008
「コースケ、やめた方が良い」
殴り掛かろうとした腕を、ドロシーに掴まれた。抑えている場所にコツがあるのか、力を込めても動かすことができない。
「先に手を出した方が不利になる。ここは路地裏じゃない」
「……チッ! わかったよ」
腹の中が煮えたぎったような気分だ。ランパルトから手を離す。ニヤニヤ笑いは相変わらずだ。
「それで、どうするんだ? 決闘に応じてもらえんのかね?」
「わ、わたしは、構いません!」
シアラが声を上げた。
「いえ、その……わたしは、兄さんに任せます。ご、ごめんなさい。ちょっと、混乱してて」
震える声でシアラが言う。商人としてのシアラと、真反対の弱い部分が引きずり出されていた。その姿を見て、胃が鉛を流し込まれたように重くなる。いや、鉛というより、溶岩だろうか。
親父の気持ちが今ならわかる。
人を殴りたい気分ってのは、こういう気分なんだろう。今だったら、俺や母さんを殴りつける親父のことを、許せるような気さえする。
「お前が決闘に勝てば、俺の命と地位を全てお前にやるよ。いいぜえ、領主の息子って立場は。大抵のことは融通が利くからな。ほしい物も大抵は手に入る」
別に興味ねえよ。金で妹が買えんのか?
「面白そうじゃから、ワシも応じてよいぞ」
ロゼが言った。応じるって、決闘の対価になるって意味だろうか。
「……おいロゼ、冗談なら冗談って言わねえと、突っ込み不在になるだろうが」
「冗談ではないわい。面白そうじゃからの。それに、ザイン、ぬしも困ろう? 微力とはいえ、コースケたちに貸しがあるのじゃからな。さっき返し損ねたしの」
「そういうことをここで言うんじゃねえよ……」
ザインが不愉快そうに唸った。それから舌打ちをして、ロゼに確認する。
「良いんだな?」
「構わん。最近は退屈しとったし、どちらにせよあの小物にわしをどうこうすることはできんじゃろ」
「わかった。コースケ、ロゼはお前の決闘の対価になるとさ」
いやいや、話が見えない。全然見えない。なんでそうなった。貸しってなんだよ。混乱している俺を余所に、ランパルトは愉快そうに笑った。聞いてる俺は不愉快になる笑いだった。
「こりゃあ運がいいや。一気に良い女が二匹も手に入るとはね。くはは、このガキをぎたぎたのボロ雑巾みたいに伸して、その目の前で奴隷解体ショーでもやったら最高に愉快だな。そのときはそこの赤毛のおっさんも招待してやるよ」
ランパルトが大仰に両腕を広げる。
「それで、どうすんだ? コースケ。お前は、決闘に応じるのか? 結局、俺の相手はお前だからな。そこの二人が何を言っても、お前が乗らないならこの話は無しだ」
「応じるさ」
溶岩のような熱を吐き出す。
「俺は今、お前を殴り飛ばしたくて仕方ないんだよ」
「はは、決闘成立だな。俺が勝ったら、そこの二人は俺の女だ。お前の前で犯してやるから、楽しみにしておけ」
「俺が買ったら、あんたは二人に手を出さないし、財産と命を差し出す。間違いないな」
「もちろんさ。最も大切な物を奪えるから、決闘には意味があるんだ」
それだけ言うと、ランパルトは俺の隣を素通りして、出口に向かって歩いていく。
「じゃあな。決闘の日取りは追って伝えるが、まあ一週間後くらいを目処にしといてくれ。それまでせいぜい、乳繰り合っててくれよ。じゃーなー」
そして、部屋から出て行った。扉が閉まる音が、嫌に大きく聞こえた。
◇ ◆ ◇
「随分大変なことになったわねぇ」
宿屋に戻ると開口一番、フィーナさんがそう言った。
ザインたちとは明日改めて話をすることになっている。取っている宿も違うし、今日はもう遅いので、一度別れることになったわけだった。
「コースケにも男らしいところあるのね。あんな風に低い声、はじめて聞いたわ。私かなり好みかも」
「いや、そういう冗談はいいんで。ていうか、なんでついてきてくれなかったんですか……」
深いため息をついて、どかりと備え付けの椅子に座る。ドロシーとフィーナさんはベッド、シアラは先に休むと言って部屋に戻っている。なので、ドロシーとフィーナさんの部屋に俺がお邪魔している状態だ。
魔煌灯の光で照らされた薄暗い部屋で、俺たちは話をしていた。
フィーナさんが意外そうに俺を見る。
「私がついていったところでどうにもならなかったでしょ。相手が使ってきたのは権力であって、交渉力じゃないし、結局頭に血が上ったあなたが悪いわ」
「舌先三寸で決断までの時間を引き延ばすくらい、フィーナさんならできたんじゃないですか?」
「うーん、でもあなた、シアラやドロシーのことになると怒りっぽいじゃない」
「そんなことないですけど……」
あー、くそ。どうすんだこれ。決闘って、あいつどのくらい強いんだよ。シアラよりは弱いし、ドロシーよりも弱いだろうけど……。間違えなく、呪文無しの俺よりはずっと強い。そもそも体格で負けてるしな。
冷静になって考えれば、あんなもん受けるんじゃなかった。勝っても得しないのが不毛だ。
「ま、仕方ないでしょ」
ドロシーが言う。
「実際、あいつがシアラの立場を脅かせるカードを持ってるなら、目を付けられた時点で潰されてもおかしくなかったんだし。本当に西風の薔薇売りに圧力をかけられたかはわからないけど、可能性を臭わせるだけっていうのがまた嫌らしいわよね」
「あの話をしてた時、私まだ食堂にいたから、周りの人に聞いてみたんだけどね。ルドルフ・オゲインが西風の薔薇売りに、有力な何らかの条件を持っているのは本当みたいよ」
「いや、つーかフィーナさん、聞いてたんですか? どうやって?」
「あら、いつだったかも使ってみせたじゃない」
フィーナさんの声が背後から聞こえて、俺は振り返る。そこには、オレンジ色の花が咲いていた。床の木目の隙間から茎を伸ばして、大きな花びらが不安定に揺れている。
「《這い探る女王蘭》、という魔法よ。私たちラウリルネ族が植物と体を共存している感覚と、その秘伝と伝承による英霊効果を利用して扱う魔法の一つ。この花は、私の声と耳なのよ」
「……でも、こんな花どこにもなかったと思いますけど」
「この街は植物だらけだからね。昼のうちにいろんなところを散歩して、マーキングしておいたのよ。そこから適当にあなたたちをつけて、あとは木の壁を貫いて茎を伸ばして、観葉植物の影にでも花を咲かせれば問題ないわ」
「問題ないんですか」
「問題ないんです。ま、オレンジの花がバレやすいから、流石に万能ではないけれどね。ある程度は当てずっぽうで狙いを定める必要があるし」
「……まあ、いいじゃないそんな便利な魔法の話は」
ドロシーがフィーナさんの話を遮る。
「決闘のことも、まあ一週間でなんとか対策を立てるしかないでしょ。受けちゃったものは覆しようがないんだし。最悪、全員犯罪者になって逃げるとか、そういう手段もあるでしょうし」
「いや、それは二人に申し訳ないだろ。基本的に、俺とシアラの問題なんだから」
ドロシーがむっとした顔をする。
「なにそれ、私は関係ないって言いたいわけ?」
「実際、関係ないだろ。シアラが脅されて、俺が決闘を受けたんだから」
「……そう、そういうこと言っちゃうのね」
一瞬、ドロシーの表情が消えた。次の瞬間、平衡感覚と視界がぐるりと回転して、目の前にドロシーの顔があった。
ついでに、首元にはいつの間に抜いたのか、ナイフが突きつけられている。
背中には柔らかい感触がある。どうやらベッドに引き倒されたというか、押し倒されたというか、とにかくそういう状況だと、遅ればせながら理解できた。
「えっと、ドロシー?」
「…………」
ドロシーは何も言わず、俺を見下ろす。無表情で、色のない目で真っ直ぐに俺を見る。




