023
《闇除けの呪文》は視界を入れ替える呪文だ。
暗がりの中からわずかに届く光を増幅した「視界」を、本来の「視界」とを入れ替えることで、暗闇の中を視認できるようにする。それが《闇除けの呪文》の本質。
この呪文には様々な形式がある。気高き光の妖精と呼ばれる光の精霊を用いれば僅かな光を増幅する《闇除けの呪文》になる。火や熱の精霊である空と炎の王を選べばサーモグラフィのような視界を手に入れられるし、生命の精霊である踊る明滅を選べば生体探知が可能だ。
精霊が強く影響しているものを可視化する。それが《闇除けの呪文》の骨子であり基本形、すなわち《視界替えの呪文》だ。
「ネディアさんに感謝だな。あの眼鏡を見てなかったら、このアイディアは思いつかなかった」
呪文で感覚を操作できる。この場合、重要なのはその一点だった。
ドロシーとユーリさんに施した《闇除けの呪文》の効果は数分。これは、抽象的な相手を呪文の影響下に置く際に魔法的要素が必要になるからだ。呪文の影響範囲を、自分の頭の中でイメージとして組み立てなければならない。
ドロシーと出会った時に戦った、ワイバーン。あのワイバーンに呪文をかけたとき、俺は知らず知らずのうちに魔法的な呪文を使っていた。あの場、自分が立っていた場所を起点として、不死の精霊の力を弱め、生命の精霊の力を強めた。あの時に必要な時間はほんの数秒だった。だからうまくいったわけだ。
今ならもっと長く、もっと正確に呪文を操れる。魔法を発動させた経験が、そのことを確信させる。
「《我が立つ地、我が見る域、心意になぞらえ揃え握り、碑文の死者の元に名付けらるるは第一領域》」
《闇除けの呪文》を破棄してから、詠唱を始める。階段の下から上まで、想像力で空間を掌握し、呪文を重ねていく。
その対象は、階段上までの空間。幸い、あそこには置き去りにしてきた使い捨ての照明装置がある。その位置までを意識して、その内部を変化を知覚できない領域にする。
「《外縁の空、名は第一領域、気高き光の妖精は循環し封鎖され不変たれ》」
光、音、魔法の揺らぎ、熱、風。それら一つ一つを司る精霊に働きかけ、それらが魔造生物に与える影響を固定化していく。同じ視界、同じ匂い、同じ音、同じ感覚が彼らを支配するように、呪文を織り上げていく。織り上げた呪文を把握したまま、それにまた名前を付ける。
「《碑文の死者の元に名付けらるるは第二呪文。彼の者、心意に従い示さるる彼ら、地平までの道のりを辿る霊気、天上の歌を識り能う旗、目覚めを覗き見る三つ鏡、掌握したものの波を舐める指先、碑文の死者の元に名付けらるるは第三領域》」
魔造生物たちの視界を、聴覚を、一つ一つ指定し、重ね合わせた呪文がまとめて効果を発揮するように、名付けた呪文が与える変化のない世界を、その知覚とすり替えるように詠唱していく。
「《此処は第一領域、与えたるは第二呪文、限るは第三領域、世界との接点は切り繋がれ、また解け結われる》」
最後の一節を詠唱する。
「……これで、あいつらには、俺たちはここで立ち止まっているように見える。ハズだ」
「そんなに長い呪文、はじめて聞いたわ。あなたって、本当に規格外ね」
「俺じゃなくて、《呪文の王》がね。呪文の効果が切れる前に走ろう。なるべく音は立てないように」
「わかったわ」
ドロシーが頷く。が、ユーリさんの声が続かない。
「本当に、大丈夫なんですか?」
不安気な声だ。見るとユーリさんは少し俯いて、目を逸らしていた。信じられないのも無理はない。普通、こんな呪文は口頭で詠唱したりしないから。
きちんと説明できるのが最良。ただその時間はない。俺がそう思っていると、ドロシーが代わりに答えた。
「大丈夫よ。コースケの呪文は本物だから。それとも、信じられないならここに残る?」
「……いえ、残っても意味はありませんね。お二人が行くのなら、私も行きます」
ユーリさんが息を飲んで、顔を上げた。
こういう時、女の子って切り替えが早いというか、腹を括るのが早い。ただの経験則だけどさ。
三人で慎重に、魔造生物の横を通っていく。幸い、身を縮めれば通れるくらいの隙間はあった。触れても気付かれないように呪文をかけたけど、効果の程までは試さないと分からない。気付かれる要素は極力排除した方が良い。
間近に魔造生物の息づかいを感じる。こいつらもきちんと呼吸してるんだな、なんて場違いなことを考える。すぐに頭を振って、呪文に集中した。詠唱した呪文は、使い手の集中力によって維持される。できるだけ余計なことは考えない方が良い。
「こいつは、体の上を歩かないとだな」
息を飲む。巨大な蛇がゆっくりと体を動かし、通路の中で狭そうに身じろぎしている。動きや時間を止める呪文じゃないから、外界に関係なく動くことを止められるわけじゃない。呪文が発動した瞬間の世界を、この蛇は知覚している。
蛇独特の呼吸音。自然と息を飲んだ。こいつに食われたら、助からない。手足が強張る。もし俺の呪文にミスがあったら、ここでゲームオーバーだ。ただ、それは今言っても意味のないことだった。
「じゃあ、私から行くわね」
ドロシーが気軽に言う。壁と蛇の体の間に入るようにしてよじ上るが、蛇は……動かない。良かった。こいつにもきちんと呪文は効いているみたいだ。胸を撫で下ろす。
「近くで見ると、迫力ありますね……」
震える声でそんなことを言っているユーリさんをドロシーが引っ張り上げ、俺も登る。蛇の体の上をそのまま歩くと滑りそうなので、壁に手をつきながら、降りたり登ったりを繰り返して進んでいく。
やがて階段を上り終え、開かれた通路にたどり着いた。置き去りにしたはずの使い捨ての照明装置はぐちゃぐちゃになっていて、恐らく蛇が踏みつぶしたんだろう。蛇の体は湖とは反対側の通路に続いていた。どれくらい長いんだ、こいつ。
蛇の体を足場にして、通路から出る。
やっと洞窟に戻ってきた。ため息をついた。ドロシーとユーリさんも、心無しか表情が緩んだ。
蛇が動いた。
何気ない動きだったのだと思う。俺の感覚では、呪文はまだ有効だった。だからそれは、俺たちに気付いての動きじゃなかったはずだ。ただ不愉快そうに体を動かして、それが通路の壁面にぶつかり、小さくない振動が起こった。
もしかして、気付かれた? そう思ってしまう程度のアクシデントだった。
集中力が切れて、呪文が途切れる。空間を掌握していた感覚がなくなり、呪文の効果が失われたのが分かった。
「まずい、呪文が解けた」
「走って!」
俺の言葉にドロシーが叫ぶ。直後、走り出した俺たちの足音を聞きつけたのか、蛇が動き出したのが分かった。体を器用にくねらせて、通路から這い出る。
「やばいです、ああいった大型の蛇は見た目に反して動きが早いですから、丸呑みにされます! 意識があるまま溶かされます! あああああ! もういやだ! なんで私がこんな目に遭うんですか!?」
ユーリさん、唐突に本音が出た。俺だって同じ気持ちだ。
蛇が迫るのが呼吸音と地面を這う音とで分かる。分かってしまう。大蛇は圧倒的に俺たちよりも素早い。幸いなことに斑食虫は洞窟内には少なく、また広いこの洞窟で俺たちを襲うこともないみたいだった。この場所から最短経路で外に出るとすると、まあ、どんなに頑張っても蛇に追いつかれる。
狭い通路もないから、逃れることもできない。地上に出ることを諦めるなら、この大蛇が入れない隙間はいくらでもあるんだけど……。
「問題ないわ、任せておきなさい」
ドロシーがそう言った瞬間、消えた。いや違う。振り返ると、ドロシーは脚を止めていた。そして蛇に向かってナイフを構えている。
「ドロシーさん!?」
ユーリさんが悲鳴を上げる。俺は、息が詰まって言葉が出せなかった。なんなんだドロシー。死ぬ気なのか。
蛇が口を開いて、ドロシーが飲み込まれたのが分かった。ユーリさんが握っているランタンに照らされた蛇の艶かしい喉が嚥下された。
死んだ。ドロシーが。
どうしてあんなこと。意味ないじゃないか。足止めにもなってない。
「ド、ロシー?」
掠れた声が聞こえた。俺の声だ。別人の声にも聞こえる。
蛇がこちらを見た。見下ろすように。見下すように。無機質な目で。
「おい、ドロシー、なんで立ち止まったんだよ! そんな蛇倒せるわけないだろ! せめて魔法で応戦しろよ! なんで棒立ちだったんだ! アレじゃあまるでーー」
炎が爆ぜた。
蛇の腹部から赤熱した刃が無数に飛び出し、次に腹部から顎に向かって一気に爆発した。白い蛇はのたうち回り、洞窟の至る所にその体をぶつける。飛び出して拡散した炎の剣は、次の瞬間、蛇の頭部に集束した。
蛇の頭部は一瞬で炎に包まれ、やがて炎は消える。くすぶった火種に焦がされる蛇の体だけが残った。
《千の火剣》。最後の一発。
焼けた腹の中から、ドロシーが這い出てくる。蛇の体液と煤でどろどろになって、けれど無事なまま。不愉快そうにそれらを拭う仕草には、余裕すら感じられた。
ドロシー先生が主人公過ぎてやばい。




