017
最初に《呪文の王》でランパルトを見なかったのが、最大のミスだった。最近ずっと剣を振ってばかりいて、それで戦うことしか頭になかった。けど、俺の戦い方はそうじゃない。剣術は所詮、サブウェポンだ。その認識が完全に抜け落ちていた。
「ぐ、ぁ……ッ!」
左腕を鎧ごと食いちぎろうと首を振る狼を無視して、改めて《呪文の王》でランパルトの全身を見る。左腕に激痛が走るが、訓練でさんざん打ちのめされて、痛みには慣れていた。骨が軋んでいるが、無視する。気にしたら負けで、負けたら死ぬ。
さっき使われた札と同じような魔法陣が、ランパルトの体に全部で二十個程見える。それに加えて、何かの呪文の片割れ——命にまつわる呪文だ。ランパルトに施された部分だけでは全体像が把握できないが、どこかで見覚えがあった。けれどそちらは今はいい。問題はあの札のほう。残り十九枚——つまり、この狼みたいなのがあと十九匹も出てくる。
——全部出てきたら、絶対に勝てない。
ランパルトが二枚目の札を取り出そうとした。俺はすぐさま呪文を唱え始める。魔法でないなら、打つ手はいくらでもある。
「《我が目、我が心意、示したるは神の言の葉、与えられたる権限に申し入れらるる彼の祝詞、冒涜の罪を告げ知らしめ》——ッ!」
加速した神経をフル回転させた高速詠唱。舌をもつれさせながら、なんとか唱える。ランパルトの札を作動しないようにする、打ち消しの呪文。
「《呼び寄せよ》! ……な、なんで現れない!? 《呼び寄せよ》!」
ランパルトが困惑する。呪文が発動せず、現れるはずの生物が現れなかったからだ。狼狽えて、俺からさらに距離を取ろうと動き出した。次の札を取り出すまでの間は、時間を稼げる。と、思いたい。
困惑して何度も呪文を唱えるランパルト。俺は次の手を打つ。
「《術式解放、血文字》」
左腕、狼が噛み付いてできた傷から流れ出る血液が浮かび上がり、剣先に集まる。狼に押し倒されたまま、そろそろ嫌な感じに感覚がなくなってきた腕を無視して、集中する。
血液をコントロールし、頭の中に魔法陣を描く。
集まった血液は、ランパルトとガレスさんを迂回して、闘技場の壁面——二つある出入り口よりも高い位置——そこに、細かく飛び散った。
「な、なんだ!?」
「これは……まさか、魔法式!?」
ガレスさん、正解。
僅かな血液を引き延ばして塗り付けるように、闘技場の壁面に呪文を描く。狼に噛み付かれたままでは全身を動かせないので、剣と意思で操って、全周に描ききった。
描いたのは、壁を作る呪文。ただし、普通の壁じゃない。僅かな精神の集中で、呪文が発動する。壁そのもの、呪文が描かれている場所そのものを起点にしたこの呪文は、自分自身を起点にした呪文ほどではないが、かなり簡易だ。長時間、僅かな意識で維持できる。
壁が白く淡く発光する。その光が一瞬で闘技場を覆う。ドーム状——正確には、球状の膜が出来上がり、外と内を断絶する。
「くそっ、次だ! なんかやべえ!」
ランパルトが慌てて、新たに二枚の札を取り出す。けど、もう無駄だ。
「《呼び寄せよ》! 《呼び寄せよ》! くそ、なんで発動しねえ!」
「そ、そりゃあ、お前が三流だから、だろ」
喋ろうとして、思ったより呼吸が乱れていたことに気づいた。
使ったのは、空間断絶呪文。
それを、闘技場の壁を起点に発動させた。
転移呪文は”繋がっている場所”にしか移動することができない。異界や、魔法的に閉鎖された空間を越えて転移を起こすことはできない。転移呪文の本質は、移動の省略に他ならないからだ。移動できない場所には転移もできない。
普通なら、これは弱点でもなんでもない、極小さな欠点だ。けど、あらゆる呪文を理解して唱えられる俺には、その欠点こそ突破の糸口になる。
交差の巫女。空間の繋がりを司る精霊。この精霊を利用し、魔法的にこの空間を外部と分離した。だから、転移呪文だろうが徒歩だろうが、この壁を越えて移動することはできなくなっている。声も光も魔法も、何も突破できない空間の断絶。
転移呪文を使ったことがあったから、すぐに思いつくことができたアイディアだ。
「これで、二対一だな。ぽんぽん、呼び出されたら、たまったもんじゃない」
「お、お前、何しやがったんだよ!? 俺の札をどうやって!?」
ランパルトに返事はせず、左腕に噛み付いた狼を見る。右腕を振るって剣の柄で何度か頭を殴りつけると、怯んだのか牙が緩んだ。息を止めて、蹴りを放つ。押し倒された状態からの蹴りだから威力はないが、それでも狼の牙から逃れることができた。
鳴き声を上げて距離を取る狼。剣を向けてこちらも威嚇しつつ、なんとか立ち上がる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸が落ち着かない。心臓が早鐘を打つ。いやな汗が流れる。歯が震えて、今にもカチカチと音を立てそうだ。左腕は……かろうじて握れる、が、剣を持つことはできないだろう。この怪我は、ヤバい。出血はそうでもないが、筋肉が痺れているのか、二の腕に力が入らない。
観客席から中の様子は見えないけど、もし見えてたらシアラが乱入してきそうだ。そう思ってしまう程度には、満身創痍だった。
狼がこちらに牙を剥いている。唸り、前足に力を入れて、いつでも飛びかかれることを全身で表している。距離は二メートルほど。この距離は、狼の間合いだろう。剣では届かない。
《呪文の王》でランパルトと狼を見る。そこから得た情報で、勝つための手段を考える。
ランパルトと俺は、闘技場の中心を挟むようにして向かい合っていた。淡く光る壁は、ランパルトの足元に微かな影を落としている。広範囲から照らされているためにぼんやりとしているが、やや中央よりに広がっていた。
これ以上傷を負わずに狼を倒せば、多分、ランパルトもなんとかできる。それに、時間もかけていられない。時間が経って集中力が切れれば、闘技場を覆う呪文の結界も失われる。
状況は……辛うじて、整っていた。
「ふん、まあ良い。二対一でも、十分だろ」
「く、くはは……それは——面白い冗談だ。お前は俺には勝てないよ、三流野郎」
無理矢理に笑みを作り、ランパルトと目線を合わせる。怪訝そうな、あるいは探るような顔でこちらを見返すランパルト。剣を構えてはいるものの、明らかに集中できていなかった。隙だらけだ。
左手がろくに動かないから、狼をかいくぐってランパルトの隙をつくことはできないんだけどさ。
「……何言ってやがる。札を封じたくらいで偉そうに言ってんじゃねえ。お前ごとき、こいつ一匹いれば十分だ」
「だったら、試せよ。その狼が、俺の喉に、噛み付けるかどうか」
構えを解いて、剣を握った右手の親指で首を指し示してやる。ランパルトは眉間に皺を寄せて、怒りを顔に出した。
「上等じゃねえか、今ここで殺してやる、よッ!」
ランパルトが剣を俺めがけて投げつける。……何がしたいんだ、こいつ。俺は数歩移動して、剣の軌道から逸れる。それだけで攻撃は回避できるし、二撃目はない……。ってきり、向ってくるかと思っていたけど。
回転しながら飛ぶ剣が、唐突に剣先を俺の喉に向けて、軌道をぐにゃりと変化させた。
投げた剣の軌道を操作する魔法——? ドロシーがナイフを空中で操れるが、同じことがランパルトにもできるのか——!? そして、確かにこれは、直接攻撃を行なう魔法ではない——あくまで、投擲を補助するための魔法だ。
あくまでグレーゾーン。どんだけ汚い手を持ってるんだ。……《呪文の王》なんて埒外の能力を持つ俺が言えたことじゃないけど。
剣は、ギリギリで回避すれば良い。それしか手がない。剣だけを回避するなら手段はあるが、けど、それだと俺は死ぬ。
視界の端にいた、狼の姿がない。そのことを確認して、俺は喉元を示していた右手を握り込み、剣先を真下に向ける。
俺自身の影に向かって。
外周を覆う空間断絶呪文の壁、その光によって現れた薄い影。ランパルトの影と逆方向に、俺の前にわずかに伸びる、ぼんやりとしたその影が、インクを落としたように暗く、黒く染まる。そして、白い牙が現れた。
影が肥大したように見えたそれは、黒い狼だ。
影と影を行き来する呪文を施された魔法器官。これも、転移呪文の一種だ。生物が持つ魔法器官は、複雑な呪文を最初から体に刻み込んでいるようなものであり、それは人が描く魔法陣や言葉による詠唱の限界を簡単に越えてしまう代物であることが多い。ファンタジーがまかり通るこの世界で、数多くの生物たちの不可思議な特性を実現する、謂わば生体呪文。
この狼の必殺の攻撃手段。
だから、必ずその方法を使うと思っていた。
最初から狙いは狼。その牙が影越しに狙う喉から、逆向きに、ちょうど狼の上あごと下あごの中心に向って、真っ直ぐに剣を構える。胸元で保持した柄を握り込み、体重をかけて、狼の口内に刃を突き込んだ。
ずぷりずぷりずぷりずぷりずぷり、と。小気味良い音と振動を感じさせながら、狼の体内に剣が進んでいく。そのまま体重をかけて、体を伏せるようにしてランパルトの剣を、紙一重で回避する。この剣に気を取られていれば、狼の牙は俺の喉を貫いただろう。
ただし、《呪文の王》でネタバレさえしていれば、大したことのない戦術。むしろ、剣と狼の攻撃のタイミングが絶妙過ぎて、回避しやすかったくらいだ。
痙攣した狼の爪が頬を擦ったけれど、大した傷にはならなかった。
「そ、そんな、バカな……ッ!」
「く、くははは。これで、一対一だぜ、ランパルト」
ずるりと、死体から剣を抜く。その場に捨てた狼の死体。こぽりと奇妙な音を立てて、その口からおびただしい量の血液が吹き出し、闘技場の地面を濡らした。剣も血まみれだったが、幸いなことに刃こぼれはしていない。
そして、血まみれの剣先を、ランパルトに向ける。
「来るな……来るんじゃねえ……」
狼狽したランパルトが後ずさる。俺はランパルトを追いつめるように、一歩ずつ歩を進める。単に、走る体力も無いだけだけれど。それをランパルトに悟らせないよう、あえて余裕ぶってみせる。
「だから、言ったろ。勝つのは、俺だって」
ランパルトと目が合う。怯えた目だ。自分が攻撃される側になって、一方的に殺される側になって、恐怖でも感じているのかもしれない。見開いた目が、俺を見上げる。
「は、話が違う! 今のでお前は殺せるはずだ! それに、おかしいだろ! なんでヴェニーの能力を知っている! あいつはずっと北に住む狼で、この辺じゃ誰も知らない! そのはずだ!」
「……言いたいことは、それだけ、か?」
剣を振り上げる。これを振り下ろせば、ランパルトにとどめを刺せる。完全に戦意を喪失した目。剣の投げたのがランパルトの失敗だったと思うが、黒い狼の一撃で殺せると踏んでいたのなら、理解できない手ではない。ただ、今となっては、それは愚策だったわけだ。
戦術を、判断を、先に後悔することはできない。それは、あの暗い洞窟で俺が学んだことで、きっと今、ランパルトが学ぶべきことなんだろう。判断が正しかったのかどうか、あらかじめ知ることはできない。けれど、一つ一つ決めて、戦わなければならない。
だから、情報は力なのだ。ザインの言った、傭兵の教えを思い出す。
「降参するか、死ぬか。どっちかだ、ランパルト」
俺が最後にそう言うと、ランパルトは息を飲んで、それから、言った。
「こ、降参だ……。降参する……頼む、殺さないでくれ」
「……勝者、コースケ・ムスミ殿」
少しはなれたところで様子を見ていたガレスさんの言葉で、決闘が終わりを告げた。




