020
「ひとまず安全ね。ねえコースケ、転移呪文は使えないの?」
ドロシーがため息をついて尋ねた。
転移呪文……確かにその手段がある。けれど、あれはドロシーの補助があって、しかもかなりの大きさの魔法陣を描かなければならない。チョークのようなものがあれば、確かにこの通路にも描くことができるが……。
「できるかもしれないけど、転移先はドロシー任せだ。野営地でもハインアークの宿でもいいけど、そこに転移できる?」
「……宿の方なら」
「それは無理だと思います」
ドロシーと俺の会話に、ユーリさんが割り込んできた。
青白い顔で、声は震えていた。先ほど斑食虫に狙われたからだろうか。憔悴しているようにも見える。この一瞬で顔がやつれたようにすら感じられる。
「ハインアークは転移呪文の宛先にできないような広域呪文が施されています。その呪文の穴を付くこともできるとは思いますが、とっさに可能なほど甘いものではないはずです」
……そういえば、確かに。街全体にいろいろと呪文が施されてたが、その中に外部からの転移を阻害するものがあってもおかしくない。利便性のためと街のセキュリティのために施されていたものがほとんどだからだ。詳細を記憶してはいない。宿の鍵の呪文の他にも、さまざまな呪文が施されていたんだった。
《呪文の王》の弱点だ。今見られない呪文を、解析することはできない。
「野営地は?」
「特徴に乏しすぎる。テントも朝畳んだから、眠った場所といってももう完全に無いんだし」
……転移呪文は無理。そういうことだ。やはり、遺跡を走破するしかないのか。遺跡を走破したところで、メギルマ洞が安全かどうかは分からない。
「せめて外部に連絡が取れれば良いんですが、通信用の魔法具はネディアが持っていましたし……」
アリシアさんが言う。そして、ハッとする。
双子の糸! 俺とシアラを結びつける血の繋がりを使えば、会話くらいなら成立させられる可能性が高い。すぐに《呪文の王》の権能を使って、その方法を探る。
見つけた。直に呪文を組み立て、唱える。
「《双子の糸よ導き、微風の乙女よ従え》」
数小節に渡る詠唱を続ける。早口言葉みたいに、けれど間違えないように素早く唱え、数十秒。呪文を終え、少しだけ待つ。
「……シアラ、聞こえるか!?」
「に、……ん。兄さん、兄さん! 兄さんですか!?」
一瞬ぼんやりとしていたが、直にはっきりと声が届いた。シアラとだけ使える呪文だ。そうでなければ、とてもじゃないが口頭の詠唱だと間に合わない。
「シアラ、呪文で会話ができるようにした。今洞窟の内部にーー」
「兄さん、大変なんです! 助けてください!」
思わず言葉を飲み込んだ。脳が冷える感触がする。
斑食虫が遺跡から飛び出して、そしてメギルマ洞に残らない。ならば、当然洞窟のさらに外に出ることになる。そして、そこにはーー
「待機していた人たちが斑食虫に襲われてて、戦える人がほとんどいないんです!」
ーー最悪だ。
同じく遺跡を調査していたもう一つのグループも無事とは限らない。洞窟の他の部分を調査していたグループも、襲われている可能性があるだろう。
昨晩感じた違和感の正体に気づく。
ハインアークの誰もが知っている斑食虫の大量発生。そしてその発生源がメギルマ洞であることも、フィーナさんは知っていた。このことが、街のすべての人が知らずとも、知っている人が少なくない情報だとすれば、だとしたら、この依頼は……。
この依頼は、地雷だ。
そして、そもそも苦痛好む真理は、なぜこの危険な時期に調査を行ったのか。おそらく、この時期に調べなければならないことがあり、意図的にこのスケジュールにしたんだろう。
結果が、これだ。
「シ、シアラ。落ち着いてくれ。こっちもヤバい。助けにいけるかどうかはわからないが、どっちにしろ確認してほしいことがある」
「《爪先》! チッ、ああ、もう、めんどくさい! なんです、兄さん!」
「斑食虫はまだ洞窟から出てきているか!?」
「うじゃうじゃと! 元気いっぱいですよこいつら!」
「クソッ。シアラ、俺たちは大丈夫だ。フィーナさんくらいは守っても良いが、他を守る必要は無い。自分の命を最優先に、さっさと逃げろ!」
「兄さんたちは! どこにいるんですか!?」
「俺たちは洞窟の中にある遺跡にいる。斑食虫に襲われて、三人死んだ」
シアラが息を呑む気配がした。ユーリさんとアリシアさんも、表情を歪ませる。ネディアさんや、護衛二人の死に、何も感じない人ではないだろう。そのことはたった二日の交流であっても十分に分かることだった。
「ここから戻るなら、遺跡から出るまでに早くて三十分、洞窟から出るまでにさらに一時間はかかる。それまでなんとか耐えるか、ハインアークまで戻ってくれ!」
「それはいやです!」
「わがまま言うなよ!」
「一人にしないって言ったじゃないですか!」
シアラが泣きそうな声で叫ぶ。俺は、絶句した。一瞬、なんと返すべきなのか、分からなかった。分からないまま、言葉をひねり出す。
「……それは、そうだけど」
「私は多分、死ぬほどじゃないです! 斑食虫の大半はハインアークの周辺に向かっています。襲ってきているのは対応できる数です。だから、頑張って戻ってきてよ! ーー待ってるより危ない方が、ずっといいから」
泣きそうな声。
毎晩涙を流して、必死に俺を抱きしめて、そんな子が、不安にならないはずがない。
簡単なことだ。誰だって分かる。けど、俺は気づけなかった。余裕が無かったからだ。
「死なないなんて当たり前です……! そうじゃなくて! 無事に戻ってきてください! 私のところに! いなくならないでください! 一緒に死ぬなんて当たり前なんです! もう寂しいのは嫌だから……」
「分かった、任せておけ」
涙声のシアラに、努めて明るく応じる。
「絶対帰る。ドロシーも一緒だ。斑食虫は今も洞窟から出てきてるんだな?」
「少し数は減りましたが、まだ出てきています。空が黒くなる程度には、大量に出てきました」
「わかった。また連絡するから、なんとかーー」
「ガァ、っく、ごふっ」
嫌な音。耳にこびりつくような、ねちっこい音だ。肺の空気を無理矢理捻り出したような。擦れた呼気。
「シアラ? シアラ、どうした!?」
「に、兄さん。ごほっ、ごほっ。だ、大丈夫です。ーー斑食虫だけじゃない、です。灰色の、大きな、蜘蛛みたいな生き物が、何匹も出てきました。これ、魔造生物ーー」
魔造生物。
苦痛好む真理が探し求めていた造器は、この遺跡にあるという推測だった。遺跡と造器が関わっているなら、そして斑食虫と遺跡が関わっているなら、斑食虫と造器もーー魔造生物も、関わっていると、考えるべきだ。
連動している。理由は分からないが、見えない因果関係がある。
「ーー二人、死にました。助けられなかった」
「いい、いいから。助けようとするな。シアラ、頼むから自分の命を優先してくれ」
「でも、私みたいな人、いない方がいいんです」
「そりゃあ、そうだけどさぁ」
俺の方が泣きそうになってた。みっともない。情けない。けど、仕方ないじゃないか。抑えられるものじゃない。震えて、恐がりで、ボロボロのシアラが、なんで、他人を守ってやらないといけないんだ。
どうして、戦える彼女の心は、なんで、誰も守ってやらなかった。
不公平じゃないか。まるでーーまるで、綾乃みたいじゃないか。
「とにかく、私は頑張ります。だから、兄さんも、頑張ってください」
「……わかったよ。できるだけ急いで向かう」
「待ってます、兄さん」
呪文を切った。繋ぐことはまたいつでもできるが、維持するのは難しいからだ。こちらの会話がシアラに伝わっても、不安をあおるだけだ、という考えもあった。奇妙に冷静な部分が頭の中にあって、それとは相反する、焦燥感に焦がされている部分もある。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
けど、やることは変わらない。情報は、少し増えた程度だけれど。
何が起こったのか分からず怪訝な表情のドロシーと、不安そうな面持ちのユーリさんとアリシアさん。俺は三人に、地上のことを伝えた。




