は役に立ったかしら?」
「……ええ、おかげさまで」
本格的に暴れだしてからはほとんど即座に焼きちぎられていたが、けれど雷獣を館の中に留めておいたのは、フィーナさんの魔法によるものだろう。そして、ランパルトの動きを封じているのも。
「おいフィーナ! この拘束を解け! 俺が死んだらライガーも死んじまう! なあ、た、頼むコースケ! 殺さないでくれ!」
《呪文の王》でランパルトを見る。そして、雷獣に施された呪文の片割れを見つける。頭の中で雷獣に施されていた呪文と照合し、組み合わせ、理解する。ランパルトの言葉通りだ。
ランパルトが生きている限り、雷獣はランパルトから魂の分け前を受け取る。肉体が再生するのは魔法によるものだろう。全て推測通りだった。
魂が失われれば、肉体を再生しても蘇生には成功しない。雷獣が持つ魂はランパルトの魂の一部だ。だから、ランパルトを殺して肉体と魂が離れれば、雷獣からも魂は失われる。俺とシアラの命を結びつける呪文に良く似た、命にまつわる呪文。それが、雷獣の不死性のトリックだ。
雷獣と戦っているドロシーが、いつ怪我をするかは分からない。もしかしたら取り返しのつかない傷を負うかもしれないし、死ぬかもしれない。それくらい、雷獣は図抜けていた。時間をかけてはいられない。
ランパルトを殺す。殺さなければならない。ドロシーを守るために。
「わ、悪かったよ。反抗した俺が間違ってた。どうやってここまで来たのかは知らないけどよ、ライガーも他の子たちも、全員切り抜けてきたってんなら、完敗だよ。決闘のルールを抜きにしても、俺の完全な敗北だ。認めるよ。もう逆らわないし、何でも言うこと聞くさ。だから頼む、俺が死ぬとライガーが死んじまう……。それだけは嫌なんだよ……」
「奇遇だな。お前が死ねば雷獣が死ぬのと同じだよ。俺が死ねば、シアラが死ぬ。お前は、俺が同じように命乞いをすれば、俺やシアラを殺さなかったのか? 違うよな」
「そ、れは——」
「自分が何を言っているか分かったなら、死ね」
目を見開いて、気力がこそげ落ちたような酷い顔で俺を見上げるランパルト。その瞳に写った俺の顔が、魔煌灯に照らされた表情が見える。心臓が早鐘を打つ。落ち着かない。否定したい何かが見えている。
振り上げた剣を、タイミングを合わせて体重をかけて、振り下ろす。フィーナさんの魔法によって拘束されたランパルトの喉を、俺の刃が切り裂いた。空気が吐き出る音と、血の中から泡が漏れる音。そして、痙攣しようとして植物に抑え込まれたままのランパルトの体。——それはすぐに、動かなくなった。
死んだ。俺が殺した。この世界に来て、はじめての殺人だった。脚が痺れてふらつく。体力を失ったためか、それとも殺人のショックによるものか、分からない。混乱していた。おびただしい量の血液が滴り落ちて、植物に覆われた床に広がる。むせ返るような血の匂いが充満し、フィーナさんの纏う花の匂いをかき消していた。
「血の匂いはいつも不愉快ね。そう思わない?」
「……確かに、不愉快です、けど。えっと、フィーナさん、どうして——」
「あなた——」
彼女の方を向いて、どうしてここにいるんですか? と尋ねようとした俺の言葉に、かぶせるようにフィーナさんが言った。
「——笑いながら人を殺すのね。意外だわ」
「えっ?」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。フィーナさんは笑っている。微笑んでいる。穏やかに、優雅に、植物で作った背もたれに身を預けて、優雅に座っている。そして微笑んだまま、無機質な目で俺を見ている。
心の奥底まで覗き込むような、色のない観察者の目。
その目で、この人は今、何を見ている——?




