021
「……急いで帰る理由ができた、っていう程度ね。どっちにしろ、このことを洞窟を調査してる他のグループと連絡を取る手段はないんだし、私たちが戻るしかないわ」
俺の話を聞いたドロシーが言った。俺の肩を叩く。
「元気出しなさいよ。落ち込んでもしょうがないんだから」
「……ああ、分かってるよ」
「けれど、斑食虫と共に魔造生物が現れた、なんてことはこれまで記録されていないはずです」
言ったのはアリシアさんだ。その言葉に、ドロシーがため息をつく。
「そんなこと言っても、現れてるものは仕方が無いじゃない。それとも、私たちの身内が嘘をついたとでも?」
「そもそもあんな長い口頭呪文が成立するなんて、信じられません。私たちを騙そうとしてるんじゃないですか?」
な、何を言ってるんだこの女。馬鹿じゃないのか。
アリシアさんは顔面蒼白で、今にも倒れそうに見えた。ユーリさんの様子もおかしい。意識が飛びかけている。
「あ、アリシア。落ち着いてください……」
「だいたい、あなた達の判断ミスなんです。ネディアが死んだのも、ユーリが怪我をしたのも。あなたたち、苦痛好む真理を貶めるための刺客なんですね? そうでなければ、こんな状況になるはずはありません。遺跡は安全だって、分かってたのに」
ユーリさんが小さな声で言うが、アリシアさんには聞こえていない。それどころか、ユーリさんを抱えたまま、俺たちから離れるように移動する。幸い、そちら側は元の通路ではないため、斑食虫に教われる危険性は低いが……。
判断ミス、と言われればそうかもしれない。至る所にミスはあった。俺のせいだと言われればその通りかもしれない。最適な判断をしてきたつもりだけれど、それでもミスは確かにあったし、俺の想像していない最適解があった可能性もあるだろう。
けどそうじゃない。それを今言って、状況は好転しない。意味が無い指摘だ。
「アリシアさん、俺たちはーー」
「近づかないで! この子は殺させないわ!」
血走った目で俺たちを睨むアリシアさん。ユーリさんに肩を貸しながら、少しずつ俺たちから距離を取る。
「コースケ、言っても無駄よ。こうなったら、人間、何も信じられないから」
「うるさいうるさいうるさい! 私は正常だ。私は間違っていない。私は、ユーリを守らないといけないんだ! でないと、フィーナに顔向けできない」
フィーナ? それって、フィーナさんのことか? 水を舐める猫の、フィーナ・ルルイエ?
どうして今あの人の名前が出てくる? この二人、フィーナさんと関わりがあるのか? それとも、ただ同名の別人?
一瞬、混乱した。そして、その一瞬だった。
アリシアさんの首があった場所は、灰色の岩に変わっていた。
「ーーえ?」
「これは、ヤバいわね」
ドロシーが息を呑む。岩ーーに見えたそれは、灰色の生き物だった。巨大な顎で、アリシアさんの首から上に噛み付いていた。鈍い音がして、アリシアさんの首と頭部が千切れる。体は力なく崩れ落ち、ユーリさんも血溜まりの中へ。そして、ばりばりと頭蓋骨を噛み砕く音が響いた。
通路に、器用に足を折り畳んで入ってきたのは、魔造生物。四つ以上は足のある、円盤のような体のそれは、口元をうごめかせていた。外部の牙と内部の歯とが別にある。咀嚼のための歯と噛み切るための牙。威力と効率を両立させる構造になっている。
ユルズが撃退したあの四本足の生物を、大型にしたような生物だ。大型にして、より凶悪にしたような。
牙よりも中心に近い位置。柔らかそうな組織が動いて、アリシアさんの頭部が飲み込まれたことが分かる。
「《岩の槍》!」
ドロシーが叫んで腕をそいつに向けると、地面から岩の槍が飛び出してアリシアさんの死体ごとそいつに突き刺さった。喉のような柔らかい部分。そこを貫かれた生物は、悲鳴のような、奇妙な鳴き声を上げた。足が浮かび上がり、バタバタと動かすが、身動きは取れないみたいだった。
「コースケ、ユーリを!」
「わ、わかった!」
震える足を無理矢理動かして、倒れているユーリさんを起こし、抱きかかえたまま、魔造生物と距離を取る。足を動かしている感覚はなくて、頭はぼんやりとしていた。呼吸が荒く、心臓も肺も痛い。プレッシャーが、体を軋ませる。
「沈みなさい、《岩の斧》!」
通路を縦に割るように、天井から巨大な岩の刃が落ちる。轟音。魔造生物の体がくの字に折れ曲がり、足は痙攣している。一撃だった。
「ふう。疲れるわね。けど、地中の遺跡なら、私の庭みたいなものよ。崩落が心配だけど、どっちにしろ死ぬんならなりふり構ってられないし」
「そりゃあ、そうだけどさ。まだ死にたくはないから、もうちょっと抑えてほしいかな。怖すぎる」
「まあ、そんなことは良いのよ。それで、ユーリは大丈夫? 傷、放置してたけど、処置した方が良いわね」
そうだ。ずっとユーリさんの怪我を放置したまま話していた。気分も悪くなるはずだ。
体をぶつけないように床に寝かせる。腕の部分を破いて、傷口を確認した。
「……幸い、普通の傷みたいね。膿みそうだけど、応急処置ではひとまず無視しましょう。遺跡の水は不安だし、そもそももう血まみれだしね」
通路の両脇にある溝には、大量の血液が流れ込んでいた。血の匂いが充満している。魔造生物のものと、アリシアさんのものだ。
ドロシーが切り裂いたユーリさんの服で傷口を拭う。ユーリさんがうめき声を上げるが、構わず続ける。幸い、出血は酷くない。
「痛ッ! 痛い痛い! うあっ……」
薄めを開け、ユーリさんがドロシーを、それから俺を見た。
「あの、アリシアは……」
額に汗をにじませて、ユーリさんはか細い声で尋ねる。首を振って答えた。それだけで意図が伝わった。ユーリさんは諦念を感じさせる仕草で、ぎゅっと目を瞑った。
「アリシア、どうして……。私を残して死ぬなんて……」
ああ、そうか。アリシアさんとユーリさんは、ただの仕事仲間じゃなかったんだ。だから、アリシアさんはあんなに必死になって、ユーリさんを守ろうとした。
だったら、ユーリさんは、シアラだ。
「消毒終わり。とりあえず止血もした。立てる?」
「……はい、立てます」
ふらふらと、ドロシーに支えられてユーリさんが立ち上がる。
目に生気はなく、ぼんやりと、乱れた髪をそのままに、血塗れた服を無視するように。死んでいる魔造生物と、アリシアさんの亡骸を見た。
「……死んだものは、戻りませんね」
何も返せない。だから、代わりに言う。
「魔造生物の横を通れば、先に進めます。元の通路に戻らないなら、急ぎましょう。ドロシーも、それでいいよな」
「ええ、それが最善だと思う。あの通路から広がる路地の、どこが遺跡の出口に繋がってるか分からない。なら、元来た道を辿るのが最適だと思うわ」
ドロシーは冷静だ。けれど、微かに声が震えていた。
ボロボロだ。そして、ギリギリだ。判断ミスは沢山あったが、一番は、運が悪かった。それだけだ。
……運が悪かった、不運だった、それだけで、人生は狂うし、簡単に終わる。俺の人生は、不幸ではなかったが、不運ではあった。その度に、不運なりにできることをしようと、そう考えてきたはずだった。そう考えれば、親父にだって立ち向かえた。何度殴られても、姉を守るくらいのことはできた。
今だって一緒だ。
変わらない。
不運なら不運なりに、できる限りのことをするだけだ。今だって、大事なものがちゃんとある。シアラも助けにいかないと。今度は俺が兄なのだから。姉さんが俺の心を慮ってくれたように、俺がシアラを助けてやらないといけない。
深呼吸。心を鎮める。頭をクリアにする。感情の波をフラットに。
「アリシアさんはここまでの道順を覚えていると言っていましたが、ユーリさんはどうですか?」
最初に出た言葉は、これだった。ドロシーが覚えているとは言っていたが、確実性は高い方が良い。
「私も、大丈夫です。記憶しています」
青白い顔でユーリさんが応じる。
「なら、進みましょう。今度は俺が先導します。ドロシーは最後。戦闘はできるだけ避けて、確実に進む」
「……コースケ」
ドロシーを振り返る。
「できるの?」
「できる」
俺は即答した。
決意だ。遅すぎる決意。今更の覚悟。けれど、いつだってそれをするためには、時間ときっかけが必要だった。
「ユーリさんは、絶対に守る。もちろん、ドロシーも」




